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 小島慶三先生が小島塾を始められたのは昭和43年、1960年代で、それから38年続きました。数年前に「志」を入れて名称を「小島志塾」としましたが、2006年6月、小島先生は、ご高齢のため塾を閉じることにされました。そして、小島志塾の志を引き継ごうと塾生が中心になって「小島志ネット」をスタートさせることになりました。小島先生は、どのようなお気持ちで「小島塾」を始められたのでしょうか?小島先生のお書きになられた由来記をご紹介いたします。磯浦康二 (2006.9)


※この原稿は磯浦氏がまとめ、ホームページに投稿いただきました
■「次世代のトリガー・小島塾」 小島慶三 (1991年頃の日本工業新聞より)
 
 近頃の若い者は、と私ども若い時には、二言目には言われたものだ。最近でも、若い人の将来に懸念をもち、次の世代には日本は一体どうなるだろう、と言われる方も少なくない。だが私はそうは思わない。むしろ次世代の人たちに期待することすこぶる大である。なぜか?それを書こう。


 私は昨年までいくつかの大学の教壇に立っていた。非常勤講師というあれである。
 最長の上智大学では、実に27年にわたって務めた。最短2年のみの一橋大学はむしろ例外で、成蹊大学や年2回集中講義の名古屋大学なども10年に及んだ。
 そこで教えた若い人は数千人に及ぶが、その人達と長いつき合いができるわけではない。しかし、就職の世話や仲人を頼まれた人、またゼミの連中はちがう。卒業後も手紙の往復があり、仕事や身上の相談、また会合のチャンスもある。そのゼミの一回生の連中、小山、小川、町山、秋元、またかれらの先輩格の最首、坂井の諸氏が中心となってつくったのが小島塾だ。実はゼミも一回生の発起だった。


 小島塾は毎月一回、第二月曜日、夜6時半から集まって食事をし、主として私が講義。その後、侃々諤々の議論ということになる。いわば背広ゼミ、これが20余年続いている。
 世の中の移り変わりは誠に激しい。社会のニーズや価値観の変化も大きく、産業や技術の垣根は低くなり、ビジネスや組織も弾力性を欠くことはできない。その点、塾のメンバーは交流による相補性をたのむことができるし、私にとっても、若い人の見方やビヘイビアに学ぶこと絶大であり、それを実証として私見をまとめることもできる。


 10数年来、一つ覚えのように主張しているヒューマノミックス(人間復興の経済学)がその良い例である。ドラゴン商会の小川弘徳君の家業アンチモン鋳造の技術は、飾職から美術工芸、いまに生きる古来の内発的な技術である。
 塾の顧問格である大陽工業グループの酒井邦泰さんは、分社制の提唱者だが、その家業は、からくり師から精密機械、そしてエレクトロニクスへと継承発展、開花してきたもの。


 シューマッハーの所謂インターメディエイト・テクノロジーの青い鳥は日本にある、と私が確信したのはここが原点。私もそのような伝統技術と近代技術の接木のためにも、先頃までテクノマートのネットワーク形成に努めてきたが、この分野は、塾の前川守君がすでに独力で開拓、幾多のみごとな技術移転の実績をあげてきている。
 シューマッハーのスモールの哲学が生かされるのは日本だと、私は思っている。私はまた、袋だたきされている農業にも、未来があると確信している。そのための生命技術コンプレックスを提唱、当面の仕事でもこれを国づくり、地域おこしのデザインに取り入れたい、と思っている。それが実って、秋田、岩手、熊本、北海道と小島塾がひろがり、青森、埼玉、鹿児島にもつくられることになった。


 近年参加された田浦宗嗣氏は、阿蘇で農牧林のミックス農場を経営するほか、農業施設やシステムの国際トランスファーに活躍、熊本小島塾のリーダーでもある。松下隆映氏は、農業青年の国際交流と意識改革に大きな成果を上げている。
 また顧問格の由井克巳さんは信州の林業名門の出、ヨシモトポールの社長として、クリーンな養豚の一貫システムや観光牧場の経営へとハッスルしている。岩手、埼玉塾はこの人が展開。
 著名な外人広報課長として林原生物化学研究所のバイオ化学の発展に一役買っているパキスタンのライース君も塾生の一人。塾の生命系人脈の希望の星である。
 地域社会との共存も年来の主張の柱だが、埼玉で中枢業務都市を推進している飯野雪男、下町タイムスを場として、伝統行事、行動文化、クロスカルチャーの発展に千人力を発揮している今泉清、その盟友としてウオーターフロントの開発に夢をひろげる立川康夫等の諸君。
 国際社会との共存の線では、長老の、イスラム理解では日本のトップに立つ最首公司氏、ベストセラーの仕掛け人から転じてフランスとの多彩な文化交流をみのらせる宮下研一、フィリピンへのサイエンス・パークの扶植に情熱を燃やす大島弘義、母国パキスタンとの貿易ルートを開拓するアキール・シディキがいる。
 また感動、ツヤの時代のパイオニア、最首氏共に海中居住システムや水族館を推進、本草学による長寿元(土壌改良剤)の普及や多様な映像文化を創造する坂井義昌氏、ミュージカルマーケッティングの媒介者秋元征紘、ウオーターベッドを導入、小川と共働する小山修、海底ハウスの一、二号をつくった田中和栄。私の説く地域戦略、企業戦略は、かれらの実践がよりどころだ。
 このほか、組織から飛翔して自己実現の道を求めた人たち。公認会計士として大成した町山三郎、ソフト事業の藤田純一、著述家としての宮内剛男、英語教育に転進した佐藤秀敏。組織人として、メーカー、商社、金融、証券、ジャーナリズム、シンクタンク、研究所でそれぞれ生き甲斐のある仕事を果たしている諸君。海外で奮闘している国際化日本の尖兵たち。みな立派な次世代のトリガーなのである。
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■「小島塾に学ぶ〜ビジネスマンの勉強法〜」 小島慶三 
(1990年頃の日本経済新聞 工藤秀幸氏との対談より)
 
 まず、小島塾をはじめた由来からお話します。昭和37年頃、日銀の政策委員をしていました頃、上智大学から経済政策の講義をやってほしいという話しがあって、お引き受けしました。それから5年ばかりたって、講義ばかりでなくゼミナールもやってほしいということで、喜んではじめたわけです。私は、実は一橋の出身で、一橋時代非常によかったことは、ゼミナールを通じての勉強でした。私は教師と学生とが個人的な肌のふれ合いができるところで勉強するのが一番いいと思っておりましたので、喜んでお引き受けしたわけです。


 それから十何年、講義とゼミナールを続けてきたのですが、今度は卒業生からゼミナールをやってほしいという要望が出てきました。背広ゼミといいますか、そういう要望です。
 ところが、私の方は雑用で忙しいし、講義をするのに適当な場所がないこともあって、伸び伸びになっておりました。ところが、一昨年にちょうど適当な場所ができました。
 そこで、開かれた研究所という目的で「近代化研究所」を作り、その研究所で塾を開こうということになりました。塾を開きたくて研究所を作ったのか、研究所を開いたから塾ができたのか、その辺はニワトリとタマゴのような関係にあるのですが、いずれにしてもそういう経過で、最初は私のゼミの卒業生を中心にはじめたわけです。ところが、だんだんに聞き伝えられて来られる方が多くて、卒業生以外の方にも広がることになり、今はかえって卒業生の方が少ないという状態になっております。


 私は大学でも講義をしておりますが、学生相手のゼミナールと、ビジネスマン相手とでは、手ごたえというか、反応が相当違います。これは一人ひとりが、組織の中での立場でも、自分で仕事をやっている立場でも、非常に問題が切実なのです。企業社会の中で生き抜いていくためには、我々の企業はどうしたらいいのか、どうしたら変化する方向に適応できるのかというような角度は、ちょっと学生にはありません。そういう意味で非常に切実です。しかし逆に一つひとつの問題の受け止め方が一人ひとり違いますから、その違いに応じて、あなたに対してはこういうガイダンスが必要だ、この人に対してはもっと別の感覚のビジョンが必要だという見分け方がむずかしいのです。
 企業を離れて集まると、人間味のある交わりを持ちながら学べるという効用があります。そういう意味で、私のやっていることがきっかけになって、一人ひとりが勉強する姿勢を作ってもらいたいというところに最終の狙いがあるわけです。その点ちょっと、今のままでは手が届かないかな、という感じはしていますが・・・。


 私は近代化研究所を作って塾を開いたわけですが、私にとって何故近代化というのが関心事かと言いますと、以前、日本精工という会社におりました時に、海外関係を担当して45カ国ほど歩きました。いろいろ商品の輸出もありましたし、プラント輸出もありました。工場の進出もあったのですが、どこへ行っても、日本はどうしてあのように早く近代化ができたかということを聞かれます。そこで、教育がよかったとか、明治の人は偉かったとか言うわけですが、考えてみると、我々はその経緯はよく知りません。そこでもう一度維新史を勉強しなければと思いました。
 維新史をやっていると地方史もみなければなりませんし、産業史、技術史、また郷土文化も考えなければなりません。古文書も読まなければならないので、私も古文書を習いに通いました。
 それから書誌学といったものも必要になってきまして、その波及効果は非常に大きいわけです。維新史の裏返しとしての近代化論、そちらの方から比較文明史とか東西交渉史も多少勉強しました。そういったものをある角度からとらえるという励みができました。
 産業構造論とか産業政策史とか、これはもともと私の勉強の領域であったのですが、そういうもの、あるいは日本的経営のあり方、地域経営、最近のいわゆる中間技術の理論、地場産業、クラフト文化の問題、いまもう一つ、研究所において、さきにふれたヒューマノミックスの研究会というのを別にやっているのですが、それに繋がるような問題意識がつぎつぎと出てきます。私の塾の人たちも、自分は何か一つこういう点をというのがあったら、そこから気長く勉強のテーマが広がってくるわけですから、そのテーマを自分で発掘してつかまえてほしい、と思っているわけです。

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