1989年(昭和64年)1月7日(午前6時33分)昭和天皇が崩御され、現在の上皇陛下が皇位を継承された。 元号は、翌日の1月8日に「平成」と改元された。 2月24日に大喪の礼が行われた。
1989年(平成元年)12月29日に日経平均株価が最高値38,915円を付けたが、同年5月から実施された日本銀行による金融引き締めと翌年3月に大蔵省が発動した総量規制とによってバブル景気は崩壊に向かう。 ここから「失われた10年」と呼ばれる「平成不況が」始まった。(1)
1990年(平成2年)6月29日、礼宮文仁親王(現・秋篠宮殿下)の結婚の儀が行われた。 皇室において昭和天皇崩御後初の慶事となった。
1990年(平成2年)8月、イラクのクウェートに侵入で湾岸危機が発生した。 翌1991年(平成3年)1月、国際連合は多国籍軍を派遣、湾岸戦争が勃発した。 日本政府は、停戦後の4月24日に「ペルシャ湾掃海派遣部隊」を、ペルシャ湾に派遣した。(2)
1991年(平成3年)11月に発足した宮沢喜一内閣は国連平和維持活動(PKO)協力法の成立に注力し、同法は翌1992年(平成4年)6月15日に成立した。 同年、カンボジアで国連平和維持軍(PKF)の監視下で選挙が行われるため、日本はPKO協力法に基づき、初めて自衛隊を派遣した。(3)
「ペルシャ湾掃海派遣部隊」の一員として、掃海母艦「はやせ」、掃海艇「ゆりしま」が1991年(平成3年)4月26日に呉基地より出動した。(4)
1992年(平成4年)3月20日、南スペインをイメージしたテーマパーク「呉ポートピアランド」が開園した。 しかしながら、この施設はアトラクション更新が進まずリピーターの獲得に失敗、バブル崩壊後の不況も重なり、1998年(平成10年)8月31日に、わずか6年5ヶ月で閉園した。(5)
1992年(平成4年)9月17日、国連平和維持活動(PKO)協力法に基づく国際平和協力隊が、カンボジアへ向け海上自衛隊呉基地を出港、呉からは補給艦「とわだ」が参加した。(6)
JR発足以来、国鉄時代には見られなかった変化が現れた。 1989年(平成元年)3月11日の改正では、可部線から呉線へ乗り入れる列車が、1992年(平成4年) 3月14日の改正では、呉線から可部線へ乗り入れる列車の運転が開始された。 また「呉ポートピアランド」開園前日の3月19日には、天応―小屋浦間に呉ポートピア駅が開業した。
図1に1992年(平成4年)3月改正の呉線時刻表を示す(9)。 呉−広島間には上り54本、下り52本が設定されている。
この改正で、「呉ポートピアランド」の開園に合わせ、徳山−呉間に臨時列車「呉ポートピアランド号」が上下1本設定されたが、余裕のないダイヤに割り込ませたためか、下りの呉−広島間の所要時間が52分(上り36分)となっている。
この頃から、広駅を境に三原−広間と広−広島間との系統分離が始まり、上下6本が広駅での乗り継ぎとなり、全通する列車が減少した。
また、坂―広島間に区間運転の列車が上下4往復(内2往復は休日・土曜運休)設定されている。 これは、1989年(平成1年) に広島女子商短期大学(現・広島文化学園大学)および広島女子商業高等学校(現・広島翔洋高等学校)が開校したために、通学需要に対応したためと考えられる。
図1 呉線時刻表 1992年(平成4年)3月
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