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■「小島 慶三先生を偲ぶ」 KJKネット代表幹事 山本 克郎 (2008.12.20)


 先生ご逝去の報を伺って、生前の先生の足跡・業績を改めて辿ってみると、まさに「巨星墜つ」という想いがしみじみと私の心を捉えました。


◇小島先生を産み育てた時代と背景
 小島慶三先生は、大正6(1917)年父完吉様、母つ祢様のご子息として羽生(埼玉県)にお生まれになりました。ご実家は幕末には忍藩藩士であり、祖父の小嶋鐵之進氏は官軍として戊辰戦争に参加されましたが、その弟小嶋六蔵氏(後に永井蠖伸斎と改名)は東北同盟に参加して、自ら榎本武揚の艦隊に加わって、五稜郭に入って歩兵奉行となり、五稜郭郊外で戦死されています。明治維新後、廃藩置県、秩禄処分となり、かっては関東平野の広々とした農村にも、維新から49年を経て近代化が進行していきました。
 士族から実業に転進されたご実父は青縞買継業を創め、さらに足袋製造に転進されます。先生が5歳の頃に、その事業は二つの工場を設けるまでになり、販売では東京の小売りで業界1位になります。先生が『農業』と『近代化』に深い関心を持ち続けられたのは、こうした故郷羽生の背景、原風景が大きく影響していると思います。


 昭和4(1929)年大恐慌の年に先生は不動岡中学(旧制)に入学されますが、14歳の時父上が亡くなられて、家業を長兄が継がれます。昭和9(1934)年東京商科大学(現一橋大学)予科(旧制)に入学されて、昭和15(1940)年東京商科大学を卒業されました。
 先生は、「炭鉱の国家管理と電力再編成」の「はしがき」に『私の初心は、学界に身を投ずることにあった』と書いておられます。(小島慶三著作集7近代化研究所叢書@)
在学中からゼミの担当山中篤太郎教授の主宰する日本経済室に加わり、経済学全集の一巻「日本経済論」に共著者として名を連ね、卒業後は大学に残って学者になることを目指しておられました。しかし、太平洋戦争前夜の折でしたから卒業前に、ある読書会事件に関連して卒業は出来たが、まともな就職は困難な事態となりました。幸い長兄の学友が人材を求めていた企画院調査官をしておられたので、その筋から企画院に入られることになりました。この災厄とその後の進路が先生の人生に、足跡に深い影響を与えたものと推察します。


 この時期企画院は、右から左まで和田博雄氏、稲葉秀三氏など戦後日本経済立直しに活躍した方々を揃えていたそうです。ここで原口武夫部長(媒酌人、のち大蔵省外資局長)の知遇を受けて、「貨幣為替制度及び政策の研究」に取組まれ、そのご縁で、昭和17(1942)年に大蔵省へ出向となり、外資局計画課勤務となります。ここは実質上調査課で先生は調査時報に「米英の戦後経営案」「ビバリッジの社会福祉案」を執筆されています。
 ここでのお仕事は、著作集第一巻『米英の戦後世界経営案につき』、第二巻『日独の金融構造』として残っています。昭和18(1943)年軍需省が発足し、総動員局総務部勤務となって、戦争末期の業務に携わることになり、敗戦を迎えます。


◇戦後日本経済復興に取組んだ体験
 戦後は、敗戦と連合軍の占領支配下という未だ経験したことのない状況です。廃墟と飢餓の中から始まった戦後の最優先課題は「経済復興」でした。経済復興の最重要課題は食料とエネルギーと鉄などの資源でした。昭和22(1947)年から先生はこの経済復興の先導的役割を果たした商工省(現通商産業省)の若き官僚として活躍されます。大臣官房企画室勤務で、緊急生産対策、物資需給調整、第二会社案、軍需工場の民需転換等を担当され、著作「日本経済と経済政策T」共著「臨時物資需給調整法解説」があります。
 翌昭和24(1949)年石炭庁国家管理準備室に移り、エネルギ−関係の実務に携わり、炭鉱の復興に取組まれました。


 ちょうどこの頃、恩師の中山先生から「学校へ戻れ、教授会もパスしている」という話があり、既に学友も次々に大学に復帰していましたから、この恩師のお話は欣喜雀躍すべき待ち侘びていたことでした。しかし、石炭の増産のシステムをどうするかは、日本経済の命運を左右する大問題でしたから、小島先生の心は大変揺れ動いたと書いておられます。
結局「一生のうち、このような仕事にめぐり会う機会がきた、これに全力を投入したい」という誘惑が勝ったそうです。
 複雑な思いを秘めて中山先生のお宅を訪れ、役所に留まる旨報告されたところ、激怒された中山先生は、「もう君の面倒は見ないよ」と破門を宣告され、帰路を絶った先生は必死の思いで炭鉱行政と取組んで、この年「炭鉱の国家管理」を出版されました。
この「学縁の切断は、長く胸の痛みとなって残った」という生き方、価値観は先生を知り、学ぶ上で大事なエピソードだと思います。


 役所に留まられた先生は、石炭、電力、製鉄などの担当課長を歴任され活躍されて、奇跡といわれる日本経済復興に寄与されました。昭和30年の経済白書は「もはや戦後ではない」として、復興から成長へと日本経済の舵を切りますが、その推進にもエネルギー・資源問題は不可欠の命題でした。経済企画庁にあって活躍され、さらに、経済企画庁を代表する日銀政策委員としてより広い視野で仕事をされました。業務のかたわら経済学にも造詣を深められ、いくつもの大学の非常勤講師なども務められました。
昭和38年、通商産業省審議官を最後に23歳から46歳まで23年の官界生活に別れを告げ、官界から活躍の舞台を新たな実業界へ移されます。


◇官界から経済界へ
 この年、請われて日本精工鰍ノ入社し、取締役企画部長として海外の営業活動に尽力されます。昭和45年専務取締役に、昭和49年には日本精工鰍ゥら芙蓉石油開発鰍ノ派遣され、副社長に就任し、昭和53年からは芙蓉石油開発椛纒\取締役社長として経済界で活躍されました。この昭和38年から昭和59年までの21年は、単に企業のリーダーとしてだけではなく、経済同友会役員として財界で活動されました。経済同友会の理論、政策面でユニークな活動を展開されました。


 その中で、急成長する工業に対比して衰退する農業、農村に深い関心を持たれました。それは、先生を生んだ原風景である関東平野とその原体験に根ざした農と工の在り方でした。東京商大で、東大から交換教授で来られていた東畑精一先生に師事して「本邦農村協同組合史論」を卒論とした先生は、企画院に入られても、非常勤講師として法政大学の「農業政策論」を担当され、終戦までそれを続けられました。その日本の農業問題に対する深い思いがあったからでしょう。
 日本農業とそれを取り巻く環境問題等についても諸外国の現実をつぶさに視察され、研究されて、日本の農業問題に関して重要な発言を続けてこられました。特に日本の「水田」の持つ多様な役割と重要性を訴えられました。
 これに関連して、明治維新によってもたらされた明暗を日本経済史、産業史から解明しようと「近代」に関心を持たれて、近代化研究所を開設されました。
同時に「人間の顔を持った経済学」を説いて、『人間復興の経済学』を出版し、昭和56年には、同志を糾合し、「ヒューマノミックス研究会」を設立されました。
若き日、学界を志されていた先生は、官界にあっても経済界にあっても人財育成に深い関心を寄せられて、上智大学、成蹊大学、名古屋大学、一橋大学の講師を引き受けて、学生の指導に当られました。そこから背広ゼミが始まり、小島塾となり、ご多忙の中でも、自己啓発と相互啓発を実践されました。


◇財界に別れを告げて地域・農業振興、人財育成へ
 昭和59年、67歳を迎えられた先生は、経済界での仕事に限界を感じられたのでしょうか、過疎過密が進行し、都市と農村の問題が深刻化していく中で、活躍の舞台を経済界から地域起こしに移します。本来最も産業の根幹である農業の衰退を憂い、農業の再生を図る論陣を張られ、「文明としての農業−生命産業コンプレックスの提唱1990年」、「農に還る時代−今日本が選択すべき道」(1992年)、「農業が輝く−“新しい社会の創造”」(1994年)と農業三部作を相次いで出版されました。
 財団法人日本立地センター理事長に転じて、年来主張されてきた地域振興、農業振興、環境保全に真正面から取組まれます。全国各地を訪れて、その地域の具体的な取組みに参画され、その指導に当り、人財育成とその重要性を説かれました。
卒後教育(背広ゼミ)として始められた小島塾を生涯学習のシステムへと進化させます。それは、生涯学習時代にふさわしいユニークな勉強会となり、地域起こし、農業起こしの小島塾が全国各地に誕生していきました。その目的は、@自己啓発、A相互啓発、B経験交流、C農業振興、D地域おこし、E人間復興でした。
 先生はこれらの小島塾を指導し、支援されて、北は北海道から南は沖縄まで全国に三十有余の小島塾が創られました。
 この間、(財)日本テクノマート理事長を兼務され、また、母校の(財)東京商科大学奨学財団の理事長としても活躍されました。
 実践面と並行して、理論面でもシュマッハーの「混迷の時代を超えて」、「スモール・イズ・ビューティフル」を翻訳され、普及されました。さらに、日本の近代化の基礎は江戸時代にあるとして、実家の小島家と明治維新の関わりを調査し、「江戸の産業ルネッサンス」「昭和から平成へ」「江戸から東京へ」等の著作を公刊されました。


◇請われて政界へ進出
 平成4年 日本新党を立ち上げた細川護煕党首の要請を受け、これに参画し、第16回参議院議員選挙に日本新党の比例区から立候補されましたが、この時既に75歳でした。翌5年に繰り上げ当選で、先生のご活躍は誰も予想しなかった政治の分野にまで広がりました。
細川内閣は短命で終りましたが、戦後半世紀余続いて自民党政権を日本で始めて非自民党政権を樹立させた点に意義がありました。国政の場で「ヒューマノミックス」の旗を掲げて、先生は1期5年間、政治・経済・社会の改革、日本農業の自立の重要性や地方分権を主張されました。
 人間復興の時代を提唱された小島先生は、経済は人間社会のあり方を見失い、経済は成長を目指して舵を取るものとして、成長に継ぐ成長が経済政策の主流になってきた。日本は世界第二の経済大国になったが、それに並行してモラルの退廃も進んだ。それが、社会システムの機能不全を引き起こし、環境の破壊が深刻にしてきた指摘されました。
 環境破壊に注目され、レスター・ブラウンらの環境問題研究に着目され、「飢餓の世紀」を翻訳され、同氏を招き環境問題の警鐘を鳴らします。また「水はいのちー新しい文明の創造と貢献」(平成8年)を出版され、水の問題も警告されました。
 著名なジャーナリストで先年亡くなられた武山泰雄氏(元日本経済新聞常務論説主幹)が、竹下元首相に対して「竹下政権以降の政治家は全く駄目で碌な政治家はいない」と直言したところ、竹下首相が「確かに衆議院を見回したところ皆政治屋で本物はいないし、参議院も同じレヴェルで戦略を語れる本当の政治家はいないなあ−これが日本の政治家の現状だけど参議院に一人だけいるよ。あえて本物と言えば小島慶三先生くらいだろう。」と話されていう。このエピソードは、政治家としての小島慶三先生を物語るとして、加藤春一氏(東京エグゼクテイブ・サーチ株式会社社長)がkjkネットで伝えておられます。


◇引退後も最後まで数々の業績
 政界を退かれた後も、日本や世界の動きに深い関心を寄せて著作活動や小島志塾などに取組まれました。21世紀のスタートにあたり、内外ともに重要な転換期にあって、環境問題・農業問題・教育問題。医療福祉問題・地域振興・地域づくり等益々多くの問題解決に迫られています。
ヒューマノミックスの立場からするとどう考え、どう行動するべきか、21世紀はどうなっていくだろうか、たくさんの課題があり、会員相互議論を通じて展望を開き、アイディアやアドバイスが必要です。2001年に小島塾はその名を「小島志塾」と改めました。
 平成10年参議院議員の任期満了になる頃から先生の視力は衰えが進行して先生の活動の支障になり始めました。
 平成14年2月には奥さまと「くらら」にお住まいになり、亡くなられた平成20年8月迄6年6カ月お過しになり、平成18年6月東京小島志塾閉塾までここからプレスセンターへ出向かれて、塾生にお話し、また優れた講演を聴かせるのを楽しみに、38年小島塾を続けられました。


◇くららで最後まで活発な著作活動を展開
 この時期に先生は下記の著作を私家版で出版されています。
平成14年、句集 無明の譜、随筆集 ふらぐめんて(1)。
平成15年、随筆集 ふらぐめんて(2)。
平成16年、句集 無明の譜(2)、随筆集 ふらぐめんて(3)。
平成18年、句集 うすあかり(2) 随筆集 ふらぐめんて(4)。
平成20年、句集 老いを愉しく(遺稿)


 「無明乃譜」の「あとがき」はこう書かれています。
「この本は、私の七十六冊目の本です。一橋在学当時、上田、山中両先生の主催する「日本経済研究室」に入れていただき、その共同著作『日本経済論』を戦時中に出版したのが第一作でした。
それから五十六年かかって七十五冊を書いたのですが、本当によくこれだけ書いたものだと、自分でもあきれています。友達からも「書き魔」といわれたのですが、私にとっては、これが只一つの生き甲斐であったのです。
 ところが、国会出仕の晩年、目が不自由になり、もうそんな幸福にひたることができなくなりました。しかし、無明の暗に浮かんでくる文言や状況も捨てがたく、家内に書き留めてもらったり、高田淑子さんや英康之さんにしあげてもらったのがこの句集です。
 私のこれまでの著作は、経済評論、農業観、水、エネルギー、東西文明論、江戸維新史、家伝、エッセイ等で占められ、文芸関係は、青春の頃の歌集『らんる集』、全国の観音様をお参りした時詠んだ句集『観音紀行』、岩崎、中島両兄と編んだ連句集『松菊』の三冊しかありません。その延長がこの句集になるわけですが、この中では、目の見えない世界のものが取り入れられております。
テロの秋新著の意欲沸々と  
平成十四年二月  中原 刀禰(小島 慶三)」


 うすあかり(二)の「あとがき」は、
「前略
平成十四年二月に私は家内とここ「くらら」に入居した。この時から始まった私の「日記メモ的俳句」は、目が不自由になり、自分で書き留める事が出来なくなって、家内に筆記してもらったものである。この筆記したノートがいつの間にか拙句でいっぱいになってしまったので、何とか形にしたいと思い、平成十六年にこれを『無明乃譜(二)』として出版した。
以降これに引き続いて句集『うすあかり』を昨平成十七年に出版、今回の『うすあかり(二)』は、私の「くらら」生活五年目のものになる。しかし、出来上がった句を自分で読み返すことが出来ないため、推敲に推敲を重ねて、という具合にはいかないもどかしさがある。
そんなこともあって、今回の出版をもって、そろそろ終刊になるかと思う。
長年にわたってご愛読いただいた皆様には心から感謝申し上げる。
また、最終回の句集の出版は高田淑子さんにお願いした。これまで長い間のお骨折りに感謝し、厚くお礼申し上げたい。
 平成十八年九月 中原 刀禰」


 遺稿となった「句集老いを愉しく」は冒頭には、
「依光に先に逝かれて我ひとり(依光良馨兄、平成十九年十月二十日死去、九十五歳)
先生と一橋で同級生だった依光良馨先生が昨年10月逝去され、如水会報2008年3月号に小島先生が寄せられた「自由は死もて守るべし」と題する追悼随想は、先生の書かれたものの最後になりました。


 句集 老いを愉しくの「あとがき」は、
 「いつの間にか九十一を数える年になった。
これからいくつ迄生きるかわからないが、先に逝った人達の分も合わせて生きられるだけ生きてみたい。その間に作り出した俳句にも捨てがたいものがある。
これら思い出を、高田さんにもう一冊とお願いしたのだが、この前の号に、最後の出版だと書いて出したのでお断り、と断られてしまった。しかし、そこを何とかお願いしたいと無理を言って出して貰う事になった。
 死ぬまでに 佳句の一つも 残したし 
 平成二十年三月 中原 刀禰」


 この最後の一句が物語るように、先生は亡くなられる迄、精進を続けられ、静かに、安らかに、大往生を遂げられました。


◇先生に学び、志を継ぐ
 小島慶三先生が1968年に「背広ゼミ」として始められた小島塾は以来38年間継続し、先生の理念は広く全国に広がり、各地に小島塾が開かれ、東京小島塾の例会は412回を数え、ご高齢のため、2006年6月例会を最後に閉じられました。東京小島志塾の終講の集いで小島先生の理念と志を継承する小島志ネットを開設することになりました。


 小島慶三先生は「人間復興の時代−ヒュマノミックスが日本を救う−」のあとがきで、
「かってシュマッハーは最後の著書“Good Work”で、『私の手では、私たちや私たちが乗っている船をよりよい世界に送り込むほどの風を起こすことはできない。だが、少なくとも、風が吹いてきたときにその風をとらえられるように、帆を張っておくことはできる』と言った。未熟ながら私もシュマッハーにならって、あるいはリルケの詩にあるように『来る風を予感して、それを生きる』ために、ヒューマノミックスの帆を捲き上げたいと思う。」と述べられておられました。


 酒井邦恭先生は、「『人間復興の時代』と小島慶三先生」(人間復興の時代−ヒューマノミックスが日本を救う)の冒頭で、小島先生を次のようにと評価されて居られます。
「多面的でありながら深く、剛毅でありながら、柔和。正統でいて洒脱な人間性。小島慶三先生を形容するのはたいへん難しいが、私のせいではない。その理由は先生自身の難しさにある。鋼鉄以上に硬い骨太の精神を柔らかな表皮で包んでいて、先生はどんな場面でも決して硬直せずに変幻自在に対応される。先生の目はいつも優しく、話振りもソフトであるが、その優しい眼差しを誤解してはならない。これほど恐ろしくものの本質を見抜いている眼はないからである。」


 先生の卓越したお人柄はなかなか難しいとしても、“実際に照らしてものを見て、考える”という観点と“ものの本質を見抜く”という視点。人間らしい生き方を探求するという“確かな生き方”を学びたいと思います。
 小島慶三先生は、常々、文明の衰亡の原因は@「自然環境の破壊」、A「社会システムの機能不全」、B「モラルと内的意欲の喪失」と指摘されてきました。現代社会はこの3つが同時に進行しています。地球温暖化が加速の度を早め、百年に一度の大恐慌が世界を襲い、テロとの戦争が泥沼に陥って、モラルの退廃は目に余る状況になっている現在です。

 米国のサブプライムローン事件に端を発した金融不安は、有史以来の世界大恐慌になって世界の金融経済を揺るがせています。今は、その入口に過ぎないが、2009年以降急速に不況のスパイラルは経済の多くの分野に波及し、影響しあって行くでしょう。
この大恐慌の広がりは、未だ経験したことのないものとなり、その影響の大きさは計り知れないものとなるでしょう。この大恐慌の脱出口となる政策の理論的根拠にヒューマノミックスが必要とされています。
 それには、小島先生が提唱されてきた「人間復興の経済」が必要であり、「人間復興の経済−ヒューマノミックスが日本を救う−」の集大成が求められています。それによって、この大恐慌を創りだした背景を解明し、構造を明確にすることが必要です。
その上で、恐慌からの脱出の方向と手立てを早く見出し、そのための適切な対応策を実施することが求められています。
 ヒューマノミックスは、大恐慌だけでなく、環境問題、農業問題、食糧問題、医療・健康問題、平和問題、資源問題の等人類が直面しているすべての課題を総合し、解決への方向へ向うための哲学と論理を構築することだと考えます。


 まさに、「私たちが乗っている船をよりよい世界に送り込む風がふいてきた」のです。
先生の「ヒューマノミックスの帆を捲き上げたい」という志を継いで、来る風を予感して、一人一人がこの風をとらえるように、帆を張ることはできます。


 それは、自ら省みて、ものの見方、感じ方、考え方、そして、生き方を変えることです。
一人一人に意識の変革、「意識革命」が求められていると考えます。
これが小島先生の志を継ぐための必須の課題と考えます。
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