幕末に幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に関する問題は、明治維新以来の課題として残されていた。 1899年(明治32年)に欧米各国と新たな通商航海条約が結ばれたが、いまだ不十分なものであった。 1911年(明治44年)に改正条約の満期を迎え、条約改正の交渉を始めたときには、日露戦争の勝利で国際的な地位をこともあり、列国の反対もなく関税自主権の完全回復が実現した。(1)
ロシアは極東での南下策から西アジア・バルカン半島方面への進出に転じた。 日本とロシアとは協調的となり、1907年(明治40年)~1916年(大正5年)の間に4回にわたる日露協約を結び、満州・内蒙古(内モンゴル)における権益や勢力範囲について協定した。 ロシアとの協調は進んだが、逆にイギリスとの関係は、1911年(明治44年)の日英同盟改定で、アメリカが交戦相手国の対象外に定められるなど、次第に冷却化していった。 また、アメリカとは、日本の南満州への進出が活発になると、鉄道権益をめぐり次第に対立していった。(2)
第3次日韓条約に反対する韓国内の勢力は、反日武装闘争を強めたが、1909年(明治42年)10月、韓国統監・伊藤博文が暗殺されるに至り、1910年(明治43年)に大韓帝国を併合した。(3)
1909年(明治42年)10月31日、呉電気鉄道により、鉄道踏切~本通九丁目間2.3kmの市街電車が開業した。 これは、広島県初の電気鉄道であり、中国地方では岩国に次いで2番目、全国でも7番目であった。 12月26日には今西通3丁目~呉駅前間0.3kmの分岐線が開通、翌1910年(明治43年)4月27日には鉄道踏切~川原石間0.3kmが開通した。 尚、鉄道踏切停車場は、呉線の踏切をはさんで設置されており、踏切を徒歩で渡って乗り換える必要があった。 1911年(明治44年)3月26日には、本通九丁目~鹿田間0.6kmが専用軌道で開通した。(4)(5)
乗降人数 (人/日) |
呉市人口 | |
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1908年(明治41年) | 1,703 | 93,082 |
1910年(明治43年) | 2,097 | 102,264 |
1912年(大正元年) | 2,562 | 117,560 |
表1に1908年(明治41年)~1912年(大正元年)における呉駅乗降人員(9)および呉市人口(10)の推移を示す。 この期間で呉市の人口が26%増加しているのに対し、乗降客数の増加は50%で、人口に比べて伸びが大きい。
日露戦争後も呉工廠は拡充され、1906年(明治39年)に第二船台竣工、1912年(明治45年)3月11日に第三船渠と造船船渠が同時開渠した。 また、一等巡洋艦(後の巡洋戦艦)「筑波」が1907年(明治40年)1月14日竣工、同型艦「生駒」が1908年(明治41年)3月24日に竣工した、さらに、、一等巡洋艦(後の巡洋戦艦)「伊吹」が1909年(明治42年)11月1日に竣工、戦艦「安芸」が1911年(明治44年)3月11日に竣工、1912年(明治45年)7月1日には日本海最初の弩級戦艦「摂津」が竣工するなど活況を呈していた。(11) このあたりが人口と呉駅乗降客数の増加に関係している可能性がある。
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