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■「いかにおわすや わがともがらー2 ナゥワーフ殿下健在なり
  サウジアラビアと日本を結んだ知られざるサウジ・プリンス」最首公司 (2009.1)


 昨年末のサウジアラビアの新聞に「ナゥワーフ殿下、任期4年の国王特別顧問(閣僚待遇)に再任された」という記事を発見して、胸をなで下ろした。
 「ナゥワーフ殿下」とは、H.R.H.Prince Nawarf bin Abdulazizi al-Saud で、真ん中のbin(息子)が示すようにサウジアラビアの建国者アブドルアジーズ国王の子息で、王位継承権保持者である。前ファハド国王や現アブダラー国王の異母弟に当たる。
 実兄に改革派プリンスと呼ばれるタラール殿下がいる。20代のころナセルのアラブ民族主義に傾倒して立憲君主制を提唱、故国を追われてエジプトに亡命したことがある。子息のワーリド殿下は世界的な億万長者で、米シティバンクやユーロ・ディズニーの大株主。9.11事件の直後、犠牲者への見舞金1000万ドルを寄贈しようとしたが、同時にパレスチナ問題解決を訴えてジュリアーノNY市長から拒否され、話題になった。今回の金融危機でも米国金融機関から多額の支援を要請されている。
 実兄一家がなにかと話題になるなか、実弟ナゥワーフ殿下は地味な存在ながら第3代ファイサル国王の信任が篤く、「国王最高顧問」に指名され、第5代ファハド国王就任まで地位を全うした。長子モハンマド殿下は駐仏大使をしている。


日本アラブ記者会の結成
 1973年秋の第4次中東戦争を契機に発生した石油危機は、日本にアラブ産油国の重要性を改めて知らしめた。当時、共同通信専務理事だった岩永信吉氏の提案で「日本アラブ記者会」を結成し、日本とはほとんどメディア交流のないサウジアラビアからジャーナリストを招こうということになった。岩永氏は政財界に隠然たる影響力を持つ田中清玄氏と姻戚関係にあり、資金面での心配は要らないということだった。私はサウジ情報省を通すことによって、次は日本からの記者派遣を容易にしたいと思い、インタビュー経験のあるアンガリー情報相に「日本アラブ記者会岩永代表名」で招待状を発出した。
 この招待状で1974年2月に来日したのがリヤドに本社を置く「アル・ジャジーラ新聞」の編集長ハーリド・マリク氏夫妻だった。余談になるが、マリク氏はその後、ファハド国王を批判するゴサイビー電力工業相の詩を掲載した、として編集長の地位を追われ、拘留されたこともある骨っぽいジャーナリストだ。ついでにいうと、ゴサイビ−氏もバハレーン大使に転出し、その後復権している。さきごろマクドナルドで店員の服装をしてサービスしていたゴサイビー労働相はご本人か一族の誰かは判らないが、「職業に貴賎はない」とアピールするさまは、あの行動的なゴサイビー氏そっくりである。


永野・中東経済ミッションの難関
このマリク夫妻を自宅に招いて歓待してくれたのが、日経連総理事の今里広記氏だった。その3年後の77年正月、年始の挨拶に自宅に伺った際、今里氏から雑談のように「君はサウジアラビアに親しいようだが、いまサウジの入国ビザがとれなくて困っている。なにかいい方法はあるかね」と尋ねられた。永野重雄日商会頭を団長とする中東経済ミッションがサウジアラビア、クウェートなど湾岸諸国を訪問する計画を立て、外務省など通じて入国手続きを進めているが、サウジアラビアだけはどうしてもビザが取れないという。
 私は旧知のジャーナリスト、モハンマド・サラフッディーン氏にテレックスと電話で説明し、「日本とサウジを結ぶ絶好のチャンスだから」とビザ発給を王族に頼めないか、打診するよう依頼した。間もなくサ氏から「日本経済ミッションを歓迎することになった。在京大使館にビザ発給の指示がいっているはずだ」と連絡があった。日本側の希望としてファハド皇太子(のちの第5代国王)、アブダラー国家警備隊長官(現国王)、ヤマニ石油相ら政府要人との会談も伝えてあったが、これも「OKだ」という。
 ところが、今度は日本側から「外務省ができないものを一新聞記者ができるはずがない」という声が出てきた。「高い手数料をとられはしないか」という疑心暗鬼もあったようだ。


前駐サ大使が確認に
 そこで、この話が間違いないか、直前まで駐サ大使を務めていたアラビストの田村秀治氏を現地に派遣して準備状況を確認することになった。私は田村氏に先行してサウジ入りしていたが、羽田を発つころから痛み出した左足が、ジェッダに着いた段階で耐えられない痛みになっていた。どこかでねん挫したに違いないと思って、家人に炎症を抑えるためのメリケン粉とサトイモを田村氏に託すよう依頼した。ジェッダに着いた田村氏は「最首君、ボクは乗り継ぎの台北空港で、メリケン粉を麻薬に間違われて散々な目に逢ったよ」と苦情をいわれた。足の痛みはその後、サウジ入りした永野ミッションの同行医師の診察を受けたところ「痛風」と判り、治療を受けたが、「それはキミ、今度のストレスが原因だよ」と田村氏から冷やかされた。
サウジ入りして判ったことだが、現地の鈴木大使やアラビア石油リヤド所長の林 昂氏の尽力があって、サウジ側も私からの要請を信用してくれたのだ。田村氏の「受け入れは万全」という報告で永野ミッションは77年2月14日サウジ入りするのだが、団員は総勢50人に膨れ上がっていた。サウジ入国OKとなって新聞、雑誌などのメディアが参加することになったということだった。


永野ミッションはわがゲスト
当時、民間人がサウジアラビアを訪問する場合、入国ビザは2種類しかない。「巡礼ビザ」と「商用ビザ」だ。前者は聖地マッカ(マッカ)、メディナの巡礼のためで、ビジネスマンは後者の商用ビザをとることになるが、この場合。「身元引受人」、つまり「スポンサー」が必要とされる。企業であれば現地代理店がスポンサーになるが、団体となるとなかなか身元を引き受けようという人は出てこない。いまでは商工会議所などが受け皿になってくれるが、当時はそうした団体はあっても、力はなかった。
リヤド空港に到着した一行を数十台のハイヤーが出迎え、インターコンチネンタルホテルに落ち着いたメンバーにフルーツ・バスケットや特産のデーツが届けられた。
ファハド皇太子、アブダッラー長官、スルタン国防・航空相、ヤマニ石油相、トーフィック交通相など要人との会談が行われ、ヤマニ石油相主催の昼食会には丸焼のヒツジ料理が出された。最賓客2名にはヒツジの目が提供される習慣があり、第1眼は永野団長、第2眼は副団長格の中山素平氏(中東協力センター理事長)の目の前に運ばれた。ところが、中山氏は隣席の今里氏を名指しして「事実上のナンバー2はこちらの方です」と1眼を今里氏に譲った。のちに今里氏は「素っ平さんにうまくやられた。目玉は味わうよりも丸呑みにしたけどね」と語っている。
その夜、ナゥワーフ殿下主催の晩さん会が宿舎のインヤーコンチネンタルホテル別館で催された。この席に、並みいるサウジ側要人が居住まいを正して迎えたのがナゥワーフ殿下だった。殿下は父親のDNAを受け継いで身長175センチほどの偉丈夫、アルメニア系の母親譲りの色白で端正な容貌である。田村氏の通訳で永野団長以下、主要なメンバーと談笑され、意見交換をされた。私も殿下に紹介されたのは、このときが初めてである。
危ぶまれた政府要人との会談も順調に終わり、ホテルをチェエクアウトしようとしたとき、一行は仰天した。送迎や連絡用のハイヤー代から全員の宿泊料、同行記者団の電話、テレックス料金など全て支払うことになっていたのだ。永野ミッションをアレンジしたサ氏は「これがゲストに対するサウジ人のホスピタリティです」と、高い手数料を予期していたミッション関係者に笑顔で答えていた。


殿下を外務省公賓で招待
 ナゥワーフ殿下は1970年5月、ファイサル国王来日の際、国王最高顧問として同行しているが、永野団長らの働きかけで、改めて日本に招待しようということになった。殿下はすでに「国王顧問」の地位になく、一王族に過ぎなかったが「最高の待遇を」ということで「外務省公賓」で招待することに決まった。
3日間の「公賓」の間、宿舎は赤坂の迎賓館で、この間に昭和天皇との会見、日大名誉法学博士号授与式、歓迎晩さん会(写真2参照)が行われ、4日目から民間側の招待に移る。以後10日間、日本各地を案内しようというのが、日本側の計画だった。
私は当時、中日新聞社100%出資のトウキョウ・アラビアン・コンサルタント(TAC)という会社の顧問として、ナウワーフ殿下の代理人サラフッディーン氏、それに外務省から指名された片倉邦雄氏(のちのイラク、エジプト大使)との間で日程作りを担当したが、訪問先の選定と宿舎の手配、とりわけ宿舎への「ハラール食品」の供給に苦労した。
「ハラール食品」とは、イスラームで禁じられているブタ肉やアルコール製品、そしてブタ以外の家畜でも神に許しを乞う祈りを捧げてから頸動脈を切って、一気に排血させた肉でなければならない。いまでは「ハラール・ミート」は東京・代々木上原や大塚などモスクに行けば入手方法が判るが、当時はどこにもなかった。幸い駐日サウジ大使館のパキスタン人運転手が経験者だというので、TAC社員とともに神戸の屠場に行ってもらい、「ハラール神戸牛」を東京の宿舎ホテル・オークラ、名古屋、鳥羽、神戸、岡山の各ホテルに事前配送しておいた。京都では「嵐亭」に泊まったが、歓迎晩さん会は和食の「吉兆」だった(写真3参照)。
宿舎のホテル・オークラにはたくさんの政財界人が面会に訪れたが、その一人に当時まだカイロ大学でアラビア語を学んでいるという小池百合子さんがいた。小池さんの流超なアラビア語に殿下も感心されて、ずいぶん長いこと話をされていた。
この訪日が契機」となって、殿下は昭和天皇の大祭、今上天皇の即位式にサウジアラビアを代表して参列され、日本の皇室とサウド家を結ぶことになる。


「パイレーツ」論議に湧く
 10日間の国内旅行で殿下と私たちの距離はうんと縮まった。関西旅行には前記片倉氏も同行されたが、同氏との旅行はこれが2度目。最初は73年12月の三木ミッションで一緒だった。外務省の手配で、普段は見学できない京都御所を見ることができた。  
翌年、サウジを訪ねた私はサラフッディーン氏に誘われて、ジェッダのナゥワーフ邸にお邪魔した。そのころ「ザ・パイレーツ」(The Pirates)という小説が話題になっていた。砂漠で砂嵐に巻き込まれたユダヤ人夫婦がベドインのテントに助けを求めた。ユダヤ人の妻はそのテントで男子を出産する。一方、ベドウインの妻も産み月を迎えており、相前後して女子を産み落とす。ベドインはユダヤ人に嬰児の交換を申し入れ、ユダヤ人も恩義に報いようとこれを承諾する。
こうしてベドインに育てられた人物が武器商人として事業に大成功、莫大の財を築き上げていく。が、家庭的には恵まれず、というより女性遍歴がたたって離婚する破目になる、というのが粗筋だ。
「あれはアドナン・カショギをモデルにしたのではないか?ユダヤ人であることは別にして、あの商売のやり方はアドナンにそっくりだ」と誰かがいった。当時、パリ留学中のモハメッド殿下(現駐仏大使)を交えた、アラビック・コーヒーを飲みながらの無責任な話なのだが、日本にも馴染みのある人物の登場に大いに盛り上がった。
その後、本物のカショギは小説の筋書き通りに離婚してしまったが、それにしても、日本の皇室の殿下と違って、ナゥワーフ殿下は随分、世界のアングラ情報に詳しいものだと感心したのを覚えている。


中央情報庁長官そして・・・
 久しく浪人暮らしをしていたナゥワーフ殿下を再び要職に起用したのはアブダラー国王である。2006年、殿下は「サウジのCIA」といわれる中央情報庁長官に就任した。私は早速祝電を送った。間もなく返礼の手紙が届いた。 
 サウジアラビアは王族間の微妙なバランスのもとに統治されている。前国王時代、国王の最大の寵愛を受けた王子は若くして大臣の地位に就いたが、いまはメディアに登場することも滅多にない。前国王の実弟で皇太子のスルタン殿下は国防・航空大臣であり、その実弟ナーイフ殿下は内務大臣として治安責任者になっている。いずれも前国王と同じスデイリー家出身の女性から生まれた同腹の兄弟である。故人となった長兄ファハド前国王を頂点に7人兄弟の結束は固い。
 一方、現アブダラー国王はサウジ、イラク、ヨルダンにまたがる強大なシャンマル族の女性を母親としているが、兄弟はなく一人っ子だ。国王は若いころから外敵に対する国防軍を補強するというか、均衡を図るというか、精敢な若者で組織された国家警備隊の長官を務めている。長官に任命したのは、想像するにファイサル国王ではなかったろうか。仮にそうでないとしても、アブダラー殿下を重用したのはファイサル国王だ。ナゥワーフ殿下もまたファイサル国王に引き立てられている。
 中央情報庁という役所は、国防軍や警察から、そして国家警備隊からも独立した治安機関で、しかも9・11事件以後、機能の強化、充実が叫ばれてきたところだ。70歳になろうという殿下を抜擢したのは、国王の信任がいかに篤いか、ということともに、有力な王族をけん制できる実績と実力を備えているとみていいだろう。
 ところが、殿下は長官就任後、いくばくもなく心臓発作で倒れてしまった。当然のことながら長官は辞任、療養生活に入られた、と聞いていた。片倉氏に会うと、殿下の消息が話題になるが、サ氏からも情報はなかった。療養に専念されているのかナと思っていたところに「無任所大臣とし国王顧問再任」のニュースである。さて、今度はどんな祝電を打ったらいいのだろう。サウジの友人に相談してみよう。


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