呉線が開通して1ヶ月余りが過ぎた1904年(明治37年)2月4日、日本政府は御前会議において対露開戦を決定した。 6日、ロシアに国交断絶を通告、8日には海軍による旅順港攻撃、陸軍の仁川上陸により日露戦争が開始された(宣戦布告は10日)。 これに先立って、海軍軍令部は出動命令を伝えるために、艦隊に向けて使者を派遣した。 この情景を司馬遼太郎氏は、小説「坂の上の雲」で次のように描写している。(1)
連合艦隊は佐世保にいる。 それに対する出撃命令は東京の軍令部から出るわけであるが、この日発せられたのは 電報ではなく、使者であった。使者はこの二月四日の夜、汽車で東京をたち、東海道を くだった、使者としてえらばれたのは、軍令部参謀山下源太郎大佐である。 (中略) この当時、汽車はおそい。 東京を夜発ち、佐世保には翌五日の午後六時三十分につい た。 かれのカバンのなかには、海軍の用語でいう、 「封緘命令」 が入っている。
図1 速水氏推定の連絡時刻
「坂の上の雲」の描写に対し、関川夏央氏は著書の中で、慶応大学速水融名誉教授の指摘を紹介している。 当時の列車運行状況によれば、新橋発18時05分の神戸行急行に乗車すると、神戸着は翌日の11時19分、神戸13時20分発の下関行に乗り換え、終点の下関には出発から3日目の5時00分に到着する。 下関発5時20分の連絡船で関門海峡を渡り門司着は5時35分、ここで6時00分発長崎行の列車に乗車すると12時56分早岐着、13時24分発の佐世保行に乗り換えて13時55分に佐世保着となり、佐世保まで約44時間かかる計算になる。
2月4日の16時半に御前会議が終わり、急いで命令書をつくり、18時発の急行に乗ると、佐世保着は2月6日の14時である。 連合艦隊は2月6日の9時に佐世保を出港しているので、間に合わないことになる。
そこで、速水教授は次のような仮説を立てている。 山下大佐は御前会議の前日の2月3日夕方に東京を出発、神戸で乗り換えた下関行列車は。2月4日22時28分に広島に到着する。 広島での停車時間は9分あるので、呉鎮守府に転送された暗号電報による命令を受け取り、佐世保に向かえば、5日午後には佐世保に到着する。 これであれば命令の時間に余裕があるというのである。 図1に速水氏推定の連絡時刻表を示す。
この指摘について関川氏はおおむね同意しながらも、封緘命令の扱いについて疑問を呈している。 暗号電報で伝達するなら、山下大佐を派遣する必要はなく、佐世保に直接打電すればすむはずであると考え、次のように推論している。 既に2月3日の段階で封緘命令はあり、山下大佐はその日に封緘命令をもって東京を出発した。 広島で受け取った電報は4日の御前会議の正式決定を告げる連絡であったというものである。(2)
図2 明治37年1月現在の連絡時刻
速水教授の提示した運行時刻は、明治36年1月以前の所要時間である。(3) 明治36年1月20日に官有鉄道、山陽鉄道および九州鉄道の時刻改正が行われており、この改正で新橋―神戸間の急行列車のスピードアップ、山陽鉄道の最大急行の新設等が実施され、所要時間が短縮されている。 速水教授が参照した時刻表は不明であるが、明治37年2月の時刻表によれば、夕刻に新橋を発って佐世保に至る鉄道時刻は、次のようになる。
新橋発18時00の神戸行急行に乗車すると、神戸着は翌日の9時20分、神戸10時05分発下関行最急行に乗り換えると広島には17時08分着、広島に8分間停車して、終点の下関には22時00分に到着する。 下関発22時15分の連絡船で関門海峡を渡り門司着は10時30分、23時20分門司発の長崎行に乗車すると、5時17分早岐着、5時30分発の佐世保行に乗り換えて佐世保着は5時51分となる。(4) 所要時間は35時間51分で速水教授の推定より約8時間短縮されている。 図2に明治37年1月現在の連絡時刻表を示す。 しかしながら、この運転ダイヤによっても、司馬遼太郎氏が描いたような、東京(新橋)―佐世保間24時間移動は不可能である。
山下大佐の出発日と封緘命令の存在は、戦史で確認できる。 極秘 明治37.8年海戦史によれば、山下大佐は2月3日18時に封緘命令[註1]をもって東京を発し、広島を経て佐世保に至っている[註2](5)。 速水教授の指摘のように、山下大佐は2月3日に東京を出発しており、また関川氏の推論のとおり、2月3日の時点で封緘命令は存在していたのである。 山下大佐は4日に広島で中村第三艦隊参謀長に封緘命令を渡し、5日には佐世保で東郷連合艦隊司令長官に封緘命令を渡している[註2](6)。
そこで考えられるのは、山下大佐が広島での目的は封緘命令を第三艦隊に渡すことで、御前会議の正式決定を通告する電報を受け取ることではなかったのではということである。 この時点で、第三艦隊は連合艦隊の指揮下になかったため(3月4日編入)、封緘命令は連合艦隊と第三艦隊にそれぞれ出す必要があったためである。 なお、封緘命令の開封時間に関する電報は、5日13時30分に海軍大臣より連合艦隊および第三艦隊に発せられており、「直ニ開披」するように指示されている[註3](6)。
まず問題となるのは広島駅の停車時間である。 時刻表に示すように8分しかなく電報の授受であれば可能であろうが、封緘命令を渡すとなると余裕がないように思われる。 重要な命令書の受け渡しを、車内や普通の待合室で行うことは考えづらく、しかるべき場所(駅の貴賓室など)で行われると考えられる。
ところで、山下大佐を佐世保に派遣した理由は、連合艦隊の出動を命じる重大な命令を伝えるためであるが、他にも理由があったという。 山下大佐は、直前まで芝罘に出張しており、1月25日に帰国している。 この出張で、旅順方面では毎日「ノーウィック」や「バヤーン」などの巡洋艦を出して警戒にあたっており、その上この時期の同方面海面はかなり荒れていることが判明した。 連合艦隊では命令を受けたならば、直ちに佐世保から駆逐艦を同方面に出動させる計画であったが、このような状況下では危険であるとの判断があり、この情報を伝えるために山下大佐が派遣されたというのである(7)。 このような理由で派遣されたとすれば、第三艦隊にも同様な情報を伝達したと考えられる。 この点からも8分の停車時間では、短すぎるように思える。
図3 管理人推定の連絡時刻
次に、佐世保への到着時間が問題となる。 先に示したように下関行最急行に乗り続けた場合、佐世保着は早朝5時51分となる。 ところが、第一艦隊参謀の有馬良橘中佐(当時・後に大将)の回想によれば、「午後五時に密封命令が着しましたそれから命令起案に着手しました。」となっている(8)。 命令の受領時間が、山下大佐の佐世保到着から約11時間後であり不自然である。
以上から、管理人は山下大佐の行動を次のように考える。
山下大佐は新橋を2月3日18時00分の神戸行急行で出発し、神戸を経て広島に4日の17時08分に到着し、ここで下車する。 中村第三艦隊参謀長に封緘命令を渡し、旅順方面の状況を伝えると、23時25分発の急行に乗車、終点の下関には5日の5時35分に到着する。 下関発5時50分の連絡船で関門海峡を渡り門司着は6時05分、門司発6時35分の八代行に乗ると鳥栖着10時13分、鳥栖10時20分発の長崎行きで13時07分に早岐着、13時15分の佐世保行に乗り換えて佐世保着は2月5日の13時36分となる。(4) 管理人は、この行程で山下大佐が行動したと推測する。 図3に管理人推定の連絡時刻表を示す。
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