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  「小島慶三先生をしのぶメッセージ」
小島志ネットの会 会員各位         
 
 小島慶三先生のご逝去を悼み、謹んでご冥福を祈ります。
 「8月30日午後3時頃小島先生が卒然と亡くなられた」との電話を磯浦さんから頂き、7月22日に先生をお訪ねした時のことを思い出して大きな衝撃を受けました。それは、18日プレスセンターで開催した農業と食料の講演会の模様を収録したDVDを持って、「くらら」をお訪ねした時のことです。


 先生は講演会の模様を聞かれて大変喜ばれ、「それはよかった。こうなってみるとピンチはチャンスでもある。減反を止めなければ、自給率の向上は覚束ない。米は日本農業の大事な問題です」と。先生は眼がご不自由なのにも関わらず、毎日テレビやラジオを聴かれ、新聞や雑誌は読んで貰って、日本と世界の動向を見据えておられました。


 農業問題、食糧問題から環境問題まで、北海道洞爺湖サミット、北京オリンピックなどにも触れて「ヒューマノミックスが日本を救う。そういう時代になった」その意味でKJK netが軌道に乗ってきたことを喜んで頂きましたが、お暇するとき、先生は「日本がこのような状態で、私は死ねません」と凛とした表情でお話しになりました。
 そのことを思い出して、深い感動を覚え、微力ですが、みんなと力を合わせて、小島先生の志を継がねばと改めて思いました。


 ご葬儀は、先生のご遺志でご家族だけの密葬で行われましたが、ご家族のご了承を得て、先生ゆかりの方々と「小島慶三先生を偲ぶ会」を催すことになりました。会員の皆様に於かれてはご多用中とは存じますが、万障お繰り合わせの上ご参会下さるようお願い申し上げます。
 亡き先生を慕う多くの縁の方とともに会の皆様のご参加を得て、この日が、改めて「小島慶三先生の志を継ぐ」スタートの集いにしたいものと思います。
 なお、ご都合でご参加が難しい会員の方々からも、小島先生をお送りするメッセ−ジをメール、手紙、FAXでお寄せいただければ幸いです。


KJKネット代表幹事 山本 克郎
投稿いただいたメッセージをご紹介します。しのぶ会参加ご返信の葉書等にお書きいただいたメッセージも紹介させていただきました。
 
 →KJKネット会員の方からのメッセージはこちらから
 →しのぶ会参加ご返信(お葉書、メール)によるメッセージはこちらから
KJKネット会員の方からのメッセージ (投稿順)
「小島慶三氏の追憶(1995年の創造農学研究会例会)」
創造農学研究会・樺n域事業研究所 山代 勁二(KJKネット会員)

小島先生は、小生の主宰する創造農学研究会(since1993)にも何度か足を運ばれてご交流いただいておりました。当会の履歴を洗いますと、貴重なご発言記録(テープ収録)が多々ございます。
それらをいずれの日かテープ起こし作業するとして、会へご参加されたその一端を、追憶て写真の形でご紹介申し上げます。

(→右の画像をクリックするとPDFが開きます)
2008年10月16日
「くららで合唱と朗読の思い出」
小島 成一(KJKネット会員)
 
紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏(とり)鳴きぬ
見よ明の空地平線 希望(きぼう)の鐘の響く里
橋人うまず築き行く 自由の砦(とりで)自治の城

『紫紺の闇』(「一橋歌集」叔父の親友 依光良馨作詞寮歌)


 世田谷「くらら」の一室で、慶三叔父と甥成一(旧制中学・大学同窓)とが依光先生の歌を、よく合唱しました。同学の故あってか、叔父はしばしば朗読の前に「成ちゃん、歌おう!」と誘いました。好調の時は、続けて会歌「長煙遠く」に及ぶと、「フレー商大、フレー商大、フレー、フレー、フレー」とボート部時代を思い出し、暫しの感慨に耽りました。発声は健康に良いと愚考したものです。


 何回目かの入院の際、「成ちゃん、今度はあかんと思うよ」と言われたことがありました。その時は九十五歳の天寿を全うした、叔父の母方の祖母を引き合いに出して、懸命に励ましました。回復した後「この分なら、百まで行けそうな気がして来たよ」と言われ、すかさず「そうです、叔父さん、その通りです!」と応じました。


 ここ数年、私は週一回、朗読の為に訪れたのですが、最後は、亡くなる二日前でした。対象としては「小島塾」諸先生の著作・論文・会報をはじめとし、「統計研究会」記念出版物(篠原三代平先生著作)等の経済学から、農学、社会学、宗教学、哲学、文学に及ぶ広範な領域にわたり、また役所、NSK、日銀政策委員、参議院議員時代から、政財界、世界情勢へと話題が尽きませんでした。合間には、大家族だった小島家の追憶談、中学〜大学時代の恩師、友人の話をしました。


 しかし何と言っても、自ら主宰した全国展開の「小島塾」が、叔父の心の支えであり、誇りであり、畢生の大事業でありました。それこそ、随処にご縁のできた諸先生方との親交が、晩年になってまで広がる輪となり、「くらら」にお揃いでご光来下さった折も、それは喜んでおりました。この度、「しのぶ会」ご参会の皆様に、衷心より感謝申し上げます。
 幽明界を異にした今、天上にあって、顕界を見下ろし、莞爾と微笑む叔父の冥福を祈り、擱筆致します。


2008年10月16日
「小島先生は緑の風になって・・・」
元参議院小島事務所 政策担当秘書 磯浦 康二(KJKネット事務局長)


 テレビの国会中継で「民主党・新緑風会を代表して・・・」という会派名を名乗る声をお聞きになったことがあると思いますが「新緑風会」という会派名を命名されたのは小島慶三先生です。


 戦後間もなくの昭和22年、初めての「参議院」選挙の後、衆議院と違って参議院は「良識の府」だから党派色が薄い方が良いと、院内会派「緑風会」が結成されました。党議拘束のないゆるやかな集まりでしたが、昭和30年代半ばに参議院も党派色が濃くなり自然消滅してしまいました。


 小島先生は、平成5年7月から日本新党の参議院議員として活動されましたが、平成6年に「日本・新生・改革連合」と「民社党・スポーツ・国民連合」の少数会派の37名の議員が統一会派を結成しました。
 そして、会派名を検討した時、小島先生が「参議院は良識の府であるから、かつての緑風会にあやかって“新緑風会”としてはどうでしょう」と提案され、その案が通り院内会派「新緑風会」が誕生しました。現在でも「民主党・新緑風会」として、小島先生が命名した会派名は生きています。


 小島先生はこの「新緑風会」という名前がとてもお好きでした。
 小島先生はあの「千の風になって」の歌のように「緑の風」になって、今も、私たちを見守ってくださっているように思います。

2008年10月15日
創造農学研究会・樺n域事業研究所 山代 勁二(KJKネット会員)


 小島先生とは、たくさんの思い出があります。提慶会(アークヒルスの会・・技術小島塾)で月一回の会合や創造農学研究会の例会などで、1990年から2000年までは親しくお付合いさせて頂きました。また鹿児島や鳥取小島塾の皆様とのご縁も頂戴致しました。


 船橋の「くらら」に移られたここ数年は、私の自宅からバスで通えることもあって時々お見舞いに訪れておりました。
 もっとも最近の、すなわち最後のお見舞いは、今年の8月7日(木)でした。お邪魔した午後の時間はお昼寝をされていましたが、実は音量を絞ったテレビに耳を傾けていらっしゃいました。普段と変わらない静かな日常のように思われました。体は夏の暑さのせいか、だいぶ弱られていた感じでしたが、いつものように大変喜んでいただきました。


 お話ししたのは30分程度でしたが、私がお持ちした西洋トマト(伝統トマト)を手に取られ、その感触を楽しまれながら「地産地消ということをもっと掘り下げたかった」といわれたのが印象的でした。
 退去するとき、先生から、電話でもっとお話しがしたいので、ベッドのそばに電話番号を大書した紙を張っておいて下さい」といわれました。ご気分のいいときに電話でもっと話がしたいので、ということでした。結局、先生からの電話はありませんでした。


今、私も老境にいたり、これまでおつきあい頂いた人々とのご縁を大切にしながら過ごしてまいりたいと思いますが、そのなかでもとりわけ小島塾の皆様との交友はわたしの人生の宝だと認識しています。
2008年10月15日
「生きる知恵に 恵まれる」
峯浦 耘蔵(宮城 KJKネット会員)


 岩手、宮城の地震のお見舞い電話を、6月24日に、留守電に2回とも、記録されていました。早速ご返事を受けて頂きましだが、耳が遠く、眼が見えないはず、呼吸も声も弱弱しいお見舞いを受けましたが、その老躯を持って、私たちのことまで、ご心配する、生きることの素晴らしさを、あらたにしました。
 そのお元気も、8月30日に亡くなられたとのご逝去の報に接し、「有り難う、せんせい」とお声を添えながら、お偲びします。


 小島先生と出会い以来、人生の豊かさを感じ、お会いが楽しみでした。「文明としての農業」はじめ、経済からの視点だけでなく、生き方を教えられました。私も、北福岡中学校の先生のまま、兵役に従事しましたのですが、復員後、「百姓、つげな(農家の長男は、農業を引き継ぐ伝統です)」と、祖父に言われ、私で6代のこともあって、農業に従事、多くの方々に励まされながら、村で暮らし続けました。
農業実習生として、西ドイツに派遣されまして、村を心に、教育から教会までの生活に接しました。帰国後、農業基本法に基づく村つくりに参画できました。小島先生との出会いにより、生きる知恵にも恵まれ、悔いの無い人生になりました。


 お見舞いに参りましたKJKネットの皆さんに、先生の残した言葉「今なら、まだ日本は間に合います」を、お伝えいただきましたが、これからの先生を偲ぶ合言葉ともなりました。
 戦後、円が氾濫した、インフレの終末が、国民の最大関心事でした。新円切り替えの1946年2月、戦後インフレ対策として行われた、証紙を張って新円に流通した、金融緊急緊急措置例の案を創作されたのが、小島先生という実話が残されている。先生の喜寿の祝いのときに、同窓の学長さんが、披露されました。敗戦国での、通貨政策をみごとに乗り切ったものです。


 先生の講座で、不耕起栽培を10数年も前に出会いましたが、今、「ふゆみずたんぼ」として、環境問題に結びつき、冬水を張って、渡り鳥を招き、無化学肥料、無農薬、無除草剤で、通年潅水しての水田が、地球温暖化まで機能することが、世界の話題になりました。
 米が主食の糧だけでなく、地球環境の正常化に、寄与する時代に向かっています。農民も生きられる明るい世紀ともなったのです。


 小島先生を、お偲びしながら、KJKネットのみなさんと、思い出を、語り続けたいものです。
2008年10月9日
「小島慶三先生の想い出」
永瀬 秀雄(瀬戸内小島志塾)


 ここに謹んで小島先生のご冥福を心からお祈りいたします。


 私が初めて小島先生にお会いしたのは、鳥取での小島塾全国研修会でした。
 研修会の二日目に大山に宿泊した際、お風呂場でお二人きりで、お話しすることができました。その時先生は、確か喜寿をおむかえになったお年ではなかったかと思います。
 先生のお体の足と腰にはたくさんの消炎鎮痛剤をお貼りになっておられたことを、記憶しております。ご高齢にもかかわらず、全国の仲間のために痛みをこらえてご参加頂いている老師のお姿をかいま見たように思います。


 その後、二度ほど岡山や倉敷においで頂きましたが、そのころから、長距離をお歩きになる場合は、車いすが必要になったように思います。
 私は、先生のお若い頃を存じませんが、先生はボートで鍛えた体だということで、お体には特段の自信をお持ちであったと、奥様からお聞きしたことがあります。このため、これから先もお元気で、私どもをご指導頂けるものと確信しておりましたが、突然の訃報に接し、91歳のご高齢とはいえ残念でなりません。


 しかし、先生のご遺志は全国の小島志塾でこれからも継承されていくことと思います。特に、農業を巡る問題が噴出する昨今、「ヒューマノミックス」の精神が必要とされるとき時ではないでしょうか。私どもは、先生のご遺志を継承発展させることをお誓い申し上げます。 どうかお見守りください。


合掌
2008年10月7日
「小島先生への弔辞」
加藤 春一(小島志塾会員)


 小生は商社から人材紹介事業の仕事に変わって10年経過しました。その間 企業や大学生を相手に講演を数十回に亘って行ってきました。その際、10回転職し政財官学の重要な仕事をし80冊強
の本を執筆した尊敬する日本を代表する先生、と紹介させて頂きました。
 以下小生にとって印象深い5点を紹介させて頂きます。


1・特に生産性本部代表団で中国の橙正平副首相への中国近代化政策の提案で中国が近代化に
大きく飛躍したこと。(あるとき家内が中国の成長が凄いことの本を読んで差し上げたとき少し良い政策提言をしすぎたかなとコメントされたそうです)


2・小島塾の湘南での塾で当時の日経元常務が講師として先生のことを触れられて、竹下元首相が
日本で唯一の政策を立案できる能力を持った政治家(政治や)ではなく政治家(政治か)であるという
コメントを聞いたこと別添参照:WORDファイル


3.小生がパースの駐在から帰国したときにパースは世界一美しい町だからこのタイトルで本を書きなさいといわれ、1991年に巻頭語を先生に書いて頂き出版できたこと。

4・昨年日本のエネルギー問題で時世代のエネルギーに付き質問したとき中期的には原子力の比率を増やす選択肢しかないであろうとの示唆を頂いたこと。


5・最後に先生が眼を不自由にされた8年前から、家内が毎週1度先生の希望する本を読んで聞かせていただいた事。(家内から常に先生の見識と高い人格の話は聞かされていた)


先生のご冥福を心からお祈り致します。
2008年10月7日
東京エグゼクティブ・サーチ株式会社 取締役
テスコプレミアム・サーチ株式会社 代表取締役会長
「小島先生の叱咤激励に感謝」
安原 和雄(小島志塾会員)


 小島先生の随想集「ふらぐめんて・その二」(平成15年10月刊)に「足るを知る」と題する一文があります。これは私が小島志塾の例会で話をさせていただいた新しい経済思想、仏教経済学に関する先生の感想です。その趣旨はつぎのようです。


 安原さんから「足るを知る」という話を承った。「足るを知る」とは知足安分のことであろう。安原さんは経済学で言う「成長」を「貪欲」ととらえ、さらに「成長は暴力に、また非道徳に陥る」という論を展開した。これは今アメリカが市場経済を唱えてイラクに対し、戦争という暴力をほしいままにしている現状にもあてはまる主張である。
 日本も、経済成長=暴力=非道徳の動きにどっぷりと漬かってしまうことは明らかだ。安原説は、シューマッハーの仏教経済学もその線上にあるという点でユニークな経済論となっており、私も同感である。しかも現在の成長経済の欠点をどう修正したらよいかという政策論にもユニークなものがある ― と。


 肯定的に評価していただいて汗顔の至りというほかありません。これを先生からの温かい叱咤激励と理解し、心から感謝申し上げます。
 私の構想する仏教経済学は、一般の大学経済学部で教えられている現代経済学への批判から出発し、八つのキーワード、すなわち、いのち、非暴力、知足、簡素、共生、利他、持続性、多様性―からなっています。漢数字の「八」をあえて使っているのは、「八」は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくとの期待を込めてあります。
 今後とも小島先生の遺された著作やシューマッハーに学びながら、仏教経済学(原論と政策論)の構築に精進を重ねたいと思っています。合掌
2008年10月5日
「小島慶三先生を送る言葉」
山本 順子(小島志塾さっぽろ会員)


 小島慶三先生をお迎えして札幌小島塾を開催したときのことをよく覚えております。もう四半世紀も前のことになりますが、今でも鮮やかな印象に残っているのは、ひとえに先生のお人柄、ご人徳によるものと思います。
 その前日私は所用で函館を訪ねていましたが、朝、札幌行のバスに乗りました。そこで先生と初めてお会いしたのです。碩学の先生の風貌、そして穏和な雰囲気、いかにも風流なお人柄の物腰で、“なる程、夫が敬愛してやまない先生”と思いました。


 先生が函館に来られたのは
 “矢不来の野に散華せし弟よ”  【句集うすあかり】
 “銃弾に砕かれ起きて露命絶つ” 【無明の譜】
 “五稜郭甦らせる星の夢”  【句集うすあかり】
と詠んでおられるように、先生の大伯父にあたる永井蠖伸斎の墓参のためで、先生はご先祖の霊を立派に守られておられました。


 先生は国会を去られてから、視力の低下が進行されましたが、思えば参議院議員のお仕事は、相当きつい日々でいらしたと思います。
その中で北海道の翼・エアドウの飛翔にも一方ならぬお力添えを頂きました。
 “エアドウの悲報眠れぬ梅雨しめり”【無明の譜】
大きな感謝です。


 先生は平成十七年小島志塾を閉じられましたが、その後KJKネットが歩み始めております。KJKネット第一回の研修会は生命誌研究館長中村桂子さんの講演でした。生命誌の二〇〇八・年間テーマは“続く”です。
 小島慶三先生の志と思いはネットを通じて会員の皆様の心をとおしてこれからも続いてゆくことを念じ、先生をお送りする言葉といたしとうございます。


合掌
平成20年9月15日
北のくらし研究所主宰
「7月22日小島先生をお見舞いして」
島崎 道子(KJKネット事務局)


 小島志ネット(KJKネット)の第2回目となる講演会が2008年7月18日(土)に日比谷のプレスセンターで開催されました。梅雨も終わりの時季で、開会前までは大雨でしたが、開会の頃には、雨もすっかり上がり、緑が映える日比谷公園を背景にして、講演会が始まりました。


 KJKネット会員・参議院議員篠原孝先生を講師にお招きし、「環境・食糧・農業問題を語る」と題しての講演会には、KJKネット会員22名、会員からご紹介のあった会員外参加者26名、計48名の方のご参加があり、会場は満席。高い問題意識を持たれた参加者からは質問も相次ぎました。またその後の懇親会でも活発な議論が交わされ、KJKネットの新たな交流の場となりました。


 当日、ビデオを担当していました私は、撮影したビデオを早速DVDに録画し、小島先生へお見せして講演会の様子をご報告しようと、代表幹事である父、山本と共に翌週の22日(火)に千歳船橋のくららへ伺いました。東京はちょうど梅雨が明け、とても暑い日でした。
 父が、講演会での篠原先生の講演内容、大勢の参加者が集まり、色々な分野の方が高い関心を持ち、議論も盛り上がり、「まるで東京小島塾が蘇ったようでした」と報告すると、ベッドに寝たまま背もたれを起こして、聞いておられた小島先生はとても嬉しそうに微笑まれました。


 小島先生は、講演会の様子が気になって、少し心配をされていたようでしたが、しかし、父の報告を聞いて、「それはよかった」とくり返しおっしゃり、農業、食糧、環境問題について、今の日本の抱える課題について指摘をされていました。
 残念ながら、お持ちしたDVDプレーヤーの画面はご覧いただけませんでしたが、講演会のさわりの部分を再生し、様子を聞いていただきました。小島先生は「私も行きたかった」とおっしゃられ、「まだ出来る事がある」、と意欲を覗かせておられました。


 大変残念なことに、それが小島先生との最後のお別れとなってしまいました。
 あの日、小島先生が「今なら、まだ日本は間に合います」と凛としておっしゃった言葉が胸に残っています。


 小島慶三先生のご逝去を悼み、謹んでご冥福を祈ります。
平成20年9月14日
21世紀政策研究センター主任研究員
しのぶ会参加ご返信によるメッセージ (順不同)


『しのぶ会』の連絡により、はじめて小島先生のご逝去を知りました。大変残念な気持ちと、ずいぶんとお世話になっていながら、何一つ御恩を返せないままになってしまったことへの、申し訳なさでいっぱいです。


思えば、小島先生との出会いは、著書『文明としての農業』がきっかけでした。環境問題を解決するためには、農業の考え方を生かすべきであると考えていた私にとって、大変印象深く、全面的に共感できる、また、、さらに広い視野と勇気を与えてくれる著書でした。
『農』を忘れた文明は滅びると説き、広い視野から農業の現状を分析し、『生命産業コンプレックス』を提唱し、『農』こそ21世紀型産業であると主張されていました。自分の探していた思想にやっと巡り合えたという気持ちで、読ませていただき、さらにもっと多くを教えていただきたく、『大阪小島塾』を発足させました。
年に3回のペースで、小島先生を迎えての学習討論会を3年間続けました。先生の講演から物事を広い視野からとらえる必要があることを学びました。また私のような浅学の者の意見にもよく耳を傾けて下さり、大変楽しい学習の場となりました。本当にありがたかったです。


数年前、先生が『くらら』に入られたことを聞き、どうしてもお見舞いをと思い、お会いすることができました。大阪によく来ていただいた時ほどの元気さはありませんでしたが、まだまだ新しいことに挑戦される意欲が満々で、お見舞いのつもりで行った私が、逆に叱咤激励されて帰ってきたことが印象深く記憶に残っています。
 『しのぶ会』が小島先生のご冥福を祈る集いとなるとともに、その志を受け継人々の輪を広げるものとなることを、堺よりお祈りしています。
東道 利廣 様


ご案内の中の「風のように去りました」大往生のお別れに万感の感動を覚えました。ご盛会を祈っております。奥様をお大事に。現在「要介護4」で療養中に付き、心ならずも欠席させて頂きます。皆々様によろしくお伝え下さいませ。皆様方の御健康を祈ります。
後藤 隆一 様


先生には生前非常にお世話になりました。拙著への書評、ヒューマノミクス研究会への参加、沢山の書物をいただいた思い出等、数限りありません。最近何度かお電話いただいたことも感激のきわみでした。ただ私も高齢で脚が不自由となり、「しのぶ会」に参加できないことは残念です。ご冥福をお祈り申し上げます。
篠原 三代平 様


1960年通産省に入省、最初に仕えたのが石炭局小島炭政課長。石炭問題が世の注目を集めつつある中で悠々と経済の原書を読まれていたことに感銘。
飛永 善造 様


私は1980年日本生産性本部の中国ミッションに先生と御一緒に参加し、それ以来種々の御教示に預かって参りました。御著書も殆ど送って戴き、先生のお考えに共鳴を感じて尊敬しておりました。御逝去は誠に残念で心から御冥福を祈ります。
歌田 勝弘 様
(元味の素株式会社社長会長 現特別顧問)


成蹊大の資源論で初めてお目にかかったとき、柔らかで上品なお人柄に衝撃を受けました。ずっと人生の憧れであり鑑でした。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
馬見塚 昭久 様


旧通産省の大先輩として、権力とか権威とかではなく磨き上げた知性と卓技な先見性と広い視野で各界の進路を静かに、しかし熱をこめて示しておいでだったことにつねづね感銘を受けておりました。後輩に対してもいつも謙虚さをもって接していただいたことは忘れることのできぬ想い出です。折角の御案内ですが、あいにく海外出張日程と重なり失礼いたします。

松尾 邦彦 様


1969年1月、日本精工で小島専務からアフリカの市場を開拓せよとのご指示を受け、ケニア、コンゴ・キンシャサ(当時の国名)など7カ国をめぐりました。コンゴでは大統領親衛隊の兵卒が夜は銃を構えて強盗して回るという状況で、大変恐ろしい旅でしたが、めったに得られない貴重な体験をさせて頂き、感謝いたしております。しのぶ会には所用があって出席できず残念です。心から御冥福を祈り上げます。
中西 和雄 様


 私は上智大外国語学部ロシア語学科4年のとき小島先生のゼミを受講し、シューマッハに初めてふれました。社会人になってからは小島塾で勉強させて頂きました。就職先は経済研究所だったのですが、ロシア関係以外の様々なお話を興味を持って聞いていたことを思い出します。
 その後夫の転勤にともなってサハリン、カザフスタンに赴き、3年前に帰国したのですが、子どもが幼稚園に入ったため、すっかり小島塾から遠ざかっておりました。先生が我が家から5分もかからない「くらら」にいらっしゃることも知らず、とても残念な気持ちでいっぱいです。しばらく子育てに追われそうですが、ホームページを見ながら小島塾の活動を応援いたします。
村部清美(旧姓・梅本)様

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