1935年(昭和10年)11月24日、呉線が全通し時刻改正が実施された。 この改正で、従来は山陽本線経由であった東京−下関間急行7/8列車および普通列車8本が呉線経由となった。 また、京都−広島間に準急列車が1往復新設された。 この中に興味深い列車がある。 呉駅発上り最終列車である。 この列車は始発・終着駅を変えながら、この後30余年にわたり運転された。
図1 呉線上り最終列車時刻表:戦前・戦中
図1に戦前・戦中の呉線上り最終列車時刻表を示す。
1935年(昭和10年)11月24日の呉線全通時に設定された110列車は普通列車にもかかわらず、二三等寝台車および和食堂車を連結している。 このような列車は他にも見られ、1935年(昭和10年)11月時点で、京都−下関間110/111、112/113列車、東京−大阪間36/37列車等が設定されていた。(1) これは、当時の長距離移動の手段が鉄道が主力で、普通列車においても、寝台車や食堂車の需要があったためである。 1940年(昭和15年)10月10日の改正時にも、ほとんど変わらない時刻で運転されている(2) 。
なお、1935年(昭和10年)と1940年(昭和15年)の時刻は12時間制(午前:午前0:01〜午前12:00、午後:午後0:01〜午後12:00)であったが、他と合わせるため24時間制に換算した。
関門トンネルが開通した1942年(昭和17年)11月15日には、一気に鹿児島まで延長されて鹿児島―京都間232列車となった(3) 。 232列車にも寝台車が連結されているが、これは前述の110列車と同様の理由である。 また1941年(昭和16年)7月16日の3等寝台車連結廃止、食堂車連結列車減少をうけて、2等寝台車のみの連結となっている。 また、川原石駅の通過表示を「−」としたのは、川原石駅はガソリンカー(気動車)専用の駅だったが、ガソリンカーの運用中止により休止となったためである。
1943年(昭和18年)10月1日の決戦ダイヤ実施では、佐世保―京都間228列車となり、2等寝台車の連結も廃止されている(4) 。
戦時陸運非常体制実施下の1944年(昭和19年)10月11日では、呉線の時刻を見ると226列車の前後の時刻が掲載されておらず、呉線内に閉じ込められている状態に見える(5) 。 しかしながら山陽本線の時刻を確認すると、226列車は始発が出水になっている。 また門司・京都間當分間運轉停止との表記があるので、呉線内も運転されていないようである(6)。
1945年(昭和20年)1月15日では運転区間が徳山―京都間314列車となり、九州への乗り入れがなくなった(7) 。 1945年(昭和20年)6月10日には運転区間が広島―京都となり、広島以西の運行が打ち切られた形となった(8) 。
図2 呉線上り最終列車時刻:昭和20年代
図2に昭和20年代の呉線上り最終列車時刻表を示す。
昭和20年代初頭は石炭不足が深刻な問題となった。 1945年(昭和20年)12月には、列車の大幅な削減が行われた。 翌1946年(昭和21年)春にはやや回復したが、1947年(昭和22年)初頭に最悪の事態を迎える。 1月4日に急行列車および2等車が全廃され、旅客列車キロ数は、敗戦時を下回る状況に陥った。 3月に一部列車が復活し、4月には東京−門司・博多間に各1往復が復活したが、本格的な復活が始まるのは6月末からである。
敗戦から約半年経った1946年(昭和21年)2月1日では、314列車は運転区間が広島―上郡となり、広島以西の運行は打ち切られたままで、上り方面が兵庫県西部で打ち切られた(9) 。 前記のように列車運行は石炭情勢に左右され、この列車の発駅や行き先も目まぐるしく変わった。
行き先が京都になったのは1946年(昭和21年)5月20日であったが、発駅は広島のままであった(10)。 1947年(昭和22年)1月4日に急行列車および2等車が全廃されたので、314列車も3等車のみの編成となった(11)。 同年6月29日には行き先が三ノ宮(12)、11月1日には岡山まで短縮された(13)。 1948年(昭和23年)7月1日になると、門司―大阪間8204列車となった(14)。 この8000番台の列車番号は臨時列車(当時は復員列車にも)割り当てられるもので、どのような理由で附番されたかは不明である。 1949年(昭和24年)9月15日には門司―京都間224列車となり、京都行きが復活した(15)が、1950年(昭和25年)10月1日には門司―大阪間216列車となった(16)。
1952(昭和27年)年4月1日には216列車の行き先が再び京都となり、2等車連結も復活した(17)。 以後、列車の廃止まで行き先は京都であった。 ところで「呉駅発、上り最終列車」と称して、呉線全通時に設定された普通列車を紹介してきたが、1952(昭和27年)年4月1日の改正で、もう1本遅い列車が出現した。 佐世保―東京間急行1002列車である(17)。 「特殊列車」と表記されているこの列車は、連合軍専用列車「Dixie Limited」を臨時急行(旅客案内上は特殊列車)として発券枚数を制限の上、日本人の一般旅行者に対して開放したものである。 「Dixie Limited」は1946年(昭和21年)3月25日に呉線経由に設定されたが、設定当時は連合軍専用列車であり、日本人の一般旅行者は乗車できなかったため、時刻表に記載がなかった。 このため、特殊列車となり突然出現したように見えたのである。 この列車は1952年(昭和27年)9月1日で山陽本線まわりとなり、「呉駅発、上り最終列車」ではなくなった。
1953年(昭和28年)になると、運転区間が鹿児島−京都となり、戦前に戻った(18)。 この後しばらくは、この運用となった(19)。
図3 呉駅最終列車:昭和31〜42年
図3に昭和31〜42年代の呉線上り最終列車時刻表を示す。
1956年(昭和31年)6月以降も引き続き、鹿児島−京都間の普通列車として設定されている(20)(21)。 1958年(昭和33年)10月1日以降、川原石駅の通過表示が「−」から「レ」になっているのは、1958年(昭和33年)8月1日に川原石駅が再設置されたためである(22)(23)。
1961年(昭和36年)10月になると、運転区間が鳥栖−京都に短縮された。 また、前年の1960年(昭和35年)7月1日に列車等級の一等車が廃止され、二・三等車がそれぞれ一・二等車に格上げされて2等級制となったことを受け、列車等級の表示は一・二等車になっている。(24) 1962年(昭和37年)10月以降は一等車連結表示のみとなっている。(25)(26)(27)
1965年(昭和40年)10月時点で、運転区間が門司−京都に短縮され、一等車(現・グリーン車相当)も編成から外されている。(28)
この一風変わった長距離列車は1967年(昭和42年)10月改正を乗り越えた(29)が、翌1968年(昭和43年)3月に廃止された。 (30)
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