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■「イスラームのスンニー(スンナ)派とシーア派」最首公司 (2007.3)
はじめに なぜ、いまシーア派なのか


 西暦656年、預言者ムハンマドの従弟で女婿のアリーが初代イマーム(シーア派最高指導者)の地位に就いて以来、シーア派は常に非主流の少数派であり、非抑圧階層であり、ときには異端とされ、弾圧された。そのシーア派が自らの力で政治の舞台に登場したのが1979年2月のイラン・イスラーム革命だった。
イラン一国に留まっていたシーア派政権は、米国が仕掛けたイラク戦争を機にイラクシーア派政権が生まれたものの、シーア派同士、あるいはシーア派と旧フセイン政権の庇護下にあったスンニー派勢力との間で激しい抗争が発生し、いまだ止む気配がない。
 レバノンではシーア派組織ヒズボッラーが選挙で勝利した。もともとバハレーン、クウェート、サウジアラビアなどアラビア半島東側にはシーア派住民が居住し、シーア派の聖地や宗教学院の多いイラン、イラクとの関係は深かった。イランに始まり、イラク、バハレーン、クウェート、サウジアラビアというシーア派居住地帯は世界有数の産油地帯でもある。ソ連解体後独立し、バクー油田を擁するアゼルバイジャンもシーア派国民が多い国である。
これらシーア派産油地帯の住民が特定の教義のもとで団結し、動きだすと、国際エネルギー情勢にも影響するのではないかと危惧する声が挙がり、シーア派の教義や行動原理がエネルギーの面から注目されるようになった。


1、 シーア派信徒数と主な居住地
 ムスリム(イスラーム教徒)は世界人口63億人の約1割6億〜6億5000万人といわれる。うちスンニー派が9割、シーア派は1割といわれるが、正確な数字は不明である。シーア派の主な居住地はイラン、イラク、レバノンとアラビア半島東岸、それにアゼルバイジャンなどである。


 イスラーム主要国のシーア派人口比率
国名 シーア派人口比 %
イラン 88.3
イラク 57.1
バハレーン 54.4
レバノン 29.8
クウェート 18.8 
パキスタン 14.5
アフガニスタン 5.0
トルコ 3.3
サウジアラビア 2.3
インド 1.8
シリア 0.6
アゼルバイジャン 61.0
タジキスタン 5.0
 桜井啓子著「シーア派」(中公新書)から
 著者は「1980年各種資料からの推計」としている


2、 初期イスラーム略史
 ムハンマドの家族
 アラビア半島西部のメッカ(正式にはマッカ)は盆地状の町で、町の中心部には水量豊富な泉があり、古来、隊商の休憩地、中継地として栄えた。この地がいつ「聖地」になったか、定かでないが、メッカの西80kmほどにあるジェッダは「花嫁の港」といわれ、「イブの墓がある」と伝えられている。
 西暦7世紀ごろのメッカは、有力部族の共同管理下にあり、それぞれが「部族神」を奉じて「聖殿」にその偶像を飾り立てていた。中でも最有力な部族がクライッシュ部族で、ハーシム家とオマイア家が指導的地位にあった。ハーシム家に属する商人ムハンマド・イブン・アブダッラーは、40歳のときマッカ郊外ヒーラ山の洞窟で瞑想中、突然、神の啓示を受け「預言者」を自覚する。以後、多神教のメッカにあって「イスラーム」(神への絶対帰依)の布教を始める。
 最初の信者は15歳年長の妻ハディージャで、次いで商人仲間のアブー・バクル、従弟のアリーらだったと伝えられている。ハディージャが死んだ後、預言者の妻となったのがアブー・バクルの娘アーイシャだった。
 ムハンマドの父親はムハンマドがまだ母親の胎内にいるとき、旅先で亡くなった。母親もムハンマドを生んで間もなく死んだため、父方の祖父に引きとたれたが、祖父も程なくして世を去る。孤児となったムハンマドは、メッカの名家ハーシム家の長老でもある叔父アブ・ターリブに引き取られ、少年時代を過ごした。
 アブ・ターリブには息子アリーがいたが、彼はムハンマドをアリーと分け隔て無く育て、2人もまた実の兄弟のように仲良かった。
 ムハンマドは最初の妻、ハディージャとの間に3男4女をもうけたが、男子はいずれも早逝し、娘もムハンマドの死後まで生きたのはファーティマだけだった。ムハンマドはこの愛娘を従弟アリーに嫁がせた。アリーとファーティマの間に生まれた息子たちが、のちに「イマーム」としてシーア派(アリー派)を継ぐことになる。
 預言者の町とイスラーム共同体
 多神教徒の町、メッカで迫害にあったムハンマドは西暦622年、アブー・バクルとともにメッカを脱出、メッカの西北600kmほどのメディナに移住、「ウンマ・イスラミーア」(イスラーム共同体)を建設する。イスラームではこの年、622年を紀元元年としている。ちなみに今年西暦2007年はイスラーム暦1428年である(イスラーム暦は太陰暦で1年は約355日)。
 「メディナ」とはアラビア語で「町」という意味で、当初は「預言者の町」といわれていたが、いつしか「預言者の」が略されて「メディナ」となった。「シーア・アリー」(アリー派)が「シーア派」になった例に似ている。
 ムハンマドはこの町で「預言者」(神の言葉を預かった者)として神(アッラー)の啓示にしたい、政治、商業取引き、日々の礼拝、裁判、軍事など全ての指揮をとり、「神のもとでは人間みな平等」という「政教一致」の共同体(ウンマ)を創り上げた。
 632年、体調の衰えを自覚したムハンマドは、メディナからメッカへ「別離の巡礼」を行った後、愛妻アーイシャに見取られて62歳の生涯を閉じた。
 預言者の死
 預言者の死は二つの問題を残した。一つはアッラーによって「最後の預言者」(コーラン33章40節)に指名されたムハンマドの死は、以後、神からの啓示が無いということを意味する。余談になるが、リビアの最高指導者ムアッマル・カダフィは「預言者の死をもって、人類に対する神の啓示は完成した」という理由で、「イスラーム暦は632年を元年とすべきだ」と主張し、私がリビアに通っていた1980年代、「リビア暦」は632年を元年とされていた。
 「最後の預言者」が神の直接指示にしたがって運営した「ウンマ」は、理想社会のはずである。後世のイスラーム指導者は、新しい事態に直面したり、革新的なことを試みる場合、常に「過去に完成された理想社会ウンマ」に戻って、自らの対応がイスラーム規範に合致するかどうかを検証する。キリスト教世界では、未来に救世主が現れる、という信仰から未来に理想社会を求めるが、イスラーム世界は逆で、革新的政策もいったんは「ウンマ」という原理、原則に戻る。この過程だけをとらえれば、イスラームは必然的に「原理主義」なのである。
 現存しない「ウンマ」を再現するには、神の啓示として残された「コーラン」(クルアーン)と、預言者の日ごろの言行を収録した「ハディース」を正しく解釈して解答を求めなければならない。その解釈をめぐってイスラーム世界はいくつかの学派や党派に分裂することになる。
 後継者の争い
 もう一つの問題は後継者である。「最後の預言者」ムハンマドの死後、もう「預言者」は現れないし、名乗れば偽者である。以後、「ウンマ」の指導者は「預言者の代理人」(カリフ)と呼ばれることになるが、その初代カリフの有力候補に@預言者の教友で、義父でもあるアブー・バクルA預言者の従弟で女婿に当たるアリーの2人が浮上した。
@ のアブー・バクルを推したのはメッカの豪族グループだった。預言者未亡人のアーイシャの意向も働いていただろう。「嫁と姑」とよくいわれるが、ムハンマドの嫁アーイシャとムハンマドの娘ファーティマ(アリーの妻)とは、年齢も近いこともあり、しっくりいっていなかった。アリー不在の長老会議でアブー・バクルが選出され、この結果をアリーが承認した、といわれている。
A のアリーを推すグループが依拠したのは、預言者が「別離の巡礼」の帰途、カディール・フンムの地でアリーを招き寄せ、主だった信徒を前に「私を庇護者とする者は、誰でもアリーが庇護者である。アッラーよ、アリーを愛する者を愛し給え」といった「伝承」(ハディースといって、コーランとともにイスラーム法の法源とされている)である。
 スンニー派のカリフとシーア派のイマーム
 初代カリフ、アブー・バクルは2年で死去した。メッカの豪商だったアブー・バク
ルの遺産は数頭のラクダと1枚の毛布だったといわれる。私財を全て共同体発展に注ぎ込んでいたのである。死の直前、アブー・アクルは教友のT人で剛勇を謳われたオマルを後継者に指名しため、ここでの後継争いは避けられた。
 カリフ・オマルのもと、イスラーム勢はエルサレムを制覇し、ササン朝ペルシアを滅ぼし、ビザンチン帝国軍を破って、その領域を一挙に拡大した。
 エルサレムを占領したオマルは自ら聖地を視察、キリスト教会を訪ねたとき、たまたま礼拝の時間になった。先導したキリスト教大司教が「ここでどうぞ」といったところ、オマルは「もし、私がここで礼拝したら、信徒はここにモスク(礼拝所)を建てようとしてこの礼拝所壊すだろう」といい、教会を出て近くの空き地で礼拝した。のちにその地にモスク(礼拝所)が建てられ「オマル・モスク」と名づけられて、いまに至っている。
 オマルは死に際して後継候補としてアリーを含む6人を挙げたが、カリフに選任されたのは、古くからの信徒で、預言者の娘の一人を妻にしていたオスマンだった。オマイヤ家出身のオスマンは、散逸していた預言者のメッセージを収集、編纂して「コーラン」とした功績はあったが、オマイヤ家を重用し、才覚に富んだムアウイアをシリアの総督に任命した。このムアウイアがダマスカスを本拠に「オマイア朝」を建設し、シーア派のアリー一族を抹殺することになる。
 オスマンの身びいき人事に憤慨した信徒の一人が、カリフを暗殺した。突然のオスマンの死により、対立候補だったアリーが第4代カリフとなった。
 シーア派の誕生
 オスマンを失ったオマイア勢は、アリーがオスマン暗殺の黒幕だったと言いたて、カリフに忠誠を誓う儀式(バイア)にもムアウイアはダマスクスを離れず、参加を拒否、アリーに抵抗する姿勢を見せた。
 ダマスクスで軍勢を集めたムアウイアは、反アリー派を糾合しつつメディナのアリー軍に攻撃を開始した。この戦いはムアウイア側についた預言者未亡人アーイシャが自らラクダに乗って戦場に現れたことから「ラクダの戦い」と呼ばれている。
 この戦いでアリーは勝利したが、その後、メディアナを離れ、首都をイラク中部のクーファに移した。ダマスクスに近いクーファに拠点を移すことで、ムアウイアを牽制しようとしたのだろう。
 翌657年、両軍は再びユーフラテス川上流のシッフィーンで交戦した。アリー軍が優勢だったが決定的打撃を与えることができず、ムアウイアの申し出にしたがってアリーは休戦協定に応じた。アリーを預言者の代理人と信じるアリー派(のちのシーア派)にとって、アリーは「無謬の人」でなければならないのに、この休戦は誤りだとする1派が、アリーと訣別し、その一部の過激分子がアリーを暗殺した(661年)。これを機にムアウイアは独自にダマスカスを王都とするオマイア朝を開き、自ら初代オマイア朝カリフに就任した。
 アリーの死とムアウイアのオマイア朝の開設で、アブー・バクルを初代とするカリフ制は4代で終焉した。この4代をイスラーム・スンニー派では「正統カリフ」と呼んで、それ以後のカリフと区別している。
 一方、シーア派はアリー以外に預言者の代理は認めず、アリーが初代イマームと位置づける。そして、アリーの死後、2代目イマームとなったのが、アリーと預言者の末娘ファーティマの間に生まれたハサン、第3代がその弟のフサイン、第4代がフサインの息子アリー、第5代がアリーの息子ムハンマドという具合に第12代ムハンマド・イブン・ハサン・マフディまでフサインの血筋がイマーム位を継いでいく。
 シーア派の主流は12イマーム派
 ところで、なぜイランでシーア派が拡大していったかを裏付けるエピソードがある。ササン朝ペルシアがイスラーム軍に破れたとき、アリーの息子フサインがササン朝最後の王、ヤズギルド3世の娘を妻に迎えた、というのである。一部の信徒には、4代目以降のイマームにはペルシア王家の血が流れていると信じられている。
 さて、第12代イマーム、マフディは、父親に当たる第11代イマーム、ハサン・イブン・アリーの葬儀に突然現われ、葬儀終了とともに忽然として消えてしまった(874年)。この消えた12代目までのイマームの存在を信じ、なおかつ「隠れイマーム」となった12代目がいつの日かこの世に復活して信徒を救済すると確信するのが「12イマーム派」である。
 シーア派にもいくつかの党派があるが、「12イマーム派」は16世紀、イランに成立したサハビー朝が国教と指定して以来、多数派となった。1979年のイラン・イスラーム革命で登場したラホール・ホメイニ師は、ある時期「イマーム・ホメイニ」と呼ばれたことがあった。シーア派のイマーム待望論の現れと思われたが、対イラク戦争の苦戦でこの呼称はいつの間にか消えてしまった。シーア派にあって「イマーム」は「無謬の人」でなければならないのである。
 

3、スンニー派とシーア派の教義上の違い
スンニー派では、預言者の代理人を「カリフ」と呼ぶが、シーア派は「イマーム」と呼
ぶ。スンニー派で「イマーム」とは集団礼拝するときの指揮者を指す。
スンニー派は「6信5行」を信仰上の要点としているが、シーア派は「5信10行」で
ある。(注―同志社大学神学部中田 考教授による)
○スンニー派 6信5行
 6つの信仰
 @神はアッラーのみである A天使は存在する B経典(神からの啓示)
 C預言者の存在(ムハンマドは預言者である) D来世は存在する 
 E神によって定められた運命がある(但し、日ごろの行いによって好転する)
 5つの勤行 
 @信仰の告白 A礼拝(1日5回) 
 B斎戒(礼拝の前に手足口髪などを洗うほか、常に清浄を保つ) 
 C喜捨(現金収益の2.5%、畜農産物の10%)
 D巡礼(生涯に1度はメッカへの巡礼を果たす)


○シーア派 5信10行(下線はシーア派独自のもの)
 5つの信仰 
 @神はアッラーのみ Aアラーは正義である Bムハンマドは預言者である 
 Cイマームは預言者の代理人である 
 Dイマームは復活する*−2
 10の勤行 
 @礼拝 A喜捨 B斎戒 C巡礼 D5分の1税 Eジハード F善行の働きかけ
 G悪行の阻止 H預言者とその家族への忠誠 I預言者とその家族の敵との絶縁 


 スンニー派の教義になくて、シーア派にある主たる教義は次の3点になる。
 @5分の1税 Aジハード B預言者とその家族への忠誠


@5分の1税とは、スンニー派も定める喜捨のほかに収入の5分の1を「イマーム」に収めなければならない。12イマーム派では、「イマーム」は隠れているので、その代理である「ウラマー」(イスラーム法学者)に収めることになる。イスラーム法学者の最高位にあるのが「マルジャー・タクリード」である。日本でいえば最高裁長官のような地位だが、違うのはその選ばれ方である。日本では内閣総理大臣が指名し、国会と国民投票で信任されなければならないが、マルジャー・タクリードはイスラーム法学者の間で合意によって選ばれる。
 現在、マルジャー・タクリードはイラク・ナジャフに住むシスターニ師だが、師はイラン人で、イラク国籍を持たない。イラクでの選挙権さえ持たないシスターニ師が「選挙に参加せよ」といえば、シーア派信徒は投票所に向かう。憲法で定められた国民の義務だから選挙に参加するというより、シスターニ師に命じられたから、という動機の方が強いのは、5分の1税という財源とその配分権が付与されているせいもあるだろう。
Aジハードとは
 「ジハード」についてコーラン(クルアーン)は、「なんじらに戦いをいどむ者があれば、アルラーの道のために戦え。しかし、侵略的であってはならぬ。アルラーは侵略者をめでたまわぬ」(「聖クルアーン」第2章190節)と述べ、ジハードのあり方を規定している。スンニー派はこれを文字通り解釈するが、シーア派は「ジハード」を敢えて勤行の一つに加えている。
Bの「預言者とその家族への忠誠」
 熱心なイスラーム教徒(ムスリム)は、会話や手紙などに「預言者ムハンマド」に触れると、「預言者とその家族にアッラーの平安を」とを付け加える。
 「その家族」に含まれるのは誰か、というとスンニー派は判然としないが、シーア派ではアリーとその直系子孫が含まれる。シーア派の論法でいくと、「ジハード」の対象にはユダヤ教やキリスト教、ゾロアスター教など異教徒だけでなく、歴代イマームとシーア派信徒を迫害したスンニー派も加わることになる。
 残る問題は「ジハード」の指示、命令を誰が出すのか、ということになる。スンニー派にはその明確な規定はない。ということは、グループ・リーダーなら誰でも出せるということになるのだが、シーア派はマルジャー・タクリードがその任に当たる。
 現在、シーア派信徒にジハード宣言できるのは、さきに紹介したシスターニ師である。今後とも、イラク・ナジャブに居住するシスターニ師の言動が注目される由縁である。(了)


2007年3月11日記 最首公司


{注}このレポートは次の著書、資料などを参考にしました。
○「聖クラーン」(日本ムスリム協会)
○「シーア派」桜井啓子著(中公新書) 
○同志社大学神学部中田 考教授の講演と講義録
○「挑戦するイスラム」G.H.ジャンセン著  最首公司訳注(ダイヤモンド社)
○「イスラム・レビュー」最首公司著(PHP社)など

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