敗戦により、日本の鉄道は連合軍の管理下に置かれることとなった。 交通政策を指導したのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間運輸局(CTS:Civil Transportation Section)であったが、連合軍関連の輸送については 第3鉄道輸送司令部(3rd MRS:Third Military Railway Service)が担当した。 MRSの下に地区司令部(DTO:District Transport Office)が、さらにその下に鉄道司令部(RTO:Rilway Transportation Office)が設置された(1)。 RTOは主要駅に置かれたが、呉の場合は駅舎が空襲により焼失していたため、当時存在していた貨物1番線に寝台車(ナロネ1509)と貨車1両を配置して事務所兼宿舎とした(10月8日)。 この状況は、12月15日に新設された連合軍休憩室に移ったため、解消された(2)。
専用列車設定は、1946年(昭和21年)1月にMRSから運輸省鉄道総局へ申し入れがあり、それまでの専用車両を日本人の乗る列車に併結する形式から、一部を専用列車とすることとした(3)。
図1 連合軍専用列車時刻表(主要駅・主要列車のみ)
1946年(昭和21年)12月
図1に呉に関連する、1946年(昭和21年)12月の連合軍専用列車の時刻表を示す(4)。 呉発着の毎日運転列車2本、曜日運転列車1本が設定されている。
図1の時刻は、英文時刻表の"Special Military Train"を参考しているが、そのページには非常に興味深い記載がある。 時刻に添えられた路線図の駅名の内、東京、大阪、岡山、呉、門司、小倉、博多が太字で記載されている。 また、時刻表本文の内、東京、横浜、名古屋、京都、岡山、呉、門司、香椎、博多が太字で記載されている。 通常、このような措置は主要駅に対して行われるものであるが、都市規模のみから考えると主要駅とするには疑問のある駅が含まれている。 これには、軍用列車用時刻表特有の理由(岡山であれば四国・山陰方面への乗換駅、呉と香椎は軍事施設があった)によると考えられる。
1005列車(上り1006)Allied Limitedは、東京−門司間の列車として1946年(昭和21年)1月31日東京発から運転を開始(上り1002は2月2日門司発)し、2月末のイギリス連邦軍呉地区進駐により3月25日から呉線経由となった。 また、12月8日には小倉まで運転区間が延長された。(5)。
図2 Allied Limited編成表 1946年(昭和21年)2月
1946年(昭和21年)2月のAllied Limitedの編成を図2に示す(6)。 Allied Limitedは、夜行区間に相当する東京−岡山間に寝台車を連結している。 また、一部の車輌は、博多および佐世保発着となっている。 なお、荷物車は上り下りとも、必ず機関車の次位に連結されることになっていた。(7)
図3 Allied Limited継承列車時刻表 1946年(昭和21年)2月
連合軍専用列車は、本来の運転区間外にわたる客車について、継承列車が指定されていた。 Allied Limitedでは、下りの博多行きの郵便車は33列車に、佐世保行きの車両は早岐まで305列車で、早岐からは501列車で継走された。 上りの佐世保発の車両は肥前山口まで438列車で、肥前山口から鳥栖までは338列車で、鳥栖からは124列車で継走された。(6) 1946年(昭和21年)2月の継承列車時刻表を図3に示す(8)。
1001列車(上り1002)Dixie Limitedは、1946年(昭和21年)3月13日東京発から運転を開始(上り1002は3月14日博多発)し、Allied Limitedと同様に3月25日から呉線経由となった。(5)。
図4 Dixie Limited編成表 1946年(昭和21年)3月
1946年(昭和21年)3月のDixie Limitedの編成を図4に示す(9)。 Dixie Limitedは、夜行区間となる大阪から寝台車を連結し、食堂車の連結を昼行区間となる東京−大阪間としている。 Allied Limitedと同じく、一部の車輌は佐世保発着となっている。 前述のように、荷物車は上り下りとも、必ず機関車の次位に連結されることになっていた。
図5 Dixie Limited継承列車時刻表 1946年(昭和21年)3月
この列車にも、本来の運転区間外にわたる客車について、継承列車が指定されていた。 下りの佐世保行き車両は肥前山口まで329列車で、肥前山口からは429列車で継走された。 上りは426列車で博多まで継走された。(9) 1946年(昭和21年)3月の継承列車時刻表を図5に示す(10)。
BCOF(British Commonwealth Occupation Forces)Trainは、呉地区に進出したイギリス連邦軍(主としてオーストラリア軍)の休暇列車として設定されたものである。 1011列車(上り1012)は、1946年(昭和21年)7月6日東京発から運転を開始(上り1012は7月8日呉発)した。 当初は毎土曜日東京発(上りは毎月曜日呉発)てあったが、12月22日から毎日曜日東京発となった。 1011列車の編成の詳細は不明であるが、二等座席車2両、座席・荷物合造車(等級不明)1両、食堂車1両であった(4)。
図6に呉に関連する、1947年(昭和22年)11月の連合軍専用列車の時刻表を示す。(11)
この時期は、連合軍専用列車の本数がピークに達した頃で、呉駅発着の列車だけでも、毎日運転列車2本、曜日運転列車4本が設定されている。
BCOF Trainは、4本に増発されている。 休暇列車らしく、伊東、京都、別府などの連合軍の保養地と呉地区を結んでいるのが興味深い。 この時期のBCOF Trainの状況は以下のようなものであった(5)(11)。
図6 連合軍専用列車時刻表(主要駅・主要列車のみ)
1947年(昭和22年)11月
BCOF Trainは編成中の優等車の割合が低く、主として兵士の利用が中心であったと考えられている(12)。
図7に呉に関連する、1948年(昭和23年)12月の連合軍専用列車の時刻表を示す。(13)
Allied Limited/Dixie Limitedについては、運転時刻以外に大きな変化はないが、1948年(昭和23年)7月29日には、呉線吉浦−天応間で貨物列車の家畜車の扉が落下し、後続のDixie Limitedが脱線するという事故が発生している(14)。
この時期から、BCOF Trainは減少をはじめ、呉−別府1017/1018列車は1948年(昭和23年)1月26日に下り1017列車が廃止、上り1018列車も2月1日をもって廃止された。 また、京都−呉間1013/1012列車は、12月26日に下り1013列車が廃止、上り1012列車も12月10日をもって廃止された。(5)
図7 連合軍専用列車時刻表(主要駅・主要列車のみ)
1948年(昭和23年)12月
図8 連合軍専用列車時刻表(主要駅・主要列車のみ)
1948年(昭和24年)5月
図8に呉に関連する、1948年(昭和24年)5月の連合軍専用列車の時刻表を示す。(15)
1005列車(上り1006)Allied Limitedは、下りが1948年(昭和24年)2月28日から、上りが3月1日から運転区間を博多まで延長している(5)。
BCOF Trainは1本を残して廃止されている。 1015/1016列車は、伊東−呉。海田市間で運転されていたが2月3日(上りは2月6日)から運転区間を東京−呉間とし、伊東発着の車輌を熱海で分割・併合する形となった。 これにより、熱海−伊東間に下り1215列車、上り1216列車が設定された。(5)
図9 連合軍専用列車時刻表(主要駅・主要列車のみ)
1951年(昭和26年)4月
図9に呉に関連する、1951年(昭和26年)4月の連合軍専用列車の時刻表を示す。(16)
Allied LimitedおよびDixie Limitedは佐世保まで延長されている。 これは、1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の影響である。 Dixie Limitedの佐世保延長は、下りが10月10日、上りが10月11日である。 Allied Limitedの佐世保延長は、下りが1951年(昭和26年)1月19日、上りが1月21日である。(5) この時刻表によると、下りAllied Limitedの佐世保到着時刻は0:59という一般の旅客列車であれば利用しずらい時刻となっている。 このあたりが軍用列車である連合軍専用列車の特徴を示している。
BCOF Train1015/1016列車は、下りが1950年(昭和25年)9月30日、上りが9月24日に廃止され、BCOF Trainは全て姿を消した(5)。 また、Allied LimitedおよびDixie Limitedは、対日講和条約の発効に先立ち、1952年(昭和27年)4月1日から臨時急行(旅客案内上は特殊列車)として発券枚数を制限の上、日本人の一般旅行者に対して開放された(17)。
図10 英連邦軍客車連結列車時刻表 1950年(昭和25年)10月
BCOF Trainの廃止に伴い、1950年(昭和25年)10月1日から定期列車の呉―東京・伊東間に増結車両(呉英増3番・呉英増4番)を連結することとなった。 呉英増3番は二等寝台車1両で呉―伊東間に、呉英増4番は荷物・二等合造車1両および食堂車1両で呉―東京間に運転された。(18) 図10に運転時刻を示す。(19)
下りの場合、呉英増4番は長崎行急行35列車(後に「雲仙」と命名)に連結されて東京発、呉英増3番は7734列車として伊東発。 熱海で7735列車と番号を変え沼津に至り、沼津で急行35列車に連結される。 糸崎で分割された車両は、7913列車に連結されて呉に継走されていた。
上りの場合、呉で呉英増3番・4番は東京行急行40列車(後に「安芸」と命名)に連結されて東上する。 沼津で呉英増3番は分割され、熱海まで7740列車として運転、熱海で7741列車と番号を変え伊東に至る。 呉英増4番は急行40列車に連結されたまま、東京に向かった。
連合軍専用列車時代は、伊東発着の車両の分割・併合は熱海で行っていたが、日本側列車への増結となってからは、沼津での分割・併合となっている。 この変更は、熱海駅が狭隘で安全上問題があったためと考えられる。
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