その名はノイジ−3

    笑子は絵美を連れて入間基地に出掛けた。

 イヴァノフ大佐の口利きで庶務の仕事が見つかったのだ。

 行き掛かり上、絵美の後見人になった笑子が付き添って行く事になったのだ。

 絵美は昨夜から笑子の実家に泊まっている。

 川越から入間までは車で20分少々で行ける。

 ゲートでイヴァノフ大佐から聞いた『仁科』という名前と所属を告げると中年の門番は、それまでの横柄な態度から急に改まり「少しお待ちください」と興奮気味に言った。

 門番は電話で『仁科一佐をお願いします!』とかしこまって言った。

 何やら電話の向こうでは様々な質問をしているようで門番は『ハイッ!』、『分かりません!』、『仰るとおりです』と緊張して応答している。

 笑子の後ろに車が連なっている。

 「どかなくていいのかな?」

 笑子は心配になってきた。

 受話器を置いた門番は小屋から出て笑子に事細かく道順を説明した。

 ほんの数十秒のやり取りだったが笑子には数十分に感じた。

 車を走らせ始めると笑子は、それまでのやり取りが妙に可笑しく思えてきて思わず吹き出した。

 そして絵美の方を見て「笑っちゃうよね!」と言った。

 その時絵美の緊張した顔が笑子の目に飛び込んできた。

 先ほどの門番以上に、というよりも、まるで今から処刑される脱走兵のように顔は蒼ざめ刃がガチガチ音を立てて鳴っていた。

 全身は悪寒が走ったかの如くブルブル震えている。

 驚いた笑子は車を止め「大丈夫!?」と聞いた。

 絵美は笑子の顔を見ながら黙って震えている。

 何か声を出そうとするが体が言う事を利かないようで、その様子が笑子には良く理解できた。

 額には玉のような汗がしたたり落ちている。

 不審に思ったのか警備兵が車に駆け寄ってきた。

 「どちらまで?」

 運転席の窓を開けた笑子に兵士は優しく尋ねた。

 しかし彼の顔は笑ってはいない。

 「済みません!仁科さんの所に行こうと思っているんですが、この子が急に具合悪くなって…」

 笑子は有りのまま話した。

 「ここは駐停車禁止なんですが具合が悪いのなら仕方有りませんね。待っていて下さい」

 彼はそう言うと携帯電話を取り出し救護室に掛けた。

 「直ぐ来ますから待っててください」

 彼はそう言うと立ち去った。

 絵美は相変わらず無言で震えている。

 心配になった笑子は絵美の額に手を当てた。

 熱は無いようだ。

 その時けたたましいサイレンを鳴らして救急車が笑子の車の前に来て止まった。

 降りてきた救急隊は笑子に「患者を中に」と言って救急車を指差した。

 指示されるまま絵美と笑子は救急車に乗り医務室のある建屋に向かった。

 髭面の医師が黙って絵美の胸に聴診器を当てた。

 そして右手で絵美の右目の瞼を広げて診た。

 次は左目、そして喉の奥…

 ひと通り診終ると絵美に向かって

 「お嬢さんグラマーだね!オジサン興奮しちゃった」

 とおどけて言った。

 その表情が可笑しかったのか絵美はケタケタ笑った。

 まるで今までの緊張がウソのように表情は明るかった。

 「まあ、一種のショック症状ですな。良く居るんですよウチの兵士にも」

 医師はパラシュート訓練などでパニック症状を起した兵隊や野外戦闘訓練で初めて聞く大砲(もちろん空砲)の音に気絶する兵士などの話を面白おかしく話してくれた。

 「北野さんは暫くベッドで休んでいた方がいい。そうそう!河村さんは仁科一佐の所に行ってください」

 医師はそう言うと傍に居た看護師に絵美を任せ笑子を同じ建屋の中の応接間に案内し、直ぐに立ち去った。

 ふかふかのソファーに座った笑子に黒縁眼鏡を掛けた若い女性事務官が「コーヒーにしますか?それとも紅茶が宜しいでしょうか?アイスも出来ますが」と訊いてきた。

 「どうぞ、お構いなく!」

 笑子はつい緊張して言ってしまった。

 すると憮然とした彼女の顔に笑みが浮かんだ。

 「チーズケーキも有りますよ」

 彼女は微笑みながら言った。

 その頃桶川では大騒ぎになっていた。

 とはいっても騒いでいるのは長沢と太田だけだった。

 「絶対おかしいよな!」

 「いや、オレには間違ってはいないように見えるけど」

 「自分で作って言うのも可笑しいけど、絶対に間違ってるよ」

 事の発端は長沢が笑子に依頼されて作ったスペクトル解析プログラムのテストランで思いも寄らない結果が出たのだが長沢は何処がおかしいのか分からない。

 太田もデータとプログラムを睨めっこしているが長沢同様分からない。

 「しかし原子量500の元素なんて有り得ないぞ!」

 「でも、このパターンは今まで見たことの無いものだし…」

 太田は地球を周回する地獄耳が収集した謎の星団のデータは正確だと判断した。

 その根拠はカニ星雲の観測データが彼が知りえるカニ星雲の情報とピタリと一致したからだ。

 そう説得されても当の長沢は納得がいかない。

 現在('08.07.26現在)確認されている最大の元素の原子量は314、しかしそれは加速器の中で一時的に発生させたもので一瞬にして消え去る脆いものである。

 それよりも遥かに大きい500という原子量の元素が安定して存在する理由が見つからない。

 2人の会話は杉原と島野にはサッパリ分からない。

 というか長沢の解析結果が確定しないと星間図の作成に着手できないのだ。

 長沢・太田の議論は昼過ぎになっても白熱し決着の付く様子は見えない。

 待ちくたびれた杉原と島野は車で近くのファミレスに昼食を取りに出掛けた。

 そこに笑子から電話が掛かってきた。

 絵美の面接が終わったから帰って来るとの連絡だった。

 「あっ!河村さん、入間基地には管制塔が有りますね。申し訳ないですけどレーダーの記録を一部貰って来てはくれませんか?何処でも良いんです」

 太田が言った。

 しかしレーダーの情報といえば重要な機密事項だ。

 そんなもの簡単に「ハイどうぞ!」と貰える訳は無い。

 「無茶言わないでよ!」

 笑子が言った。

 「『京大の村上研究室』といって仁科一佐に頼めば大丈夫ですよ」

 太田が言った。

 笑子には、その仁科が苦手だった。

 というのも絵美が総務で面接中仁科は笑子に『地獄耳』の事を聞いていたのだ。

 重要機密を友好国とはいえ外国の軍関係者には、ひと言たりとも漏らす訳にはいかない。

 そんな訳で、ようやく逃げ出せた入間基地に再び『戻れ』と言われても素直には応じる訳にはいかない。ましてや極秘情報を『くれ!』とは言えるはずが無い。

 「もう、煩いな!」

 笑子はとうとう頭にきて怒鳴った。

 「煩い?」

 太田の声も変わった。

 それは明らかに怒っている。

 しかも可なり。

 「ゴメン!」

 笑子はすかさず謝った。

 「流石は河村さんですね。そこまで思いが及びませんでしたよ」

 「へっ?」

 太田の思わぬリアクションに笑子は固まった。

 「おい、ノイジー(煩い奴)、良いだろ!河村さんが名前付けてくれたよ」

 太田は興奮して長沢に言っているようだ。

 そんな訳でノイズの発生源の見えない星団の名前はノイジーに決まった。




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