1931年(昭和6年)12月に成立した犬養毅内閣は金輸出再禁止を断行、兌換制度を停止して、日本は管理通貨制度の時代に入った。 金輸出再禁止により為替相場は円安となり、これを利用して輸出振興をはかった。 高橋是清蔵相の赤字国債発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張と、輸出振興とにより、日本は他の資本主義国に先駆けて、1933年(昭和8年)頃までに恐慌を克服した。(1)
1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。 関東軍は軍事行動を起こし、1932年(昭和7年)2月頃には、満州全土をほぼ占領した。 同年1月には戦火が上海に飛び火、第一次上海事変が勃発した。 3月1日、満州国建国が宣言され、執政には清朝最後の皇帝であった溥儀が就いた。 1933年(昭和8年)2月、国際連盟はリットン調査団の調査結果に基づいて、満州における自治政府樹立と日本の撤退勧告案を42対1で可決した。 松岡洋右全権は議場から退場し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。(2)
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて、井上日召が率いる血盟団による連続テロ事件が発生した(血盟団事件)。 また、5月15日には海軍青年将校や、農本主義者が首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、日本菱銀行などを襲撃、犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。(3)
満州事変と第一次上海事変は、呉市に好況をもたらした。 1932年(昭和7年)末の臨時職工の募集は7,000に達し、在来の職工も7割が2時間残業という状態となった(4)
1934年(昭和9年)12月1日、,丹那トンネル完成により、熱海線・国府津−沼津間全通、東海道線に編入された。 同日、岩徳東・西線・麻里布(現・岩国)-櫛ヶ浜間開通、山陽線に編入された。 これら幹線の切り替えにより、列車のスピードアップおよび編成の増大が行われた(5)。
図1に1932年(昭和7年)9月時点の呉線時刻表を示す(6)。 呉−広島間に17往復が運転されている。 1930年(昭和5年)10月改正時と運転本数は同じ、時刻は一部列車が変更されている程度である。 しかしながら、欄外に「下リ第623列車、上リ第602列車ハ海軍工廠通勤職工専用列車デス」の表記がある。 調査した時刻表で唯一掲載されていた。
職工専用列車とは、その名のごとく職工用定期券の携帯者のみが乗車できる列車であった。 「下リ第623列車」は呉発午後5時20分発の退勤用列車、「上リ第602列車」は呉着午前6時着の通勤用列車である。 この列車の利用は300〜250人あったものが、この年9月から前述の好況による残業拡大(70%)で150程度の利用となり、門鉄局は12月1日から休止を決めたが、呉工廠や呉駅長の陳情により3日から、4両編成の専用列車を廃止するかわりに次発の625、604列車に2両ずつ増結することになった。 1933年(昭和8年)7月になると臨時職工の大量採用により作業が緩和され、定時退廠者増加により8月15日より職工専用列車(4両)が復活したが、9月には残業職工増加のため再び休止となった。(7)
図1 呉線時刻表1932年(昭和7年)9月
図2に1934年(昭和9年)12月時点の呉線時刻表を示す(8)。 呉−広島間に32往復、坂−広島間に1往復が運転されている。 この内、18往復が気動車列車であり、快速運転も行われ、最速の列車は呉−広島間34分と、現在の安芸路ライナー並みの速度である。
図2 呉線時刻表1934年(昭和9年)10月
呉線への気動車導入は、1929年(昭和4年)4月15日に呉商工会議所総会で「呉広島間鉄道電化要望の件」が可決され、呉線電化運動が開始されたことに始まる。 同年8月23日には、電化までの暫定措置として、無煙化の要望を門司鉄道局に陳情した。 この後、毎年のように無煙化が要望されたこともあって、気動車(ガソリンカー)が導入されることとなり(9)、1934年(昭和9年)4月10日から臨時列車として運転が開始され、同年6月8日のダイヤ改正から定期列車化された(10)。
しかしながら、当時の気動車の動力はガソリンエンジンと歯車式変速機の組み合わせのため単行運転が基本(重連運転時には各車両に運転士が乗り込み、ブザー合図で同調運転を行う)で、輸送力はさほど向上していないと考えられる。
国鉄気動車形式別配置車両数一覧表によれば、広島機関区に1935年(昭和10年)時点でキハ41000形が、1937年(昭和12年)時点ではキハ41000形とキハ42000形が配置されている(11)。 呉線のガソリンカー運転には、この2形式が充当されたものと考えられる。
キハ41000形はキハニ5000形(三呉線開業時に使用された)やキハニ36450形の実績や地方私鉄の動向をもとに開発された。 エンジン出力不足を補うため徹底した軽量化設計をしている。 また空気抵抗低減のため車体断面を一般客車より一回り小さくしている。さらに発車時の走行抵抗低減のためにSKF社製遊(スウェーデン)のローラーベアリングを使用している。 1936年(昭和11年)までに138両が製作された(12)。
キハ42000形は一般客車並みサイズのガソリンカーへの要請に応えたもので、主要部はキハ41000形を基本とし、主機関もキハ41000形の6気筒100PS(73.5kW)エンジンを8気筒150PS(110kW)として部品の共通化を図っている。 1937年(昭和12年)までに62両が製作された(12)。
表1にキハ41000、42000形の要目を示す(12)。
形式 | キハ41000 | キハ42000 |
---|---|---|
軸配置 | 2軸ボギー 1軸駆動 | 2軸ボギー 1軸駆動 |
運転室 | 両運転室 | 両運転室 |
車長 | 16,120mm | 19,694mm |
幅 | 2,600mm | 2,600mm |
高さ | 3,535mm | 3,535mm |
自重 | 19.8t | 25.6t |
席配置 | クロスシート | クロスシート |
機関 | GMF13形 | GMH17形 |
機関定格出力 | 100PS(73.5kW)/1,300rpm | 150PS(110kW)/1,500rpm |
自重当たり機関出力 | 5PS/t(3.7kW/t) | 6PS/t(4.4kW/t) |
定員 | 109人 | 120人 |
最高速度 | 90km/h | 95km/h |
この汽車時間表 昭和9年12月号には「名物調」というページがあり、各駅の名物が紹介されている。 呉は、「清酒」、「万年筆」、「軍艦煎餅」、「海兵団子」となっている。 ちなみに、横須賀は「三笠煎餅」、「ひじき」、「海雲(もずく)」、舞鶴は「藁巻鰤」、「鰮桜干」、「袋烏賊」、佐世保は「平和の友(味附干えび)」、「五色餅」となっており、呉が一番軍港色が濃い。(13)。
表2に1934年(昭和9年)頃の呉市の土産品を示す(14)。 前記のものも含めて、海軍関連の品が多いのがわかる。 この他にも、呉名物「巡羊羹」という土産物もあったらしい(15)。
名称 | 定価 | 発売元 | |
---|---|---|---|
菓子類 | 海兵団子(箱入) | 十五銭より | イカリヤ商店 |
軍港煎餅(箱入) | 十銭より | 楠堂本店 | |
軍艦煎餅(箱入) | 十銭より | 豊国堂 | |
ちちぼ焼(箱入) | 二十銭より | 鈴木勇進堂 | |
五味煎餅(箱入) | 二十銭より | 天明堂 | |
戦勝餅(箱入) | 十五銭より | 明治堂 | |
海軍団子(箱入) | 二十銭より | 明治堂 | |
海兵煎餅(箱入) | 二十銭より | 明治堂 | |
柿羊羹(竹皮) | 十銭より | 岡田菓子店 | |
海軍みやげ(箱入) | 森永製菓株式会社 | ||
その他 | 軍艦模型(硝子箱入) | 三円より | 海洋社 |
軍港焼(陶器類) | ― | 白焼軍港焼株式会社 |
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