バブル景気は1991年(平成3年)の始めに終わり、「平成不況」と呼ばれる低迷の時代を迎えた。 1995年(平成7年)から1996年(平成8年)の期間にいったん経済成長率が回復したものの、その後再び景気は落ち込んだ。(1)
1993年(平成5年)6月9日、皇太子徳仁親王(今上陛下)の結婚の儀が行なわれた。 御成婚のパレードには19万人の市民が集まった。
1995年(平成7年)1月17日5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生した、 この地震によるによる人的被害は、死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名という極めて深刻な被害をもたらした(阪神・淡路大震災)。(2)
また3月20日にはオウム真理教により営団地下鉄の3路線に猛毒のサリンがまかれ、死者13人、重軽傷者6,252人という無差別テロ事件が発生した(地下鉄サリン事件)。(3)
1994年(平成6年)9月9日、呉市と周辺12町(江田島町、音戸町、倉橋町、下蒲刈町、蒲刈町、能美町、沖美町、大柿町、安浦町、川尻町、豊浜町、豊町)が、新たなせとうち海洋交流都市圏の創造」を目標とした、呉地方拠点都市地域に指定された。 なお、1市12町は、その後の合併により呉市、江田島市の2市となっている。(4)
1995年(平成7年)9月29日には、鳥取県西伯郡名和町(現・大山町)と友好都市縁組みがなされた(5)。 名和町は1931年(昭和6年)のロンドン海軍軍縮条約による人員整理で解雇された職工が、集団移住(29家族190余名)した土地である(6)。
1996年(平成8年)8月30日、広島呉道路(クレアライン)の広島市南区仁保新町―呉市西中央五丁目間が全線開通した(7)。 この道路を経由して広島市中心部へ直数する急行バスが設定され、呉線の強力なライバルが出現した。
1993年(平成5年)3月18日の時刻改正で、山陽新幹線に「のぞみ」が設定された。(8)
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災において、鉄道も大きな被害を受けた。 在来線だけでなく新幹線や地下鉄にも大きな被害が発生し、特に1960年代から1970年代にかけて造られた高架橋に被害が生じたほか、新幹線を中心に山岳トンネルの覆工にひび割れおよびコンクリートの崩壊が生じた。 (9) これにより、大阪と神戸を結ぶ鉄道3線(JR神戸線、阪急電鉄神戸線、阪神電鉄本線)の不通により一日45万人の足が奪われた。 対策として、代替バスによる輸送が行われ、バス優先レーンも設置されて、多くの人に利用された。 また、大阪−姫路間を結ぶJRの迂回ルートが設定されノンストップ列車が運行されるなど、生き残っている路線を用いた迂回ルートが利用された。(10)
1994年(平成6年)10月1日、電源開発竹原火力発電所の最寄り駅として安芸長浜駅が開業した。 1996年(平成8年)3月16日には広駅 - 広島駅間で快速が復活した。
図1に1996年(平成8年)3月改正の呉線時刻表を示す(11)。 呉−広島間には上り65本、下り63本が設定されていて、この内、上下8本が復活した快速列車で、呉−広島間の最速列車は上り27分、下り25分で運転されていた。
快速列車の復活はクレアラインの急行バスに対抗したものと考えられるが、朝夕の通勤通学時間帯には設定されておらず、この点で見劣りがする。
この改正で、日中の広−広島間の運転は、1時間に快速1本、普通3本が運転されるパターンのダイヤとなった。
また、三原−広間と広−広島間との系統分離は更に進み、上り10本、下り11本が広駅での乗り継ぎとなった。
この時刻表では、呉ポートピアランドへの入場客輸送用として設定された臨時列車「呉ポートピアランド号」の設定が無くなっている。 これは利用者減少によるものと思われる。
図1 呉線時刻表 1996年(平成8年)3月
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