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■「小島塾とKJKネット、今、われわれは、何をどう学ぶのか」山本克郎 (2009.7)


はじめに
小島塾は上智大学の小島ゼミ生が卒業後学ぶ背広ゼミに始まる。その後、小島慶三先生が主宰して、各地に農業おこし、地域おこしをめざす社会人を対象とした小島塾が開設された。最盛期には30余を数えた。
先生は小島塾の目的を、@自己啓発、A相互啓発、B経験交流、C農業振興、D地域おこし、E人間復興とされた。2001年に小島塾はその名を「小島志塾」と改め、2006年東京小島志塾を閉塾と決定した。これを惜しんだ塾生が、同年秋、その志を継ぐべくKJKネットを開設した。
人間らしい生き方、人間性の回復には、本当の事を知り、自分を知り、ものごとの本質を知り、判って、自分らしく生きる事である。それは、何時の時代も何処でも共通する課題である。
特に、内外共に激動の渦中にあり、その背景と構造、この行く手に目を凝らして、恐慌からの脱出、政治経済の転換と向かいあっている現在は、切実に明日の暮らしと仕事の展望を開く必要に迫られている。それには一人一人が時流を正しく認識し、自分の人生を自分らしく生きる道筋を見出すように学ぶことが求められている。


1、小島慶三先生を生み育てた風土と時代
生年の1917年は、明治維新から49年目で、近代化の急坂を駆け上った日本は、20世紀を象徴する第一次世界大戦の只中あった。この年は、世界史に大きな影響をもたらしたロシア10月革命(社会主義革命)の年であって、その後国際的にも国内的にも激動の歴史の始まりとなった。
先生は幼少期を世界大戦後の激動のなかで過ごしたが、その原風景は、関東沃野の中心、利根のほとりにあった羽生であった。維新まで祖父は藩士として忍藩に仕えたが、維新後生家の家業はこの地域の産物や働き手に依存する青縞、足袋の製造、販売業だった。農村を基礎に手工業から工業へ変貌する中で成長した。
14歳のとき、父上が亡くなり、家業は長兄が継がれ、その許で少年期を過ごした。満州事変(1931)から日中戦争(1937)へと軍国主義化する厳しい時代に東京商科大学予科に入学(1934)し、多感な時期をこの大学で学び、太平洋戦争開戦の前年に卒業(1940)した。
先生は、「私の初心は、学界に身を投ずることにあったが、在学中にある読書会事件の災厄を受け、卒業はできたが、まともな就職がむずかしいという環境で長兄の学友の筋から企画院に職を得ることができた。(小島慶三著作集7「炭鉱の国家管理」の「はしがき」)と書かれている。
また、商大時代に東大の東畑精一先生に師事して、卒論は「本邦農村協同組合史論」であった。この論文が機縁になって、卒業後、企画院の勤務のかたわら、終戦まで法政大学の教壇に立った。」(文明としての農業「あとがき」)
優れた資質と能力に恵まれた小島先生は一橋大学に学び、勉学に励み、卒業後は「真理の探究と人材の育成」をめざしていた。しかし、戦時中のふとしたアクシデントに遭遇して、官界への道に入ったが、この間も教壇に立ち農業政策論を講義された。戦争は敗戦に終り、荒廃した国土と社会が残された。


2、小島慶三先生の足跡
敗戦後もしばらくは、初心薄れず、学校へ帰る夢を抱かれていたが、商工省で、炭鉱の復興をめぐる諸問題をはじめエネルギー関係の実務に取り組まれると、石炭の増産をどうするかは、日本経済の命運をも左右する大問題だったから「一生のうち、このような仕事にめぐりあった機会に、全力を投入したい」という想いが勝った。恩師からの「学校へ帰れ、教授会もパスしている」とのお話を振り切り、破門の宣告に心は揺れながらも自ら学界への夢を砕いて官界に留まった。しかし、官界から日本精工に移ってからは、「あまりエネルギー問題にかかわることがなかった。わずかに、経済審議会のエネルギー部会の会長となり、エネルギー長期計画の委員長となったぐらいにことである。」としながら、この前後には、学校教育に対する初志がよみがえってきて、上智大学では経済政策の講義を、成蹊大学や名古屋大学(集中講義)では、資源エネルギー論の講義を担当した。一応はじめの志をつらぬくことができたといえよう。(小島慶三著作集7「炭鉱の国家管理」の「はしがき」)と記されている。
こういう若き日の初志が、その後多忙な官界、経済界にあっても求められれば時間を割いて非常勤講師として活躍され、背広ゼミとなり、その後のユニークな生涯学習システム小島塾とになった。
高度成長期に入って日本経済の重心は実業界へ移って行った中で官界に限界を感じ、今里日本精工社長の招請を受けて、実業界へ転じる。この厳しい競争の坩堝で、急成長を遂げる経営管理の実務に携わり、優れた業績を上げられた。世界的なスケールで展開する企業経営の実際に取り組んでみると、産業経済社会の様々な問題に直面して、視点も視野も変わっていく。日本経済を改めて見つめ直すと重大な問題に気付かれ、クローズアップされた問題を解明すべく、先生は企業の枠を越え、経済団体、経済界の活動を通じ、貴重な政策提言を行なった。
経済政策は成長を目指して舵を取り、人間社会のあり方が見失われ、成長に継ぐ成長が経済政策の主流になり、日本は世界第二の経済大国になった。それに並行して環境破壊は深刻になり、モラルの退廃は進み、社会システムが機能不全に陥っていく。過疎過密が進行して、都市と農村の問題が深刻になっていく中で、先生は、経済界から地域起こしへと転じた。
1984年、齢67歳になられた先生は、活躍の場を(財)立地センターに転じ、理事長に就任した。自ら全国各地をめぐり、調査し、研究して地域の振興に取り組み、最も基本であるはずの農業が衰退の一途を辿っていることを憂い、地域起こし、農業起こしの生涯学習の小島塾を各地に開設して、「文明としての農業」(1989)を出版し、再生の論陣を張る。
人間復興の時代−ヒュマノミックスが日本を救う−(1992)は、日本近代化研究の成果にもとづき、提唱する「ヒューマノミックス」的な視点から、産業社会の活路を見出す構図を描いた。
先生はそのあとがきで、「かってシュマッハーは最後の著書 “Good Work” で、『私の手では、私たちや私たちが乗っている船をよりよい世界に送り込むほどの風を起こすことはできない。だが、少なくとも、風が吹いてきたときにその風をとらえられるように、帆を張っておくことはできる』と言った。未熟ながら私もシュマッハーにならって、あるいはリルケの詩にあるように『来る風を予感して、それを生きる』ために、ヒューマノミックスの帆を捲き上げたいと思う。」と述べている。
1992年、齢75歳、再び日本新党細川護煕党首に請われて「ヒューマノミックス」によって日本を救うべく 政界へ進出した。 その「燃え尽きるとも」の気概は単なる知識人、教養人、官僚、実業家、政治家にない生き方だった。政界に籍を置いた先生は、政治活動の傍ら環境破壊に注目し、レスター・ブラウンらの環境問題研究に着目し、「飢餓の世紀」(1995)を翻訳出版して、レスター・ブラウンを招いて講演会を開催するなど環境問題に警鐘を鳴らす。いち早く水の問題に警告を発し、自ら「水はいのちー新しい文明の創造と貢献-」(1996)を出版した。
 長く官界、経済界で活躍される傍ら文筆活動に励み、生涯を通してその著作は84冊。これほどの業績を残された方は極めて稀である。初心は学界だった先生は「書き魔」といわれ、仕事をするには、調べて勉強する。勉強が好き、実際を知ること、本当のことを知ることが先生の性分だったと思われる。知ったことを学んで、首尾よく仕事を達成するために活用する。問題解決型の学習が身についていた。その著作が、具体的で、読みやすく、分かり易く、ためになるのは、先生の真実を求め、真理を解き明かし、道理に基いて問題を解決しようとする学風によっている。
先生の著作は、幅が広く、広範な分野に跨っている。政界を去るまでの著作は、経済評論、農業観、水、エネルギー、東西文明論、江戸維新史、家伝、エッセイ等で、文芸関係は、青春の頃の歌集『らんる集』、句集『観音紀行』、岩崎・中島両氏と編んだ連句集『松菊』の三冊だった。
政界を去られた後は、句集無明の譜、句集無明の譜2、句集詩人の誕生、句集うすあかり1,2、句集老いは愉しく、句集が6冊、随筆集ふらぐめんて(断片)1〜4冊がある。
句集無明の譜(平成14年刊)には「国会出仕の晩年、目が不自由になり、無明の暗に浮かんでくる文言や状況も捨てがたく、奥様に書き留めて貰った句集」で、その中では目の見えない世界のものを取り入れている。最後は、「テロの秋新著の意欲沸々と」平成14年2月と意欲を表明された。
平成14年2月に「くらら」に入居されてから、先生は、目がご不自由になり、書き留める事が出来なくなって、奥様が筆記された「日記メモ的俳句」のノートを『無明乃譜(二)』(平成16年)として出版。引き続いて句集『うすあかり』(平成17年)、『うすあかり(二)』(平成18年)は「くらら」生活5年目の著作だった。


3、小島先生の学風
このように、先生は人間とその根底に社会のあり方を問う思想があり、高い志が鮮烈な問題意識と探究心となっている。大学の抽象的な理論研究に終るのではなく、実際の現場で、事実から学ぶという実学と実践によって裏付けられ、事実という原型から掘り起こして、真実と真理を探究された。文献によるよりは、実際によって、権威主義、事大主義、官僚主義への批判を自ら実践された。
それが、シュマッハーとの出会いとなり、“混迷の時代を超えて”の翻訳と“スモール”の翻訳となった。先生の探究心は人類が直面している重要課題の本質に迫り、農業問題、食糧問題、環境問題などの課題解明と解決に向けて取り組まれ、近代化研究所を設立し、ヒューマノミックス研究会を主宰し、その集大成をめざした。
ものより、カネより人財の育成に着目された先生は、背広ゼミから生涯学習へ自己啓発、相互啓発をモットーとした小島塾を全国に展開された。人財育成は何時の時代でも最重要なテーマである。小島慶三先生を生んで育てた、日本の「近代」と「現代」を見つめ直し、今私たちが直面している困難を突破するには、先生が提起した課題を解き明かして、解決しなければならない。
明治初期に近代化を進め学制発布するに当たって、「啓育」と訳すべき「Education」を「教育」と誤訳し、「Teaching」と混同してきた。これが災いして今日まで「Teaching」を重視して、「Education」を無視している。現下の教育の退廃と混乱はここに根ざしている。よい人財を社会へ送り出すことが学校の社会的責務であるが、学校は知識の伝達に終始して、この責任感は乏しい。
人材が、人財になるためには、真実を知ること、真理を学ぶこと、真実と真理に立ってよりよく自己実現をはかること、それが、本来の生きることである。本当のことを知り、そのために学ぶ、これを楽しみとし、喜びとすることで身につけることである。本来、これは学校の果たすべき基本となる役割だが、現在の大学も高校も役割を見失っている。文献から学ぶだけでは真実、真理に至ることは困難で、実際から学ぶには学ぶものが主体で、自己啓発、相互啓発、経験交流が不可欠である。
先生は社会へ出た卒後の学生を背広ゼミで育て、また、よりよき社会を志す人々へ向けて全国各地に小島塾を開いた。その小島塾の目的は、@自己啓発、A相互啓発、B経験交流、C農業振興、D地域おこし、E人間復興で、38年も継続し、各地の塾で多くの人財を育成した。
ヒューマノミックスの旗を掲げて、自己啓発、相互啓発、経験交流による学習活動は、わが国に類例を見ない偉業であった。


4、小島先生の思想と学風を学ぶ意味
小島塾生・分社グループの総帥酒井邦恭さんが小島慶三先生を評して、「多面的でありながら深く、剛毅でありながら、柔和。正統でいて洒脱な人間性。小島慶三先生を形容するのはたいへん難しいが、私のせいではない。その理由は先生自身の難しさにある。鋼鉄以上に硬い骨太の精神を柔らかな表皮が包んでいて、先生はどんな場面でも決して硬直せずに変幻自在に対応される。 柔和な目がいちばん恐いと書いたのは、確か小林秀雄であったか、その言葉通り、先生の目はいつも優しく、話振りもソフトであるが、その優しい眼差しを誤解してはならない。これほど恐ろしくものの本質を見抜いている眼はないからである」「『人間復興の時代』と小島慶三先生」と指摘された。
本当の事を知り、判るためには、まさにこのような「ものの本質を見抜いている眼」が必要であり、それなしには、万巻の書を読んでも学識を豊かにしも、大事業を成功させて財を成しても、高位高官に昇り栄誉栄達しても、この本質を見抜く眼と人間社会の道理をわきまえることなしには、人生は虚しい。「本当に生れてきたよかった」「生きてきてよかった」と心底から実感する人生にならない。
先生の志を継ごうとするならば、先生の志と足跡を辿り、91年のご生涯と業績から、先生の思想、ものの見方、感じ方、そして考え方、生き方を知り、学び、自らの哲学、思想を高めることである。
一番大切なことは、人間とは何か。如何に生きるべきか。自らのものの見方、感じ方、考え方、そして生き方を探求して得心の行く人生をいきることが「人間復興」である。
小島塾は、自己啓発、相互啓発、経験交流によって、「物事の本質を見る眼」を養い、真理と道理によって生きる道を探求するためにあった。小島志塾で学ぶ意味はここにある。
小島先生は、ヒューマノミックス、人間復興の経済学を社会の人々に広げ人間復興の社会の実現を目指した。それはヒューマンとエコノミックスの造語として「ヒューマノミックス」を構想してその集大成を目指して、ヒューマノミックス研究会は志半ばで亡くなられた。
今、混乱と激流の中にあって私たちKJKネットの会員は、先生の志と情熱を受け継いで、自らの生きる道筋を見出すこと、経験の交流を図り、ヒューマノミックスの集大成に寄与したいと思う。


以上


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