1945年(昭和20年)8月30日、連合軍最最高司令官ダグラス=マッカーサーが厚着飛行場に到着、9月2日に、東京湾内の戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書の調印式が行われた。 10月2日には連合国最高司令官総司令部(General Headquarters :GHQ)が東京に設置された。 連合国とは称されていたが、日本は事実上アメリカの単独占領下におかれ、日本の政府機関を通じて支配する間接統治という形がとられた。 GHQは幣原喜重郎内閣に対し、五大改革(圧政的諸制度の廃止・労働組合の結成奨励・女性の解放・教育の自由化・経済の民主化)を指示した。 また戦争犯罪人容疑者が逮捕され、A級戦犯として起訴された28名は極東軍事裁判所で審理され、獄中での病死者等3名を除く全員に有罪判決が下った(東京裁判)。(1)
1945年(昭和20年)10月11日、GHQは憲法改正を指示、幣原内閣は憲法改正案を提出したがGHQの意向に合わず却下、GHQは改正案(マッカーサー草案)を提示した。 これを基に政府原案を作成、この原案が吉田茂内閣により議会審議にかけられ、日本国憲法として1946年(昭和21年)11月3日に公布、翌年5月3日に施行された。(2)
戦後の日本経済は、生産能力や輸送力の不足に加え、戦時補償の支払などによる貨幣流通量の増大により、敗戦後の半年間に消費者物価が約6倍に高騰するというインフレーションに見舞われていた。 11946年(昭和21年)2月、幣原内閣は預金封鎖、新円切換などの金融緊急措置令を発したが、その効果は一時的であった、 後継の吉田内閣は経済安定本部を発足させ危機の打開に当たらせた。(3)
GHQは日本の経済を復興させるため、第2次吉田茂内閣に経済安定九原則の実行を指令、1949年(昭和24年)に来日したGHQ経済顧問ドッジは輸出振興を軸とした一連の「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策を実施した。 これらにより戦後インフレは収まったが、逆に不況が深刻化した。(4)
戦時中、呉地区は数次にわたり空襲を受けた上に、9月17日に来襲した枕崎台風で、死者1,154名、負傷者440人、流出家屋1,162戸という甚大な被害を受けた。 10月7日にはアメリカ占領軍19,500人が広に上陸。 名実ともに連合軍の占領下となった。 さらに、11月30日には海軍官制の廃止により呉鎮守府が閉庁した。 翌1946年(昭和21年)2月13日、イギリス連邦占領軍の主力が呉に到着、3月7日に占領業務をアメリカ軍と交代した。(5)
海軍という経済基盤を失った呉市では、旧海軍艦艇の引揚げおよび解体作業や占領軍の雇用によって生活を支えていたが、艦艇の引揚げ・解体作業は1948年(昭和23年)頃には完了し、1947年(昭和22年)以降、イギリス連邦軍の引揚げが続き、多数の失業者が発生した。 1949年(昭和24年)には「ドッジ不況」が加わり、失業者は1万人を超えた。 1950年(昭和25年)には「失業モデル都市」とまで呼ばれるようになった。 こうした状況を打開するために、呉市は横須賀・佐世保・舞鶴の3市と協力し「旧軍港市転換推進委員会」を結成、旧海軍施設を平和産業に転換する事を目的とした「旧軍港市転換法」の制定に尽力した結果、同法は1950年(昭和25年)4月11日に国会で可決された(6月28日に公布・即日施行)。(6)
運輸省は敗戦とともに復興輸送本部を設置し、鉄道の復旧に尽力していたが、1945年(昭和20年)12月には、石炭不足により列車の大幅な削減が行われた。 翌年春にはやや回復したが1947年(昭和22年)初頭に最悪の事態を迎える。 1月4日に急行列車および2等車が全廃され、旅客列車キロ数は、敗戦時を下回る状況に陥った。 3月に一部列車が復活し、4月には東京−門司・博多間に各1往復が復活したが、本格的な復活が始まるのは6月末からである(7)。
1949年(昭和24年)6月1日、国営事業として行っていた鉄道事業を、独立採算制で経営する公共企業体である日本国有鉄道が発足した。 9月15日には戦後初の特急「へいわ」が東京−大阪間に設定され、急行の増発、スピードアップも実施された(8)。 しかしながら、この夏には鉄三大ミステリー事件と呼ばれる「下山事件(7月5日)」、「三鷹事件(7月15日)」、「松川事件(8月17日)」が相次いで発生した。
呉駅の駅舎は1945年(昭和20年)7月1日〜2日の空襲で焼失したが、12月30日に新駅舎建設の地鎮祭が執行され、翌年4月30日に竣工した。 木造平屋建てで、総面積1,128m2、総工費は80万円であった。 5月6日には竣工式が挙行され、翌7日より使用が開始された。(9)
RTOは主要駅に置かれたが、呉の場合は駅舎が空襲により焼失していたため、当時存在していた貨物1番線に寝台車(ナロネ1509)と貨車1両を配置して事務所兼宿舎とした(10月8日)。 この状況は、12月15日に新設された連合軍休憩室に移ったため、解消された(10)。
図1に1946年(昭和21年)2月の時刻表を示す(11)。 敗戦から半年経ち、通勤列車を中心に運転休止列車の一部復活が実施された時期(12)である。 呉−広島間の運転列車は上下17本が設定されているが、そのうち上下5本が運休となっており、実質的には上下12本である。 敗戦前後の1945年(昭和20年)6月から10月のダイヤでは、呉−広島間には上下21本が設定されていたので、運転本数で見れば57%まで低下している。
敗戦後の呉駅は、その重要性を失ったものの乗降客数は20,000人を超えており、列車本数の削減は、「長距離列車は各車両とも足の置き場もなく、客車の窓に腰をかけ、夜行列車ではあみ棚に横たはり、乗降には客車の窓が利用され、夜通し連結器の上に立ち、果ては機関車の炭水車に乗り込みトンネルで突き当たり死傷者を出した等全く名状し難いものがあった(13)」という状況を生み出した。
図1 呉線時刻表 1946年(昭和21年)2月
図2に1946年(昭和21年)5月の呉線時刻表を示す(14)。 呉−広島間の運転列車は上下17本が設定されているが、そのうち上り5本、下り4本が運休となっており、糸崎−竹原間の617列車が復活した程度である。 尚、京都−大竹間下り309列車の大竹到着時間が15:18となっているのは誤植であり、正しくは23:18(15)であると思われるが、そのまま掲載した。
図2には示していないが、柳井発糸崎行上り606列車が広島−広間が運休区間だったものを仁方までの運転とし、仁方−糸崎間を運転休止に改めている。これは、後述の仁堀航路の開設に合わせたものと考えられる。
この時刻表では、5月1日に実施された駅名改称を反映し、三津内海が安浦と改称されている。 1944年(昭和19年)1月1日、三津口町・内海町・野路村が合併し、安浦町が発足したが駅名は改称されず、戦後になって実現した。(16)
図2 呉線時刻表1946年(昭和21年)5月
図3 仁堀航路時刻表 1946年(昭和21年)5月
この航路の計画は戦前からあり、満州事変を契機として宇野―高松間の客貨輸送量が増大した頃に「宇高航路」以外の本州―四国の航路が要求されていた。 この連絡航路として候補に挙がったのが、仁方―伊予北条間であった。 このときは、関門トンネル開通のため余剰となった関門連絡船の「宇高航路」転用により計画は一時中断された。 その後も本州―四国間の検討されたが、戦局の経緯によりこれらの計画は実施されなかった(17)。 しかしながら。戦後の混乱期に混雑していた宇高連絡船の補助航路として、1946年(昭和21年)5月1日に、呉市の仁方港と松山市の堀江港との間に「仁堀航路」が開設された(18)。 図3に1946年(昭和21年)5月の仁堀航路時刻表(19)を示す。
開設当時の1946年(昭和21年)5月には18,000人、さらに同年10月には30,000人を超え(20)、21年度の旅客人数は年間合計229,394人、1日平均利用人員は、685人にも達し活況を呈した(21)。
信号符号 | RMCL |
---|---|
船質 | 鋼 |
トン数 | 総トン410.00、純トン196.98 |
全長(m) | 36.88m(121ft) |
垂線間長(m) | 35.52m(115ft) |
幅(m) | 8.53m(28ft) |
深さ(m) | 3.20m(10ft 6in) |
満載喫水(m) | 2.26m(7ft 5in) |
積載車輌 | 手押車37台 |
乗客(人) | 一等:5、三等:744 |
乗員(人) | 31 |
主機関型式 | レシプロ機関2基、2軸 |
速力(ノット) | 10.13 |
出力 | 519(指示馬力) |
使用されたのは「関門航路」から転属した「長水丸」で、1日2往復した(22)。 「長水丸」は浦賀船渠で、1920年(大正9年)5月3日 に起工され、同年7月29日進水、翌1920年(大正9年)12月4日 に竣工した。 表1に「長水丸」の要目(23)を示す。
この航路の利用者は多く、初年度は20万人を超える乗客があった。これに対応するために、「長水丸」に加え、「映海丸」を投入した。 この船は旧陸軍の「強力曳船」を改装したものである。 「映海丸」は陸軍運輸部の発注により大阪鉄工所が1939年(昭和14年)2月に建造した船で、排水量112トン、全長41.2m、幅6m、主機械ディーゼル2基、350馬力、速力14ノットであった(24)。 「強力曳船」と称しているが、後に巡視艇に転じた時代の写真を見ると、旧海軍の水雷艇や掃海艇に似た艦影である(25)。 終戦時、徳山湾にあったものを三菱重工広島造船所で、旅客定員250名の連絡船に改装されたが、鉄道連絡船には適せず、まもなく高松港に係船され、1948年(昭和23年)9月1日付で海上保安庁に移管された。 巡視艇(PB-31→PS-31)として、1951年(昭和26年)6月23日の解役まで海上保安庁に在籍した(26)。
図4に1947年(昭和22年)5月の時刻表を示す(27)。 1月の最悪状態から立ち直りつつある時期の時刻表であるが、呉−広島間の運転列車は下り10本、上り10本にまで減少している。
列車本数だけで見れば、開業当時(呉−広島間6往復、呉−海田市間3本)に近いレベルにまで落ち込んでいる。 また、山陽線から呉への直通列車は上り4本、下り1本、呉から山陽線への直通列車は上り1本、下り4本となっている。 関西方面へは、かろうじて1往復が設定されているが、上り314列車は三ノ宮で運転打ち切りとなっている。 また、九州島内との直通列車が消滅している。
図4 呉線時刻表1947年(昭和22年)5月
図5 仁堀航路時刻表 1947年(昭和22年)6月
図5に1947年(昭和22年)6月の時刻表を示す(28)。 開設当時は1日2往復であったが、6月28日までは1往復しか記載がない。 これは前述した列車の削減とともに減便され、6月29日から復活したものと考えられる。
呉線には、仁方始発(13:06)の小郡行247列車が設定されており、6月28日までは上り2便(仁方着12:50)と接続していたが、29日以降は仁方航路の時刻改正により、広発に変更されたはずである。 このことは、11月10日改正の時刻表を見ると、247列車は広始発(13:16)で、呉線内の時刻は変更されていない(15)ことからも推測できる。
信号符号 | NHWG |
---|---|
船質 | 鋼 |
トン数 | 総トン336.73、純トン130.72 |
全長(m) | 40.69m(133ft 6in) |
垂線間長(m) | 38.10m(125ft) |
幅(m) | 7.62m(25ft) |
深さ(m) | 3.35m(11ft) |
満載喫水(m) | 2.21m(7ft 3in) |
乗客(人) | 一等:10、二等:69、三等:414 |
乗員(人) | 22 |
主機関型式 | レシプロ機関2基、2軸 |
速力(ノット) | 11.20 |
出力 | 659(指示馬力) |
前年よりも輸送人員は減少した(22年度の旅客人数は年間合計168,331人、1日平均利用人員は、461人(21))ものの、いまだに活況を呈していたため、8月には「宇高航路」から「水島丸」を転属させた。 「水島丸」は前年の1946年(昭和21年)6〜7月にかけて応援のため本航路に投入されていた。(24)。 「水島丸」は大阪鉄工所で、1917年(大正6年)3月に進水、同年5月11日に竣工した。 表2に「水島丸」の要目(29)を示す。
1948年(昭和23年)7月11日に全国時刻改正があり、急行列車の速度低下と準急列車の増発が実施された。 呉線関係では、東京−広島間急行2003/2004列車が設定され、呉線に優等列車が復活した。 しかしながら、この列車は不定期列車であり、どの程度運行されたか不明である。
図6に改正時の時刻表を示す(30)。 呉−広島間の運転列車は上下12本が設定されている。 山陽線から呉への直通列車は上り3本、下り4本、呉から山陽線への直通列車は上り2本、下り2本が設定されている。 上り門司発大阪行列車が設定され、九州島内との直通列車が復活している。
図6 呉線時刻表(下り)1948年(昭和23年)7月
図7 仁堀航路時刻表 1948年(昭和23年)7月
図7に1948年(昭和23年)7月の時刻表を示す(31)。 前年よりも輸送人員は減少した。 23年度の旅客人数は年間合計128,707人、1日平均利用人員は、352人(21)であった。
1949年(昭和24年)9月15日時刻改正が実施された。 この改正は、公共企業体「日本国有鉄道」としての、初の大改正であった。 図8に改正時の時刻表を示す(32)。 呉−広島間には上り13本、下り12本が設定されている。 山陽線から呉への直通列車は上り4本、下り1本、呉から山陽線への直通列車は上り2本、下り5本が設定されている。 前年に設定された不定期急行は廃止され、呉線の優等列車および東京―呉間の直通列車は再び消滅した。
図8 呉線時刻表(下り)1949年(昭和24年)9月
図9 仁堀航路時刻表 1949年(昭和24年)秋
昭和24年度以降、戦後の混乱状態も生活物資の充実や政治の安定と共に平静さをとりもどしたので、仁堀航路の輸送は逐次下降した。 経営合理化のため1949年(昭和24年)11月より、1日1往復とした(20)。 なお24年度の旅客人数は年間合計55,251人、1日平均利用人員は、152人(21)であった。
図9に1949年(昭和24年)9月の時刻(33)、および11月の時刻(34)を示す。 11月1日の改正で前述のように、1日1往復となっている。 11月1日改正後の時刻で下り3便が仁方16:00発、堀江19:00着の航行時間が3時間となっているが、これは9月15日改正時の下り5便のように仁方16:00発、堀江18:40着の航行時間が2時間40分が正しいと思われる。 また9月15日改正の時刻で、上り2便が堀江23:30発、仁方5:30着で航行時間6時間の夜行便になっているが、これが実在したか不明である。 このあたりの事情をご存じの方がいれば、御教授お願いいたします。
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