三呉線とは、1922年(大正11年)4月11日に法律第37号で公布された鉄道敷設法において「政府ノ敷設スヘキ予定鉄道線路」として別表に掲げられた「広島県三原ヨリ竹原ヲ経テ呉ニ至ル鉄道」に相当する(1)。
三呉線の構想は1892年(明治25年)頃におこった、内藤守三(のち衆議院議員)らによる「呉鎮守府両翼鉄道敷設計画」運動にその原型が見られる。 この内、海田市−呉間については1903年(明治36年)12月27日に開業をみた。 その後、1910年(明治43年)に後藤新平鉄道院総裁による全国鉄道広軌改良案が主唱されると、これを契機に沿岸鉄道期成同盟会が結成され、三呉線建設運動が行われたが、政変により機会を逸した。
1920年(大正9年)、原敬内閣で鉄道網の拡充が計画されると、三呉線建設運動が再び盛り上がり、10月12日には竹原町を中心に三原呉間海岸鉄道期成同盟会が結成された。 呉市においても1921年(大正10年)2月28日に呉三原間鉄道速成意見書を可決、3月2日には内閣総理大臣・鉄道大臣・内務大臣あてに請願書を提出した。 また、前述の同盟会に呉市も参加し、活発な陳情活動を展開した結果、前記の鉄道敷設法が成立した。
1922年(大正11年)後半から請願運動は三度高揚し、8月から9月にかけて沿岸各町村による大会が開かれ、それぞれ即時建設を決議した。 9月2日には呉座で三呉線敷設達成市民大会が開催された。 この大会において、第3次の三原呉間海岸鉄道期成同盟会も結成され、猛烈な請願活動が展開された。 この結果、12月19日の鉄道会議での建設答申、翌1922年(大正11年)3月には大正12年度着手線として議会承認された。 1923年(大正12年)秋には三原−竹原間の測量が完了、翌1924年(大正13年)5月には呉−竹原間の測量も開始されたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災の影響で、着工は延期された。 この後も、請願が繰り返され、1927年(昭和2年)6月1日に至り鉄道大臣より着手命令が到着、11月15日に起工にこぎ着けた。(2)
図1 三呉線時刻表 1930年(昭和5年)10月
1930年(昭和5年)3月19日、三原−須波間が開業(1)した。 図1に、10月1日改正の三呉線時刻表を示す(3)。 糸崎−須波間に5往復、三原−須波間に2往復が設定されており、全て気動車列車である。
なお、この時刻表では氣動車となっているが、この当時に鉄道省が所有していた「気動車」はガソリン動車のキハニ5000形式もしくは、蒸気動車(キハニ6450他)である。 1931年(昭和6年)3月31日時点で、糸崎機関区にキハニ5000形が2両配置 されている(4)ことから、三呉線に投入されたのはキハニ5000形と思われる。
軸配置 | 1A |
---|---|
運転室 | 両運転室 |
車長 | 10,050mm |
機関定格出力 | 48PS(35.3kW)/1,600rpm |
自重当たり機関出力 | 3PS/t(2.2kW/t) |
定員 | 43人 |
最高速度 | 60km/h |
キハニ5000形は鉄道省初の内燃動車(ガソリン動車)として、1929年(昭和4年)に12両が製造された、三等(定員43人)荷物合造の二軸車である。 機関は池貝鉄工所製の舶用ガソリン機関を改造して48PS(1,600rpm)とし、動力伝達方式は機械変速式で、最高速度60km/hであった。
表1にキハニ5000形の要目を示す(5)。
自重が15tと比較的重く、重量あたりの出力不足により加速性能が低く、軽快性に欠けていたといわれている。 このため、平坦線の大垣〜美濃赤坂間(6km)、徳島〜小松島間(12km)、仙台〜塩釜間(15km)などの小運転に充当されたが、故障車が多かったこともあり増備はされなかった。(5)
三呉線の場合、海岸沿いの平坦線であること、開業当時の須波駅乗車人数が90.5人/日(6)であることから、キハニ5000形の投入は実情にあったものと考えられる。
図2 三呉線時刻表 1931年(昭和6年)4月
1931年(昭和6年)4月28日、須波−安芸幸崎間が延伸(1)、安芸幸崎駅が開業した。 図2に、4月28日改正の三呉線時刻表を示す(7)。
全列車が糸崎発着となっており、糸崎−安芸幸崎間に7往復が設定されている。 気動車は引き続きキハニ5000形ガソリン動車が使用されたと思われる。
図3 三呉線時刻表 1932年(昭和7年)7月
1932年(昭和7年)7月10日、安芸幸崎−竹原間が延伸(1)、忠海、大乗、竹原の各駅が開業した。 図3に、1932年(昭和7年)7月10日改正の三呉線時刻表を示す(8)。
糸崎−竹原間に10往復となり、3往復が増発されている。 時刻表の気動車の表記が消えていること、また1933年(昭和8年)3月31日時点で、糸崎機関区へのキハニ5000形の配置がなくなっている(4)ことから、この改正で機関車牽引列車に変更されたものと考えられる。
図4 三呉線時刻表 1935年(昭和10年)2月
1935年(昭和10年)2月17日、竹原−三津内海間(現・安浦)が延伸(1)、吉名、安芸三津(現・安芸津)、風早、三津内海の各駅が開業した。 新設された駅のうち、三津内海は、三津口町と内海町との境に設置されたことから、両町の町名を冠したものとされたが、三津口町の「口」が省かれたことから、三津口町と内海町との間で相当紛糾したようである(9)。
図4に、1935年(昭和10年)2月17日改正の三呉線時刻表を示す(10)。 糸崎−三津内海間10往復で、本数は増えていない。
この後11月24日に三津内海−広間が開通し、3月24日に開通していた呉−広間と接続し、呉線が全通した。
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