1930年代の中頃になると、軍部、特に陸軍の政治的発言力が大きくなっていたが、内部では「皇道派」と「統制派」と呼ばれるグループを中心とする派閥対立が激化していた。 1935年(昭和10年)8月、皇道派の相沢三郎中佐が、陸軍省内で軍務局長永田鉄山少将を斬殺する事件が発生した(相沢事件)。(9) また、この年には貴族院議員で憲法学者の美濃部達吉の天皇機関説が、日本の国体にそむく不敬の学説であると、軍部や国粋団体から攻撃をうけ、美濃部は貴族院議員を辞任し、その著書は発禁となった(天皇機関説事件)。(2)
呉市は1935年(昭和10年)11月に予定された呉線全通を記念して、産業博覧会の計画をたてた。 この計画は、国防意識の高揚に役立てようとする海軍の意向を入れて、「国防と産業博覧会」として3月27日から5月10日の期間で開催され、709,588の入場者があった。(3)
鉄道網の整備に合わせ、鉄道局の新設が行われ、1935年(昭和10年)8月1日に広島(大阪・門司から分離)鉄道局が開設された。(4)
1935年(昭和10年)3月24日、呉−広間が延伸開業し、安芸阿賀・広の各駅が開業した。
阿賀では、午前11時より阿賀小学校講堂で藤田呉鎮守府長官以下250余名が出席し祝賀会が挙行された。 全戸が国旗を掲揚し、駅前から式場の間は装飾旗でうずめられた。 生憎の雨の中、山車、相撲、演芸等が開催され、夜には提灯行列で開業を祝った。 広村でも、午後1時より阿賀小学校講堂で森岡村長、広工廠長以下300余名が出席し祝賀会が挙行された。(5)
この区間の開業が全通の8ヶ月前までずれ込んだのは、休山トンネル工事にともなう断水、家屋移転補償、海軍省と鉄道省の意見の相違により、呉口の工事着工が1932年(昭和7年)まで延期されたことによる。(6)
図1に1935年(昭和10年)3月時点の呉線時刻表を示す(7)。 呉−広島間に32往復が運転され、その内、上下11本が広まで延長運転されている。
図1 呉線時刻表 1935年(昭和10年)3月
1935年(昭和10年)11月24日、三呉線の三津内海−広間が延伸開業により全通、三呉線が新規開業区間および呉線(初代)を編入し呉線(2代目)に改称された。 呉線全通を記念して「呉線全通祝賀会」が、鉄道側と沿線市町村共同主催で24日正午から二河公園音楽堂前で開催された。 沿線の1市19ヵ町村の代表、藤田尚徳呉鎮守府長官、鈴木敬一広島県知事など官民3,000余が参列した。 また呉市内では、この日から3日間にわたり、芸妓の歌と踊り、市民の仮装行列、綱引き、野球、駅伝競走などが繰り広げられた。(8)
伸延開業により安登・安芸川尻・仁方の各駅が開業し、既設区間の呉−吉浦間には川原石駅が設置された。 川原石駅は、気動車導入直後の1934年(昭和9年)6月8日に呉商工会議所より、ガソリンカー停車場設置の陳情書をうけた鉄道省が、工事費および周辺道路の整備を請願者側で負担することを条件に停車時用設置に合意、住民からの工事費1,400円の寄付をえて、開設されたものである。(9)
図2に呉線時刻表:1935年(昭和10年)11月改正時の呉線時刻表を示す(10)。 呉−広島間に41往復(気動車17往復)が運転されている。 この改正で、従来は山陽本線経由であった東京−下関間急行7/8列車および普通列車8本が呉線経由となった。 また、京都−広島間に準急列車が1往復新設された。
区間運転列車として、忠海―三津内海間に下りのみの列車(353列車)が設定されている。 この列車は別の資料によれば準混合列車となっている(11)。 準混合列車は貨物を主とした列車に客車を連結したものだが、この列車が設定された理由は不明である。
なお昭和10年12月号の汽車時間表(12)には、川原石駅の記載がなかった。 これは新設された広島鉄道局への引継ぎの遅れや、本線工事の優先のため着工が10月末までずれ込み(13)、竣工の予定が立たなかったためと考えられる。
図2 呉線時刻表 1935年(昭和10年)11月
図2 急行7列車編成表
急行7/8列車は、編成内に各等寝台車、洋食堂車および展望車をもつ、豪華列車であった。 図2に1934年(昭和9年)頃の急行7列車編成表を示す。 時刻表の表示には3等寝台車の表示があるが、参考にした「キングスホビー アーカイブ,急行 7・8列車 昭和9年」の編成表には無かった。 しかしながら同ページに、1934年(昭和9年)12月1日改正で3等寝台車が1輌連結されたとの記載があった。(14)。 これが3等座席車を置き換えたものか、増結したものか不明なため、そのままとした。
当時、1等寝台車および洋食堂車を連結した列車は少なく、特急では東京-下関間特急1/2列車「富士」、急行では東京−神戸間急行17/18列車のみである。 また展望車を連結した急行は本列車のみであり、東京-下関間特急3/4列車「櫻」は特急列車であるにもかかわらず、1等寝台車も展望車も連結しておらず、食堂車は和食堂車であった(15)[註1]。
急行7/8列車に展望車が連結されるようになったのは、1927年(昭和2年)8月1日(異説あり)とされている。 山陽線を夜行区間とする特別急行1/2列車(のちに「富士」と命名)の展望車が神戸以西て編成から外され、逆に山陽線を昼行区間とす る急行7/8列車に京都以西で連結されることとなった。 後述するように、急行7/8列車は関釜連絡線の夜行便に接続する国際連絡列車であり、優等客の利用が多かったためである(16)。
使用された展望車はオイテ27000形で、1923年(大正12年)にステン28070〜28074として製造された木製展望車である。 1924年(大正13年)の客貨車換算法改正でオテン28070〜28074に記号変更され、さらに1928年(昭和3年)の車柄称号規程改正でオイテ27000〜27004となった。 車内は1等室(18名)と展望室(12名)で構成され、1等室には一人掛けのソファー10席とクロスシート8席が設置されていた。 なお展望室は、1等車および1等寝台車乗客の共用スペースとして提供されていたもので、定員には含めない。(17)
1929年(昭和4年)に「富士」と命名された特別急行1/2列車の展望車は、1930(昭和5)年4月に鋼製客車のスイテ37000形(スイテ37000〜37002)に置き換えられた。 これによりオイテ27002〜27004が京都に配置され急行7/8列車専用となった。(18)
107列車および108列車は「準急」列車である。 戦前の準急列車は料金を徴収しないが、急行に近い速度で都市間や観光地を結んでいたもので、上野―日光、上野−仙台、東京−伊東(週末運転)、姫路−京都−鳥羽巻などに設定されていた。 この列車の大阪―呉間の所要時間は約7時間30分であり、急行7列車の5時間52分には及ばないものの、普通列車の8時間10〜20分に比べれは速達性の高い列車であるといえる。 尚、準急列車の呼称は、正式なものではなかったようで、時刻表には「準急」の表示はない。 しかしながら、駅での案内表示では「準急」を使用していた(19)。 また、新聞記事でも「準急」の表記が使用されていたようである(20)。
呉線全通で呉線経由となった急行7/8列車は、東京-下関間特急1/2列車「富士」とともに、関釜連絡船を介して欧州方面との連絡を担っていた国際列車であった。 図3に、呉を起点とした、急行7列車による欧亜連絡時刻表を示す(22)。
図3 欧亜連絡時刻表 1935年(昭和10年)12月
呉から急行7列車でヨーロッパ方面に向かうには、シベリア鉄道の運行に合わせて、木曜日または日曜日に出発する必要があった。 呉を午後4時39分に発した急行7列車は、下関に午後9時に到着する。 下関で午後10時30分発の関釜連絡船7便に乗り換えれば、翌日午前6時に釜山(現・プサン)に到着する。 釜山から、午前7時30分発の朝鮮鉄道の急行7列車「のぞみ」に乗車すれば、京釜本線、京義本線を経て満州国安東(現・丹東)に午後11時55分着。 「のぞみ」の安東発車時刻が午後11時30分となっていて、矛盾しているように見えるのは、ここから満州時間(日本標準時-1時間)となるためである。
安東から南満州鉄道に乗り入れた「のぞみ」は、奉安線を経て翌日(呉発3日目)の午前6時40分に奉天(現・瀋陽)に到着する。 奉天発午前9時の31列車に乗車すると、連京線を経て新京(現・長春)に午後3時50分着。 新京から、満州国国鉄京浜線に乗り入れ、午後10時に哈爾濱(ハルビン)に到着する。 ここで一泊して翌日午前9時35分発の903列車で満州里に向かう。 満州里には、翌日の午前8時15分に到着する。 ここまでで呉を出て5日である。
満州里発午後3時47分(モスコー時間)の急行1列車に乗りソビエト連邦(当時)に入る。 この1列車は、知多(チタ)でシベリア鉄道に合流、イルクーツク、スウエルドロフスク(現・エカテリンブルク)を経て、莫斯科(モスクワ)には11日目の午後8時30分に到着する。
莫斯科発午後10時45分発の列車でポーランドに向かう。 途中、ストルブツエ(Стоўбцы:ストウプツィ)で乗換となる。 現在、ストウプツィはベラルーシ国内にあるが、この当時はソビエト連邦とポーランドとのポーランド側の国境駅であった。 ソビエト連邦とポーランドではレールの軌間が異なり(ソ連1520mm/ポーランド1435mm)、列車が直通できないため、乗換の必要があった。
ワルソー(ワルシャワ)には12日目の午後9時22分(中欧時)に到着する。 ワルソーから翌日の午後5時15分発の列車に乗り換えると、ウイーンをへて羅馬(ローマ)に、14日目の午後8時20分に到着できた。
伯林(ベルリン)には呉を出て13日目の午前10時23に到着する。 伯林発午後8時35分の列車に乗り換えると、ベルギーのオステンド(オーステンデとも)に翌日に到着、オステンド〜ドーバーを連絡船で渡り、倫敦(ロンドン)には午後4時27分に到着できた。
伯林で乗り換えない場合、午前10時42分に伯林発、ベルギーのリエージ(リエージュ)を経て、巴里(パリ)には呉を出て14日目の午後4時27分に到着した。
図4 急行「のぞみ」編成表
「のぞみ」は、1934年(昭和9年)11月1日に設定された朝鮮鉄道の急行列車である。 図4に1936年(昭和11年)の急行「のぞみ」編成表を示す(23)。 各等寝台に食堂車、展望車(一等寝台と合造)を連結した国際連絡にふさわしい列車であった。
図5 31列車編成表
図5に1936年(昭和11年)の31列車編成表を示す(23)。 31列車は普通列車にもかかわらず、各等寝台と食堂車を連結している。 これは、31列車が満州国内の旅客運輸に加え国際連絡列車の一部を構成していたためと考えられる。
図6 903列車編成表
図6に1936年(昭和11年)の903列車編成表を示す(23)。 903列車も一二等寝台と食堂車を連結している。 31列車と同じく903列車が、国際連絡列車の一部を構成していたためと考えられる。
朝食 | 昼食 | 夕食 | |
---|---|---|---|
和食 | 40銭又は50銭 | 50銭 | 50銭 |
洋食 | 75銭 | 1圓 | 1圓30銭 |
洋食(燕・富士) | 75銭 | 1圓20銭 | 1圓50銭 |
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