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三十糎艦船連合呉支部

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社会情勢

全国

1941年(昭和16年)7月28日、日本軍は仏印南部への進駐を開始した。 これに対し、アメリカは在米日本資産凍結、対日石油禁輸などの制裁を発動した。 日本とアメリカは外交交渉を重ねたが、アメリカが提出したハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は12月1日の御前会議で開戦を決定した。 12月8日のマレー半島上陸、真珠湾攻撃によりイギリス、アメリカなどの連合国と戦争状態に入った。(1)

開戦当初は優勢であったが、1942年(昭和17年)5月、珊瑚海海戦でアメリカ軍の反撃により、ポートモレスビー攻略に失敗、6月5日〜7日のミッドウェー海戦では航空母艦4隻を喪失して敗北、8月から始まったソロモン諸島方面での消耗戦により、次第に劣勢となっていった。

1943年(昭和18年)2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。 4月18日に、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が、前線視察の途中、ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜され戦死した。 5月にはアリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が侵攻、守備隊が玉砕した。 戦局の悪化により、政府は10月に文科系大学生の徴兵猶予を停止、11月には明治神宮外苑などで出陣学徒壮行会が挙行された。

呉市

1941年(昭和16年)4月21日、加茂郡仁方町および広村を編入した。 これは海軍施設のある周辺町村を呉市に合併した上で、一元管理を目指す海軍が、半ば強引に進めたものであった。 当時、広村は単独市制を布くことを目指しており、この合併は戦後まで遺恨を残すこととなる。(2)

開戦の翌12月9日には亀山神社ほか市内6社において、敵国降伏戦捷祈願祭が執行され、11日には二河公園に約5万名を集めて、米英撃破呉市民大会が挙行された(3)

この時期、交通事業の呉市による合併がすすみ、1942年(昭和17年)12月1日には芸南電軌を買収して呉市交通局が設立された。(4)

鉄道

鉄道開業時より進められてきた新線建設は1940年(昭和15年)頃に原則中止され、資源開発および軍事輸送路線のみが建設された(5)。 また、輸送力増強のため1941年(昭和16年)7月16日には三等寝台車の連結が廃止され、食堂車連結列車も削減された(6)。 1942年(昭和17年)6月11日、完成した関門トンネル(単線)で試運転が実施された。 6月20日からは試運転をかねて貨物列車が運転され(正式開通は7月1日付)、11月15日からは旅客列車の運転が始まった(7)

1943年(昭和18年)2月15日、陸運非常体制確立のため臨戦ダイヤが実施され、優等列車が大幅に削減された。 10月1日には、決戦ダイヤが実施され、急行列車の削減と速度低下、貨物列車の増発が行われた。 11月1日、鉄道省は逓信省と統合され、運輸通信省に改組された。(8)

呉線

1940年(昭和15年)末時点で、呉線の運転本数は、旅客列車85本(上り42本、下り43本)、貨物列車9本(上り4本、下り5本)の計94本(9)に達しており、単線の線路容量80本/日(10)を超過していた。 このような状況と呉線の重要性から複線化が決定した。 1941年(昭和16年)3月13日に小屋浦トンネル東口から工事が開始されたが、戦時中の物資・労力不足により中断された。(11)

関門トンネル開通―1942年(昭和17年)11月

図1に1942年(昭和17年)11月時点の呉線時刻表を示す(12)。 この時刻表は、関門トンネル開通に伴う時刻改正後のものである。 尚、この年の10月17日に24時制が実施された(6)ため、この時刻表から、適用されている。

呉−広島間には上り37本、下り38本が運転され、糸崎→竹原、忠海→三津内海(現・安浦)の区間列車も設定されていた。 気動車列車は、ガソリン統制令による気動車列車の削減のため全廃されている。 また、山陽線へは、呉から上り7本、下り9本の直通列車が、山陽線からは、呉へは上り7本、下り9本の直通列車が設定されている。 このうち、上り3本、下り5本が九州島内発着となっている。

呉線時刻表:1942年(昭和17年)11月
呉線時刻表:1942年(昭和17年)11月
図1 呉線時刻表 1942年(昭和17年)11月

主要な列車

急行3/4列車

東京−鹿児島間急行3/4列車は、東京-下関間急行7/8列車を鹿児島まで延長し、列車番号を特急「櫻」格下げの東京−鹿児島間急行と交換したものである。 この改正で、展望車の連結は廃止された。 編成から外された展望車は、長崎まで延長されたため、折返し運用の関係で客車編成が1組多く必要となった特別急行「富士」に転用された可能性がある。(13) また、三等寝台車連結廃止により、三等寝台車は編成から外されているが、一等寝台車および洋食堂車は健在である。

237/232列車

関門トンネル開通に伴い、普通列車も九州島内へ延長された。 237列車は京都−下関間101列車を鹿児島本線出水まで延長したもので、232列車は下関−京都間110列車を鹿児島発としたものである(6)。 101/110列車時代は三等寝台車および和食堂車を連結していたが、前述した三等寝台車の連結廃止と食堂車連結列車削減により、二等寝台車のみが連結されている。

臨戦ダイヤ実施―1943年(昭和18年)3月

図2に1943年(昭和18年)3月時点の呉線時刻表を示す(14)

呉−広島間には上下36本が運転され、糸崎→竹原、忠海→三津内海(現・安浦)の区間列車も設定されていた。 また、山陽線へは、呉から上り7本、下り8本の直通列車が、山陽線からは、呉へは上り7本、下り9本の直通列車が設定されていた。

呉−広島間で上り1本、下り2本が削減されているが、運転時刻に大きな変化はない。 また、臨戦ダイヤ実施の影響か、東京−鹿児島間急行3/4列車の編成から、一等寝台車が外され、洋食堂車は和食堂車に変更されている。

呉線時刻表:1943年(昭和18年)3月
呉線時刻表:1943年(昭和18年)3月
図2 呉線時刻表1943年(昭和18年)3月

決戦ダイヤ実施―1943年(昭和18年)10月

図3に1943年(昭和18年)10月時点の呉線時刻表を示す(15)

呉−広島間は上下31本の運転となり、9:00〜15:00の昼間運転列車を中心に5往復が削減された。 また、呉線全通時から設定されていた忠海→三津内海(現・安浦)の区間列車も廃止された。 山陽線への直通列車は、呉から上り7本、下り8本の直通列車が、山陽線からは、呉へは上り7本、下り9本が設定されていた。

大きな変更は急行列車で、呉線全通以来設定されていた東京―鹿児島間急行3/4列車(1942年11月14日までは東京―下関間急行7/8列車)が山陽本線まわりの東京―下関間急行15/16列車となり、その代わりに東京―長崎間急行5/6列車が設定された(16)。 また、この改正で京都発着の普通列車編成から二等寝台車が外され、運転区間も下りは八代着、上りは佐世保発に変更されている。

呉線時刻表:1943年(昭和18年)10月
呉線時刻表:1943年(昭和18年)10月
図3 呉線時刻表1943年(昭和18年)10月

参考資料

  1. 浜野潔・井奥成彦・中村宗悦・岸田真・永江雅和・牛島利明著.日本経済史1600−2000:歴史に読む現代.東京, 慶応義塾大学出版会,2009,p242-245.(ISBN978-4-7664-1573-5)
  2. 呉市史編さん室編.呉の歩み:呉市制100周年記念版.呉,呉市,2002,p245-246
  3. 呉市史編纂委員会編.呉市史第5巻.呉,呉市役所,1987,p21-22
  4. 前掲.呉の歩み:呉市制100周年記念版.p256
  5. 須田寛.時刻表に見る国鉄旅客営業のあゆみ(時刻表復刻版).東京,日本交通公社,1978.p55-56
  6. abc大久保邦彦・三宅俊彦・曽田英夫編.鉄道運輸年表〈最新版〉.東京,JTB,1998,p72,旅.1999年1月号別冊付録 第73巻第1号 通巻864号
  7. 曽田英夫.時刻表昭和史深見.東京,JTB,2001.p18.(ISBN4-533-03761-5)
  8. 前掲.鉄道運輸年表〈最新版〉.p73
  9. 呉市編.呉市勢要覧 昭和30年版.呉,呉市,1955.p83
  10. 運輸省.昭和39年度 運輸白書.http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa39/ind020402/001.html.(2013年11月22日参照)
  11. 前掲.呉市史第5巻.p526
  12. 時刻表 昭和17年11月.東京,日本交通公社,1978.p18-19.時刻表復刻版〈戦前・戦中編〉
  13. 鉄道友の会客車気動車研究会編.日本の展望車(上).東京,ネコ・パブリッシング,2016.p81.(ISBN978-4-7770-5394-0)
  14. 時刻表 昭和18年3月.東京,新人物往来社,1999.p18-19.復刻版戦中戦後時刻表
  15. 時刻表 昭和18年11月.東京,東亜交通社,1943.第19巻11号 通巻第224号.p17
  16. 前掲.鉄道運輸年表〈最新版〉.p74-75