1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御された。 同日、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が践祚し、昭和と改元された。
関東大震災のため決済困難となった手形による金融危機を回避するため、政府により支払猶予令(モラトリアム)や震災手形割引損失補償令が出され、被災地に関係する手形を日本銀行が再割引することで補償の対象となった。 しかしながら、日本銀行が割引いた債権の中に不良債権が大量に含まれており、1926年(昭和元年)末の段階で2億680万円が未回収となっていた。
1927年(昭和2年)1月、第一次若槻禮次郎内閣は、震災手形問題解決のため震災手形2法を議会に上程したが。この処理を巡る政争から法案の審議は紛糾した。 3月14日には片岡直温蔵相の失言から東京渡辺銀行を含む複数の銀行が取り付けにあい、休業に追い込まれた。 これにより昭和金融恐慌が勃発した。 日本銀行の緊急融資と震災手形2法案の成立で、一旦混乱は収まったが、4月に生じた台湾銀行の経営危機に対して、救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、台湾銀行は4月18日から休業、若槻内閣は総辞職した。 この結果、金融システムへの不安が再び表面化し、全国的な取り付けと36の銀行の休業へと発展した。
あとを受けた田中義一内閣の高橋是清蔵相は、3週間の支払い猶予令を発した。 また日本銀行から市中銀行に対し18億6,800万円の特別融資を行った。 これらの対策により5月には一連の恐慌は収束に向かった。(1)
1929年(昭和4年)7月、金解禁や緊縮財政等の経済政策と協調外交を方針とした濱口雄幸内閣が成立した。 政府は11月21日に、翌年1月11日をもって金解禁を実行することとし、予定通り実施された。 しかし、10月24日にニューヨークのウォール街で起こった株価の大暴落によって世界恐慌が発生、この恐慌と緊縮財政とによる不況とあわせ、日本経済は二重の打撃を受けた。(2)
1928年(昭和3年)6月4日、関東軍による張作霖爆殺事件がおきる。 この事件の処理に失敗した田中義一内閣は総辞職に追い込まれた。(3)
濱口雄幸内閣は海軍の反対をおさえて、1930年(昭和5年)10月2日に、主力艦(戦艦)艦建造禁止の5年間延長、巡洋艦以下の補助艦艇の制限などが盛り込まれたロンドン海軍軍縮条約に調印した。 これに対し海軍強硬派、野党、国粋団体などが統帥権干犯として激しく非難した。 これがもとで、濱口首相は11月に東京駅で国粋団体員に狙撃され重傷を負った(翌年8月死去)。(4)
1928年(昭和3年)4月1日、呉市は吉浦、警固屋、阿賀町を編入、人口は176,234人に達した。(5)
ワシントン条約により新艦建造が減少した呉工廠では、主力艦の近代化改装が主な仕事となっていたが、さらにロンドン海軍軍縮条約が批准されたため、1931年(昭和6年)4月18日、呉工廠において3,723名の人員整理が実施された(6)。
昭和恐慌下で鉄道の輸送量も減少し、経営が苦しくなっていた鉄道省は打開のための手を打ちはじめる。 1929年(昭和4年)9月15日に、東京−下関間一二等特急に「富士」、三等特急に「櫻」の愛称をつけた。 1930年(昭和5年)10月1日には東京−神戸間各等特急「燕」が登場した。 この「燕」は東京−神戸間を9時間で走破し、従来の「富士」による同区間11時間37分を一挙に2時間半も短縮し、「超特急」と呼ばれた。 また、各都市間に料金不要の準急列車を増発、各線区でのスピードアップも実施された。(7)。
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