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■小島志塾と小島志ネットについて−小島慶三先生と小島塾と私− 山本克郎(2006.11.27)
 初めて、小島慶三先生のお名前を知ったのは、シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」が出版され、その監訳者が先生だったからです。大学の先生ではない、経済同友会の幹事をしている経済人がこのユニークな魅力的な本の監訳者であることに私は大変興味を持ちました。

 それから暫く時間が経過して旭川の斉藤牧場を舞台にして「農業と環境の緑陰セミナー」を計画したときに基調講演を何方にお願いするか思案しました。是非、小島慶三先生にお願い出来たらよいと思って、木呂子敏彦先生に相談してお願いしました。小島先生が旭川に調査にこられた折にお目にかかり、緑陰セミナーの趣旨と目的をお話して斉藤牧場にもご案内してご覧頂きました。小島先生は緑陰セミナーの基調講演を引き受けて頂き、農水省の篠原孝さんにもお話しして頂くことができました。お陰で全国から多くの人々が集まり、1泊2日の全国規模のユニークな緑陰セミナーを旭川の斉藤牧場で開催して好評を得ました。このお陰で農業問題や環境問題に取組んでいる優れた人々を知り交流する契機となりました。その折に小島塾のことを伺い、以来20年になりますが、北海道小島塾を開くお許しを得てこのご縁をいただいてきました。


 1994年小島塾全国研修会が秋田と青森の合同で開催され、1995年は熊本で開催されました。1996年は30周年とのことで小島塾全国研修会北海道大会を開かせて頂きました。この折に浜田輝男さん、只石幸夫さん、荒木毅さん等の人々と相談して、「北国からの一つの試み」として北海道からの発信をしました。一番好評だったものに一つが「北海道経済の障害:高額航空運賃を引き下げるプロジェクト」として羽田の滑走路整備によって増加する離発着枠が新規参入会社に配分するという規制緩和、航空自由化の動きがありました。その動きを察知して「北海道国際航空株式会社」を立ち上げ、自前で経営することで「格安運賃」を実現しようと試みるものでした。この研修会で高い評価を頂き、「是非とも実現をという励まし」がその3ヶ月後会社設立へと具体化していきました。
 運輸省・航空局はその年新規参入を認めるという方針を出したものの矛盾だらけで、その対応策は酷いものがありました。当時小島先生が参議院議員をしておられたので、窮状をお話しして参議院予算特別委員会で追求して頂いたこともありました。会社設立して2年後の12月20日就航しますが、JAL・ANA・JASの大手3社が公正な取引きに反する卑怯な価格競争を仕掛けてきて就航間もないADOは搭乗率が下がり窮境に陥ります。政官財の癒着は根深く、運輸省も公取委もさっぱり役に立たない存在であることが実証されました。そんな苦い経験の中でもいつも励まして頂きました。


 小島慶三先生は一橋大学を卒業後商工省に入り、敗戦後の日本経済の復興に尽力され、日銀政策委員などの要職を最後に経済界に転進されます。実業の傍ら大学で教鞭を執られるなど人財育成に深い関心を寄せて来られ、背広ゼミを継続しただけでなく、より広い知識人の育成に務められました。小島塾では環境問題では地球白書の著名なワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウン所長を招聘されて講演会を開かれたり、国際政治の分野では東京小島塾の例会にペンジャミン・フルフォード氏を招かれたり世界的な視野で貴重なお話しを聴かせて頂きました。記憶に残る一つにもう亡くなられましたが、一橋大学の学長をされた阿部謹也先生の講演を伺い、「教養」について一緒にお昼を頂いてお話しをした事が思い出されます。


 先生の現役最後の舞台は政治でした。これにはみんなが吃驚しました。細川護煕氏が日本新党を旗揚げして、閉塞状態にある政治の革新をめざして立起しました。政治家とは無縁だった小島先生が細川氏の要請もだし難く、折からの参議院議員選挙に全国区から立候補されることになったのです。北海道小島塾にも日本新党のポスターやチラシが送られ、細川党首は公示になると選挙の第一声を北海道で上げるので初日札幌に次いで旭川に来られて平和通買物公園で演説されるとの知らせが入り、始めて身近に選挙に関わることになりました。これらも思いがけない経験となりました。


 このように私の50代後半から70代後半までの20年は小島先生との出会いは小島塾とその塾生の方々との出会いを造り、更に様々な人や事柄との出会いを生んで、北海道では出会えない多くの人々との出会いとなり、知識や思索の幅を広げ、奥を深くして頂きました。つくづく思う時感謝に耐えません。
 振り返ってみると高度成長期以降人々の暮しも仕事も変化し、社会の移り変わりの速度が速くなって、人を取り巻くご縁、地縁も血縁も社縁も薄れて、人間関係が年々貧しくなり、孤独になってきました。大局観が亡くなりつつあると指摘されますが、社会変化のスピードが加速するにつれて、人々の視野は狭まります。自分のことしか考えられなくなる人々が増えて社会は混迷の度を深めています。
 このままでは、自然環境の破壊が進み、社会システムの破綻が危惧されます。暫しの間、立ち止まって、社会のことや自分(人生)のこと、仕事のことや暮しのことをじっくりと深く考えてみたいものです。そうして物の見方、感じ方、考え方を問い直して生き方を探求してみたいと思っています。しかし一人だけでは難しいことがあります。自立から連帯へ、共通の課題をお互いに論じ会ってよりよき結論を探求していくことは楽しいことだと思います。そういう意味で小島志ネットワークを提唱しました。


 長らく学校の現場で働いてきましたが、子どもを、学生を育てるには「知る楽しさ、学ぶ喜び」を如何に実感させて、彼らが自発的に主体的に能動的に自学自習への道を拓くかにあります。「事実を知ること」が見方を変える第1歩です。それが感じ方も考え方も変えるステップとなり、それは生き方を変えることになります。「事実を知り、見方を変えること」が幸せへの道を拓きます。
 知ることから判ることへ、「納得」することへ変わるためには、頭の中だけで、知識の上だけではなく、実行する、実践することが必要です。体で実感することが大切です。
 教室で机上の学問だけでは知ることが出来ても、判ったことにはならず、納得するには至らないものです。従って、学校はもとよりどんな職場でも家庭でも人材育成にOn the Job training が不可欠な要素であ り、知る楽しみ、学ぶ喜びを身体で味会うようにすること、そのためのチームワークが一番大切だと思います。


 柳平彬氏はわが国の人財育成は「Education」を教育と大誤訳したことに起因しているという説を提起しています。これは重要な問題提起だと考えます。昨今の「教育基本法改正」の議論や「高校の指導要領を巡る必修漏れ」のやり取りを読む限り、近代に始まる学制とその後敗戦に至る「教育」の果たした役割、戦後占領下の学制改革と半世紀に及ぶ学校現場の混乱を見る限り、失敗の経験から学び「Education」の大誤訳を正す事の必要性を痛感するものです。


 北海道小島塾は20年になりますが、小島志塾札幌も10余年になりました。「年々歳々人同じからず」で私も今年で78歳です。この辺で幕を閉じるべきかとも考えましたが、日本でもユニークなこの塾を後々も継続して頂ければと考え直しました。同時にこれまでの延長線上ではなく、新しい出発として小島志ネットの開設を契機として北海道、札幌の小島志塾も新しい年から新しい旅立ちをと考えています。これまでを振り返り、現状を見詰めて、明日へ向けた塾の在り方を論議して下さるようにお願いします。
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