呉線の呉−海田市間は1903年(明治36年)12月27日に開業したが、開業当日の模様は以下のように伝えられている。(1)
午前九時四十五分広島駅を発した処女列車には、徳久知事、坂田監督監等一五〇余名を乗せ、十一時十分呉駅に到着したのであるが、海田市を始め矢野、坂、天応、吉浦の各駅とも何れも開通を祝するため、駅前には種々の催しをなし球燈を列ね国旗を立て、餅、蜜柑等を播き花火の打揚げを行ったのである。十一時十分呉駅に到着するとこれを合図として花火を打揚げ、楽隊の奏楽も行われ、駅員の案内によって停車場北側プラットホームに設けられた山陽鉄道模擬茶店に入って休憩し、随意飮食をなし十一時三十分式場に入ったのである。式場は停車場東北側の広場に設けられ、?軍武官、呉市及び附近の臨場者と共に三八〇余名列席し式始まるや先づ逓信大臣(大浦兼武)の祝辞代読、次に鉄道作業局建築部長工学博士、搏c礼作氏?辞を朗読し、徳久知事又代表して答辞を読み終って柴山長官[註1]の発声にて、天皇陛下の万才を三唱し作業局より本市溝口製の折詰を配布して式を終り、再び模擬店に入ったのであるが時に十二時三十分この間絶えず奏楽し続けたのである。
(中略)
なお当日の余興として、共立券番芸妓一同八五名の木綿K紋付の扮装による夫婦万才、朝日券番芸妓一同五〇名は白拍子の花車にて共に模擬茶店前の余興場に入り手踊りを行ったのである。
蕎麦店、茶店、ビヤホール等の模擬店は山陽鉄道会社の最も意を用いたものであって、当日の接待役は山陽鉄道より専務取締役牛場真造氏以下、鉄道作業局より同局広島出張所小城齊氏以下技師、駅員以下何れも叮重に接待して、些の遺憾なく来賓何れも満足したものの様であった。
更に駅前堺橋詰に大獄蛯設けて当日呉市中は何れも休業して祭礼の如き観を呈したのである。
呉駅に於ける開業当日の乗客数は一,六四〇名であって、降客数は一,四二〇名である。
広島駅より呉行乗客数四〇二名で、呉駅よりの広島駅降客数は二八〇名に上ったのである。
※一部の字は新字体に改めた。
図1 呉線時刻表1903年(明治36年)12月
開業時の呉線は、呉―海田市間に、吉浦、天応、坂、矢野の4駅が設置されていた(2)。 図1に開業時の呉線時刻表を示す(3)。 この時刻表は、縦組みで、上段に駅名が右から左へと並び、その下に列車時刻が和数字で示されている。 また、「注意」として、「日露開戦ノ暁ニハ休止或ハ時刻ノ變更アレバ豫知アリタシ」の記載があり、開戦直前の緊迫した雰囲気がうかがわれる。
呉−広島間6往復、呉−海田市間3往復の運転で、最速列車は呉−広島間を56分で走破している。 なお、呉発午前9時45分発・海田市着10時32分の列車および海田市発午前10時00分発・呉着10時47分の列車は、貴重品運送列車であった(4)。 現金輸送に使用されたと考えられるが、詳細は不明である。
呉線の開業に合わせ、山陽鉄道との接続駅である海田市には、最急行(現在の特急)1本と、急行1本が停車するようになった。
最急行列車は、下り下関行きが海田市発午後5時00分、上り大阪行きが午前10時41分であるから、下りには呉発午後4時5分発・海田市着4時50分の列車、海田市発午後5時5分発・呉着5時55分の列車が接続、上りには呉発午前9時45分発・海田市着10時32分の列車、海田市発午前10時50分発・呉着11時36分の列車が接続していた。
急行列車は、下り下関行きが海田市発午前11時5分、上り大阪行きが午後9時14分であるから、下りには呉発午前9時45分発・海田市着10時32分の列車が接続、上りには呉発午後8時20分発・海田市着9時4分の列車、海田市発午後9時25分発・呉着10時10分の列車が接続していた。(5)
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