1944年(昭和19年)に入ると、戦況は更に悪化、6月19日〜20日のマリアナ沖海戦で敗北、7月にはサイパン島が陥落した。 サイパンの陥落により、日本本土がB-29爆撃機の行動範囲に入り、以降本土空襲の脅威にさらされるようになる。 サイパン陥落の責任を問われる形で東条英機内閣が退陣、その後を受けて陸軍大将の小磯国昭が組閣した。 10月に生起したレイテ沖海戦では、特別攻撃隊まで投入したが敗北し、西太平洋での制海権を事実上喪失した。
戦局の推移に伴い、呉工廠での主力建造艦は、航空母艦、潜水艦と移り、末期には特殊潜航艇となる。 戦時体制の下、工員の数は増加を続け、1944年(昭和19年)4月1日には99,285名に達した(1)。 これらの増員には徴用工や女子挺身隊が充てられた。 また学徒動員も始まり、1944年(昭和19年)6月6日には、呉工廠で入廠式が行われた(2)。
1944年(昭和19年)4月1日に実施された決戦非常措置要領により、一等車、寝台車、食堂車が全廃された。 9月9日には、関門トンネルの複線運転が開始、10月11日には柳井線岩国−櫛ヶ浜間の複線化が完了、同区間を山陽線とし、在来区間を岩徳線とした。 同日のダイヤ改正は戦時陸運非常体制実施により、急行列車の削減と速度低下、貨物列車と通勤列車を増発したものとなった(3)
図1に1944年(昭和19年)4月時点の呉線時刻表を示す(4)。 呉−広島間には上り29本、下り30本が運転されていた。 また、山陽線へは、呉から上り4本、下り6本の直通列車が、山陽線からは、呉へ上り7本、下り9本の直通列車が設定されている。
この改正で、東京−長崎間急行5/6列車が廃止され、1935年(昭和10年)11月の全通以来運転されていた呉線の優等列車が消滅した。(5) また、東京との直通列車は、普通列車ながら下り3本は確保されているものの、上り東京行列車は全廃されている。 さらに、九州島内発着の列車は、上り2本、下り3本にまで減少している。
この他、1943年(昭和18年)10月時点と比較して呉−広島間で上り7本、下り6本が削減されている。 下り列車の呉発時刻を基準に見ると、5時〜9時の時間帯は10本から11本に1本増発、9時〜15時の時間帯は9本から5本に4本削減、15時〜21時では13本が11本と2本削減、21時以降は4本が3本と1本削減されている。 これから、通勤時間帯の列車は確保して、昼間時の列車を削減していることが見て取れる。
図1 呉線時刻表 1944年(昭和19年)4月
図2に1944年(昭和19年)10月時点の呉線時刻表を示す(6)。 呉−広島間には上り26本、下り29本が運転されていた。 また、山陽線へは、呉から上り2本、下り3本の直通列車が、山陽線からは、呉へ上り2本、下り7本の直通列車が設定されている。 東京との直通列車は下り1本のみとなり、九州島内発着の列車は下り2本にまで減少している。
4月時点と比較して呉−広島間で上り3本、下り1本が削減されている。 戦前のピークであった1940年(昭和15年)10月の下り42本、上り41本と比較すると、7割程度まで列車本数が低下している。 これに対して、貨物列車は上り4本、下り5本から上り8本、下り9本(7)と倍増しており、物資の鉄道による陸運体制が強化されているのがわかる。
図2 呉線時刻表 1944年(昭和19年)10月
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