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■「人間主義経済学」から学ぶこと−ヒューマノミックスの先達を偲んで 安原和雄 (2010.1)


本文は昨年末、亡くなられた後藤隆一先生の追悼としてブログ「安原和雄の仏教経済塾」に1月28日付で掲載した記事を小島志ネットワークホームページに転載したものです。



 日本における「ヒューマノミックス=人間主義経済学」提唱の先達が相次いであの世へ旅立った。一人は、全国組織、「小島志塾」主宰者で、訳書『スモール イズ ビューティフル』でも知られる元参院議員、小島慶三氏であり、もう一人は仏教思想に詳しく、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」関連の著作が多い後藤隆一氏である。
 両氏が論戦の標的にしたのは、弱肉強食、貧困、格差拡大を招いたあの新自由主義(=自由市場原理主義)路線で、その熱情は90歳近くまで老いてなお衰えることはなかった。遺された宿題は、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」から何を学び取り、どう発展させていくのかである。先達の業績を偲びながら、そのことを考えたい。(2010年1月28日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)


 「ヒューマノミックス」は、ヒューマニズム(人間性尊重)とエコノミックス(経済学)からなる新しい合成語で、「人間復興の経済学」、「人間主義経済学」の意である。
 小島慶三氏の逝去(08年8月)を偲ぶ記事は、「水田こそ世界に誇るべき宝だ! 日本は資源大国 ― 緑と土と水」というタイトルでブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載(08年10月20日付)してある。
 一方、後藤隆一氏(注1)については私(安原)の同氏宛私信の中から選んだ2編 ― 『人間主義経済学序説』を読んで(2007年4月付)と『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで(2003年5月付)― を以下に公開し、先達の足跡を辿りながら偲ぶことにしたい。
 なお漢字のふりがな、(注)記、コメントの小見出しは私信の原文にはなかったが、理解の一助にと考えて今回新たにつけ加えた。
 (注1)後藤隆一氏は1921年岩手県生まれ、2009年12月末逝去。学徒出陣を経験、戦後復学。東京商科大学(現・一橋大学)卒業後、財団法人・東洋哲学研究所代表理事・所長に就任、宗教・哲学関係の研究・著作活動に携わる。著書に『現代人の仏教思想』、『現代に生きる仏教』、『脱近代への道』、『ヒューマノミックス宣言』、『ヒューマノミックスの世紀』、『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』(霞出版社)、『人間主義経済学序説』(新思索社)など多数。




(1)『人間主義経済学序説』を読んで ― 2007年4月

 著作『人間主義経済学序説』と格闘した末の感想を以下に記しました。ほんの一部の印象記でしかありません。著作の文章を引用し、それに〈コメント〉として私の印象をつづりました。


▽新しい学風を
 高島善哉先生(注2)は「東洋においては、『自然』は『しぜん』ではなく、『じねん』であったことを思え。私たちの前には、そろそろ新しい学風、新しい方法と方法態度が生まれてきてもいい時期ではないのか。翻訳と解説の時代はそろそろ終わりかけている」と言われている。
 (注2)高島善哉氏は1904年岐阜県生まれ、1990年逝去。退官まで40年間一橋大学で教壇に立った。戦争末期、学徒出陣の学生に向かって「生きて帰ってくれ」と無駄死にを戒めた言葉は今なお語りぐさになっている。著作は『アダム・スミスの市民社会体系』、『社会科学入門』、『社会思想史概論』、『民族と階級』、『時代に挑む社会科学』など多数。これら著作は『高島善哉著作集』全9巻(こぶし書房)に収められている。


〈コメント〉欧米的思考への依存症から脱却を
 「そろそろ新しい学風を」は私も学生時代(高島ゼミの一員であった)に直接お聞きしたことがあります。それ以来欧米の学問、欧米的思考への依存症からどう脱却するかが、私にとっても大きなテーマとなっていました。私が今日仏教経済学に関心を抱いているのも、その延長線上にあるように思います。


▽「空」、「仮」、「中道」の仏法
 あらゆる存在は、認識の主体である自我を含めてすべて他に依存して存在し、他との関係によって変化してゆくものゆえ、独立不変の実体ではないと説くのを「空」(くう)といい、「無常無我」ともいう。(中略)
 「あらゆるものを実体視して、欲望の虜(とりこ)になり、争うこと」から脱し、平和と共存の世界をつくること、それが大乗仏教の菩薩である。菩薩道を説くのが「仮」(け)の仏法である。仮の世界と言えば、架空の世界のように聞こえるが、「空」から見た場合の仮説であって、日常的な現実、五感の対象である現象の世界を指している。
 法華経はこの空と仮の仏教を「方便」(ほうべん)と名づけ、空と仮を統合した「中道」(ちゅうどう)を真実とした。


〈コメント〉空観と仏教経済学
 以上の「空」、「仮」、「中道」の相互関係は、現象や欲望の世界に生きる者にとっては理解しにくいところがありますが、空観は私の唱える仏教経済学の重要な柱として取り入れており、現実の正しい分析とその把握に不可欠だと認識しています。今後さらにどう発展させるかが私自身にとっての課題です。


▽マルクスの疎外論と物象化論
 「疎外」とは、主体的で精神的で内面的なものである人間が客観的で物質的なものに自らを外化し客体化すること。(中略)これに対し「物象化」とは、人間が資本、商品という物に支配され、物の論理の代行者になること。
(中略)疎外論とは人間の自己喪失論であり、物象化論とは人間の自己奴隷化論である。


〈コメント〉21世紀版「奴隷解放宣言」を
 上記の自己喪失、自己奴隷化は米国主導の自由市場原理主義(注3)が日本へ導入され、広がるにつれていよいよ顕著になってきています。私は日本のサラリーマンの大半は奴隷状態に置かれているにもかかわらず、それを自覚できないところが奴隷の奴隷たる特徴があると思います。個々の人間が分断されて、自覚的主体性が欠落したまま、漂流しつつあると言えば、誇張にすぎるでしょうか。21世紀版「奴隷解放宣言」(注4)が必要です。
 著作『資本論』(大学時代のゼミで研究テーマでした)で知られるドイツのマルクスの今日的限界論も指摘されていますが、改めてマルクスに学び、21世紀版疎外論、物象化論をもっと深めることが現状打開のために緊急の課題であるように感じています。


 (注3)このコメントは2007年4月の時点で書いたもので、当時は自由市場原理主義(=新自由主義)は横暴を極めていた。その自由市場原理主義は2008年秋の米国金融恐慌に始まる世界金融危機とともに破綻したが、消滅はしていない。しぶとく生き残りを策している。
 (注4)日本国憲法18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定めてある。「奴隷的拘束」という文言が憲法に盛り込まれていることをどれだけの人が自覚しているだろうか。21世紀版「奴隷解放宣言」は憲法18条の含意を噛みしめることから始まる。
 昨今の日本における「奴隷」群像は、批判力を失い、思考停止病にかかっているところが特色である。そのタイプも企業型奴隷(企業の私利追求に無批判に追随し、身を粉にして働くサラリーマン)、消費型奴隷(消費を増やすことを豊かな暮らしと錯覚し、食事では無造作に食べ残しをするなど動植物の「いのち」を粗末にし、しかも環境の汚染・破壊に手を貸している消費者)、さらに日米安保型奴隷(日米安保体制=軍事同盟を絶対視し、米国の軍事力=抑止力で日本が守られていると勘違いしている気楽な人々) ― など多様である。


▽ロエブルの貨幣システム論
 エウゲン・ロエブル(注5)は「ヒューマノミックス」の創始者の一人と評価されている。ロエブルの貨幣システム論の内容は省略し、後藤氏の学生に贈る言葉(2006年創価大学にて)と私のコメントのみを以下に紹介する。
(注5)ロエブルは1907年チェコスロバキアで生まれ、ウィーン大学で近代経済学を学んだが、29年世界大恐慌を経験し、マルクス経済学に転じた。第二次大戦後は亡命先のイギリスから祖国へ帰り、経済官僚として活躍するが、当時のソ連首相と衝突し、投獄され、11年間の獄中生活を体験する。その間の研究と思索の成果が「ヒューマノミックス」である。


*「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」、「貨幣を支配する力とは何か。それは英知であり、アイデアである」
 これが後藤氏の学生に贈る言葉である。


〈コメント〉貨幣論の問題点
 ロエブルの貨幣論は理解しにくいところがありますが、「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」という学生への言葉(思想)をどうすれば実現できるかが基本的な問題です。そのための道筋を示すのがロエブルの貨幣論だと思います。
 以下にその問題点を列挙します。
@ロエブルは「所有権消滅」を唱えているが、所有権が消滅する未来社会は、どういうイメージの社会なのか。
 社会主義でも共産主義でもないとしたら、ユートピアの追求なのか。資本主義は否定し、一方市場経済は存続する社会らしい。市場経済がなお存在しているとしたら、所有権を否定する市場経済なるものが現実に存在し得るのか。
A法人税、所得税を廃止し、消費税を重視する提案となっている。消費税だけの国家財政になるのか。
 そうだとすると、そういう財政にどれほどの現実味が期待できるか。
 「政府のような公的機関が責任を負うべき社会的必要経費は政府またはそれを代行する中央銀行が貨幣を創造して直接その支出のための供給をする」とあるが、これはわが国の戦前、戦争中の赤字国債の日銀引き受けと同じような政策に思える。現実の政策として日本版赤字国債とどう違うのか。
B不平等、格差の是正策として高額所得者に過大な所得分を国庫に納めさせることを提案しているが、従来の高額所得者の税負担を重くする累進課税策とどう違うのか。
 累進課税を徹底すれば、所得面での格差にはそれなりに対応できるのではないか。
C「経済民主主義」の問題は現在すでに重要なテーマであり、今後は一段と重要性が増してくる。
 例えば企業の社会的責任、企業と政府の情報公開と説明責任、政策形成への市民の参加と参画 ― などが経済民主主義の柱で、現在、日本でも不十分ながら実施の方向に向かいつつあるとはいえないか。これと提案されている経済民主主義と質的にどう違うのか。
Dロエブルの貨幣システムを誰が担うのか。
 本書には「人間の自覚的自己制御の主体性の確立・・・」という言葉がしばしば登場してくるが、いいかえれば「自覚的自己制御の主体性を確立した人間」がロエブルの貨幣システムを担う ― と読める。ただこの種の人間は仏(ほとけ)ではなくとも、菩薩道(「世のため人のため」の利他主義)を実践できる人間であるに違いない。


▽人間主義経済学の人間観
 既存の経済学は、市場経済のみを対象とし、そこでの人間は抽象化された欲望と競争の主体でしかなかった。しかし現実の人間は単なる個体的存在としての自己保存本能をもつだけでなく、社会的存在としての相互依存性を自覚し、全体の利益である善を求め、自己コントロールをする存在である。さらには生命愛に目覚め、自然との共存によって「持続的な発展」を可能にするような生命共同体的な英知と慈悲を持つ存在である。
 これを「十界」(注6)の生命論に当てはめると、欲望と競争は餓鬼界と修羅界の原理になり、社会的価値である善を求める生命は人間界、菩薩界の原理になり、生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる。それらの原理の相互依存的統一体として人間は存在する。従って人間主義経済学は欲望と競争を原理とする市場システムだけでなく、市場システムの諸矛盾が生み出す苦悩を解決するための「自覚的自己制御」の原理を基底とするシステムを開発し、この二大サブシステムが相互媒介的に機能する総合システムでなければならない。自覚的自己制御の原理を「共同体原理」と名づけ、「市場原理」の生み出す矛盾に対応するものと考える。
(注6)十界(じっかい)とは、迷えるものと悟れるものとのすべての境地(生存の領域)を10種に分類したもので、地獄界に始まり、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天上界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩(ぼさつ)界、そして仏(ぶつ)界までの十界を指している。


〈コメント〉利己的人間観か利他的人間観か
 経済学はどういう人間観を想定して構築されているかがきわめて重要であり、それによってその経済学の質が明らかになります。既存の経済学(ケインズなどの現代経済学)はまさにご指摘の「欲望と競争の主体」としての人間像、いいかえれば利己主義的人間観を想定しています。私(安原)の提唱する仏教経済学は、これに対し利他主義的人間観に立っています。
 さて人間主義経済学の人間観に関連して気になるのは、「生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる」として仏界の原理を経済学の中に取り入れ、そういう仏的人間像が政治経済の改革を担うかのように描かれている点です。
 先に「ロエブルの貨幣システムを誰が担うのか」について「菩薩道を実践できる人間」と指摘しました。凡人であっても、菩薩道は精進によっては不可能ではありませんが、生身の人間が、あの釈尊(=仏教の開祖)のような仏的人間にたどり着くことがどこまで可能でしょうか。しかも政治経済の改革を現実に担うためには相当数の仏様が現実に存在する必要があります。
 「仏とは完成された人間であり、人間とは未完成の仏」ともいわれます。いいかえれば人間誰しも仏性を備えているわけで、生きて仏になる可能性はありますが、現実には難事中の難事です。まして昨今のように自由市場原理主義の浸透によって、餓鬼、畜生、修羅の巷(ちまた)をさ迷う利己的人間が横行し、地獄に堕(お)ちる人間も少なくない現状では、仏を目指すことは難問中の難問のように思います。しかしそれでも「人間革命、社会革命」は必要不可欠のテーマです。



(2)『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで ― 2003年5月

特に感銘を受けた点、興味深く拝読した箇所について若干の感想を述べます。


▽シューマッハーとロエブル
 シューマッハー(注7)は仏教思想に通じる人間観に立って新しい文明論を提起したが、ロエブルのパラダイム(新しい時代の方法的態度あるいは知的枠組み)もまた大乗仏教の縁起、空と同じ発想に立っており、仏教思想との接近を見る。             
(注7)E・F・シューマッハー(1911〜1977年)は、ドイツ生まれの経済思想家。主著『Small is Beautiful』(英語版は1973年に出版)は物質至上主義の現代文明に鋭い批判を放ち、世界的なベストセラーとなった。「Buddhist Economics」(仏教経済学)の一章をを設けてケインズ経済学と比較しながら仏教経済学の特色を詳しく論じている。邦訳版は小島慶三氏ら訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、1986年)。


〈コメント〉仏教思想との接点
 ロエブルの思想が仏教思想と重なり合うという視点には大変興味を覚えます。


▽世界宗教の条件
 文明的危機の時代における健全な世界宗教の条件として次の5点を挙げている。
@人間観の体系的なパラダイムとしての哲学を持つこと
A人類を救う救済力を持つこと
B時代に適応する弾力性、多面性、総合性を持つこと
C時代の問題に対する解決能力を持つこと
D人間に希望を与え、人間と自然との共存のため戦うモラルを育てること
 一方、堕落した宗教の特質について次の4点を指摘している。
@権威主義的なファンダメンタリズム(原理主義)
A民衆に付け込んで、宗教を金儲けの手段にする詐欺行為
B職業としての宗教。宗教は万人のための生活法であるから、分業社会の職業ではない。
C教義の中にある非科学的要素を無理に維持しようとするファンダメンタリズムの一種


〈コメント〉健全な宗教と堕落した宗教
 健全な宗教と堕落した宗教の条件、特質を明確に整理してある点は専門家ではない一般の人々にも大変説得力があるように思います。専門家はとかく宗教を個人レベルの救済について実践的というよりも思弁的に捉える傾向があります。衆生済度(人間大衆に限らず、地球上の生きとし生ける者すべてを救済すること)を目指す大乗仏教を唱えながら、現実には自己救済にこだわる小乗仏教の立場から抜け切れないのが実状といえるのでしょうか。
 健全な宗教の条件としては特にC、Dの実践的姿勢が大切ではないでしょうか。一方、堕落した宗教の欺瞞性として特にA、Bがもっと強調されてもいいように思います。こういう考え方からいえば、お布施狙いの葬式仏教しか視野にない昨今のお寺さんの多数は、堕落した宗教の担い手ということにもなります。


▽非暴力と戦争否定
・古代インドのアショーカ大王(注8)の国是 ― 非暴力と戦争否定 ― を戦争と殺戮横行の21世紀において評価し直す必要がある。
・戦争を放棄した日本は世界に非暴力を推奨していくべき義務がある。
・近代国家から戦争による殺人の権利を奪うことが、21世紀の目覚めた世界市民の責任である。
・人類を団結させる共通の目的とは、平和であり、環境問題であり、砂漠の緑化である。 
(注8)アショーカ大王(阿育王ともいう。治世前268〜232)は、古代インドにおける統一国家建設の偉業を果たしたことで知られる。王に即位してから武力征服による悲惨な結果に悔恨し、仏教に帰依し、「法による統治」へ政策転換した。殺生を禁じ、饗宴のための浪費を戒め、道路に植樹し、井泉を掘り、休息所を設置させた。人と家畜のための2種の療養院を建てたとも伝えられる。


〈コメント〉仏教思想の市民化が急務
 世界宗教、なかでも仏教の21世紀的課題は非暴力推進と戦争否定に尽きるといっても過言ではないと思います。地球環境問題の打開も砂漠の緑化も非暴力、戦争否定と表裏一体のものです。そういう視野を持たないで、人間救済、人類救済をいくら唱えても、空しすぎます。しかし残念ながら葬式仏教に偏している日本仏教の大勢はまさに堕落としかいいようがありません。だからこそ正しい健全な仏教思想の市民化あるいは民衆化が急務ともいえます。

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