日清戦争に勝利した日本は1895年(明治28年)4月、日清講和条約(下関条約)を結んだ。 この条約により台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲、賠償金2億両などを得たが、ロシア・ドイツ・フランスの介入により、遼東半島の返還を余儀なくされた(三国干渉)。 これに対し、国内では「臥薪嘗胆」の合い言葉が叫ばれ、この気運の中で政府は軍備拡張と国力の充実を図ることとなる。(1)
1900年(明治33年)義和団の乱が発生、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・フランスなどと共に出兵、これを鎮圧した(北清事変)。 ロシアは北清事変収拾後も満州から撤兵せず、さらには南下の気配を見せ、朝鮮半島に進出しようとしていた日本と対立した。 大国ロシアに対抗するため、1902年(明治35年)に日本はイギリスと日英同盟条約を結んだ。 1903年(明治36年)8月から、満州・朝鮮半島問題を巡り日露間で交渉が続けられたが、ロシア側が朝鮮半島における日本の優越権を認めなかったために、交渉は行き詰まった。(2)。
呉鎮守府の開庁とその後の拡張により、呉港は急激に発展する。 後に呉市を形成する、宮原、荘山田、和庄の3地区は、呉鎮守府開庁前の1889年(明治22年)の人口が12,844人から、日清戦争をはさんだ1889年(明治32年)には3,7314人と2倍以上に増加している。 呉港の発展は呉湾に臨む町村の合併を促進することとなり、1902年(明治35年)10月1日、和庄町、荘山田村、宮原村および二川町(吉浦村から川原石・両城地区を分離して成立)が合併して呉市が誕生した。(3)
1872年(明治5年)9月の新橋―横浜間の開業以来、官有鉄道は東海道線を全通[1889年(明治22年)7月1日]させ、信越、奥羽、中央、北陸の各幹線の工事を進めていたが、他の幹線は私鉄の手によって工事が進められていた。(4) 山陽線は山陽鉄道により、1894年(明治27年)6月10日に三原(現・糸崎)−広島間が開通し、神戸−広島間の直通運転(3往復)が始まった。 10月10日には、3往復中1本を「急行」とし、それまでの所要時間9時間40分から8時間56分に短縮した(5)。 1901年(明治34年)5月には、山陽鉄道が馬関(現・下関)まで開通。 これに合わせて、神戸−馬関間「最大急行」1往復(所要12時間35分)、「急行」3往復が設定された(6)。
呉線の開通は1903年(明治36年)12月27日(海田市−呉)であるが、計画は古くからあり、1892年(明治25年)6月21日に制定された鉄道敷設法(明治二十五年六月二十一日法律第四号)第一章第二条で「廣島縣下海田市ヨリ呉ニ至ル鐵道」として規定されている。 また同法第二章第七条では、「豫定線路中左ノ線路ハ第一期間ニ於テ其ノ實測及敷設ニ著手ス」として同区間も記載されている。 同じく第二章第七条に規定されている路線には、「佐賀縣下佐賀ヨリ長崎縣下長崎及佐世保ニ至ル鐵道」、「京都府下京都ヨリ舞鶴ニ至ル鐵道若ハ兵庫縣下土山ヨリ京都府下福知山ヲ経テ舞鶴ニ至ル鐵道」がある。(7) 前者は現・佐世保線[1898年(明治31年)1月20日全通]、後者の一部が現・舞鶴線[1904年(明治37年)11月3日全通]である。 いずれも、対外戦争に備えて、軍港への鉄道建設を急ぐために規程されたものと考えられる。 尚、横須賀線は本法の公布以前の、1889年(明治22年)6月16日に開業している。
予定線には入ったものの、予算難から早期の着工はなされなかった。 このような中、1895年(明治28年)初頭には、民間の有志により、広島−呉間の鉄道建設を目論む呉鉄道株式会社が発起され、認可申請がなされたが着工に至らなかった。 1900年(明治33年)3月に至り、第十四議会において4カ年継続事業として認可、1901年(明治34年)5月27日に起工された。 海田市−呉間は15マイル46チェ―ン(20.23km)であったが、地形の関係で難工事となり、トンネル12カ所、橋梁24カ所、海面埋立3マイル24チェ―ン(5.31km)に及んだ。 海田市で接続する山陽鉄道は海田市−広島間を複線化して開通に備えた。(8)
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