1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が北緯38度線を超えて大韓民国(韓国)へ侵攻、朝鮮戦争が勃発した。 日本は国連軍の兵站基地となり、麻袋、有刺鉄線、橋梁用鋼材等の生産および航空機、車両修理をおこなった。 これは「特需景気」と呼ばれ、国内製造業は短期間で飛躍的な成長を遂げた。(1)
朝鮮戦争により在日アメリカ軍が朝鮮半島に移動したため、日本における治安維持する目的で、警察予備隊が1950年(昭和25年)8月10日に設置された。 1952年(昭和27年)4月26日には海上警備隊が海上保安庁の外局として設置された。 8月1日には海上保安庁を離れ保安庁海上警備隊となった。 さらに、1954年(昭和29年)7月1日には、自衛隊が発足し、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組された。(2)
1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約に調印、サンフランシスコ平和条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効、日本は主権を回復した。(3)
日本社会党は平和条約および日米安全保障条約に対する対立から、左右に分裂していたが、1955年(昭和30年)の総選挙で156議席を獲得したのを機に、10月に統一された。 これに対抗して11月に自由・民主両党が合同して(保守合同)、自由民主党を結党した(55年体制の確立)。(4)
呉市では、「朝鮮特需」と「旧軍港市転換法」の制定により、旧軍施設への企業誘致が軌道にのり、1951年(昭和26年)6月30日には日亜製鋼(現・日新製鋼)が、1954年(昭和29年)12月18日には淀川製鋼所が操業を開始した。 また、旧造船部で艦艇の解体工事などにあたっていた播磨造船所呉船渠は、1951年(昭和26年)8月15日開所のNBC(National Bulk Carriers)と呉造船所(播磨造船所全額出資)に分割された。 また、広地区では東洋パルプ(王子製紙→現・王子マテリア)が1952年(昭和27年)1月1日に操業を開始した(5)。
海上自衛隊の設立にともない、1954年(昭和29年)7月1日に呉地方隊と呉地方総監部が発足した。(6)
呉市の復興は「朝鮮特需」と企業進出により軌道に乗ったと思われたが、1956年(昭和31年)11月22日にイギリス連邦朝鮮派遣軍の全面撤退が行われ、約8,000名の日本人労働者が解雇される(7)こととなった。 しかしながら、同時期にはじまった造船ブームと、さらなる企業誘致によって、この危機を乗り越えることができた。
日本の主権回復により、連合軍専用列車は1952年(昭和27年)4月1日から臨時急行(旅客案内上は特殊列車)として発券枚数を制限の上、日本人の一般旅行者に対して開放された(8)。 また、時刻改正の度に、優等列車の増発、速度向上が実施され、1953年(昭和28年)3月15日には京都−博多間特急5/6列車「かもめ」が設定された(9)。 これは、1944年(昭和19年)10月の「富士」の廃止以来、9年ぶりの山陽・九州方面特急の復活となった。
1955年(昭和30年)7月1日には、一等寝台車を二等寝台に格下げし、二等寝台A室、B室とし、従来の二等寝台をC室とする制度改正が実施された(10)。 また、1956年(昭和31年)3月20日には、三等寝台車が復活、東京−大阪間急行4往復に連結された。(11)
図1に1950年(昭和25年)10月の呉線時刻表を示す(12)。 呉―広島間には優等列車上下2本を含め上り15本、下り14本が設定されている。 運転本数的には、大正末期に近づいてはいるが、戦前の全盛期にはほど遠い。 また、運転時間も呉−広島間の普通列車が50〜60分で開業時とあまり変わらず、快速運転も実施されていない。 優等列車は、この改正で2本設定されている。
この改正で、宇品線への直通列車(広駅6:40発911列車)が設定されている。 戦後、宇品線沿線には原爆被害を受けた官公庁や学校が移転(13)しており、呉線沿線から宇品線方面への通勤・通学需要に対応したものと思われる。
この時刻表では、1949年(昭和24年)11月20日に実施された駅名改称を反映し、安芸三津が安芸津と改称されている。 1943年(昭和18年)1月1日に三津町は早田原村及び木谷村と対等合併して安芸津町が発足したが駅名は改称されず、戦後になって実現した(14)。
図1 呉線時刻表 1950年(昭和25年)10月
この列車のルーツは、1949年(昭和24年)9月15日に設定された東京−姫路間急行43/42列車が同年12月10日に岡山まで臨時延長され、1950年(昭和25年)5月11日に呉線経由で広島まで延長されて東京−広島間急行23/22列車となったものである。 さらに同年10月1日の時刻改正(図1の時刻表参照)で東京−広島(呉線経由)・宇野間急行39/40列車となった(15)。 同年11月8日には「安芸」と命名され(16)[註1]、東京−広島間の旅客輸送を担う列車となった。
図2 急行39/40列車編成表
図2に1950年(昭和25年)10月時点の急行39/40列車の編成表を示す(17)。 広島行きは1〜6号車で、7〜10号車は宇野行の編成である。 この時点では、二三等座席車のみの編成である。
図4 準急307/308列車編成表
1950年(昭和25年)10月1日の時刻改正(図1の時刻表参照)で登場した優等列車である。 図4に準急307/308列車の編成表を示す(17)。 広島行きは1〜6号車で、後に単独運転となり「ななうら」と命名された。 7〜9号車は松山行、10〜12号車は須崎行の編成である。 これらの四国方面行きの編成は、宇高連絡船の客車航送(下り3便、上り20便)により、乗客を乗せたまま高松に着き、多度津で分割されて松山および須崎へ向かった。
図5 仁堀航路時刻表 1950年(昭和25年)10月
図5に1950年(昭和25年)10月改正の仁堀航路時刻表を示す(19)。 いまだに1日1往復に減便されたままである。 このためか、25年度の旅客人数は年間合計25,466人、1日平均利用人員は、68人と仁堀航路存続中、最低を記録している(20)。
図6に1952年(昭和27年)4月の呉線時刻表を示す(21)。 呉―広島間には優等列車上下4本を含め上り18本、下り17本が設定されている。 この時点で、宇品行きの直通列車が2本に増発されている。
優等列車のうち、「特殊列車」と表記されているものは、前述のように連合軍専用列車を臨時急行(旅客案内上は特殊列車)として発券枚数を制限の上、日本人の一般旅行者に対して開放したものである。 日本人に開放されたとはいえ、基本は連合軍の軍用列車であり、列車警備のためアメリカ軍のMP(Military Police:憲兵/軍警察)が乗車していた。 MPの乗車は、1005/1006列車は12月14日まで、1001/1002列車では翌1953(昭和28年)2月末まで続けられた。(22)
特殊列車で興味深いのは、停車駅である。 1005(上り1006)列車は吉名に停車、1001(上り1002)列車は安芸阿賀に停車している。 軍用列車の場合、軍施設近傍の駅に停車することがあるが、虹村に近い安芸阿賀はまだしも(但し、利用しがたい時間である)、吉名に停車する理由がない。 ここで、両駅での上下列車の時刻を見ると、安芸阿賀で下り1001列車と上り1002列車が交換しており、吉名駅で1005列車と上り1006列車が交換している。 つまり、安芸阿賀駅と吉名駅での停車は、列車交換の停車を利用して客扱いをしたものと考えられる。 現在では、このような場合は「運転停車」として、客扱いをせず、時刻表上では通過の表示となる。
図6 呉線時刻表 1952年(昭和27年)4月
図8 準急307/308列車編成表
図8に1952年(昭和27年)4月時点の準急307/308列車の編成表を示す(23)。 松山行きの一部が八幡浜まで延長運転されるようになった。
図9 特殊列車1005/1006列車編成表
この列車の前身は連合軍専用列車「Allied Limited」で、東京−門司間の列車として1946年(昭和21年)1月31日東京発から運転を開始(上りは2月2門司発)し、2月末のイギリス連邦軍呉地区進駐により3月25日から呉線経由となった。 また、12月8日には小倉まで運転区間が延長された。 さらに、1951年(昭和26年)1月19日の東京発から佐世保まで運転区間が延長された(24)。
図9に1952年(昭和27年)4月時点の特殊列車1005/1006列車編成表を示す(25)。
図10 特殊列車1001/1002列車編成表
この列車の前身は連合軍専用列車「Dixie Limited」で、1946年(昭和21年)3月13日東京発から運転を開始(上り1002は3月14日博多発)し、Allied Limitedと同様に3月25日から呉線経由となった。 また、1950年(昭和25年)10月10日の東京発から佐世保まで運転区間が延長された(24)。
図10に1952年(昭和27年)4月時点の特殊列車1001/1002列車編成表を示す(25)。
図11 仁堀航路時刻表 1951年(昭和26年)12月
この時期(1951年(昭和26年)12月)に、「大島航路」より「五十鈴丸」が転属し、「長水丸」および「水島丸」と交替した(26)。 図11に1951年(昭和26年)12月改正の仁堀航路時刻表を示す(27)。 1日2往復に増便されており、航行時間も2時間40分から2時間25分に向上している。 これらの効果もあってか、翌27年度の旅客人数は年間合計48,684人、1日平均利用人員は、133人(20)と少し増加している。、
竣工 | 1943年(昭和18年) |
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建造所 | 不明(呉工廠?) |
改造 | 水野造船所広島工場 |
トン数 | 153総トン |
全長 | 30.7m |
垂線間長 | 29.5m |
幅 | 6.0m |
深さ | 2.6m |
喫水 | 1.6m |
乗客 | 257人 |
乗員 | 8人 |
主機関型式 | ディーゼル1基、1軸 |
出力 | 250馬力 |
最高速力 | 10.6ノット |
航海速力 | 7.0ノット |
「五十鈴丸」の前身は光海軍工廠の魚雷運搬船6728号で、「玉川丸」となる6729号とともに修理の上、1947年(昭和22年)8月より若松−宇部間の国鉄専用石炭運貨船として輸送に従事していた。 ところが、「大島航路」では老朽化した「山口丸」型の後継が必要となったが、新造船は「青函連絡船」、「宇高連絡船」を優先する事から、「五十鈴丸」と「玉川丸」を客船に改造することとし、GHQの認可を受け水野造船所広島工場で施工、上甲板上と中央部船倉内に定員300人の旅客設備を設け、1948年(昭和23年)11月に「大島航路」へ就航させた。 「五十鈴丸」は前述のように1951年(昭和26年)12月に大島航路より本航路に転属した。(28)
表1に「五十鈴丸」の要目を示す(29)。
図12に1953年(昭和28年)3月の呉線時刻表を示す(30)。 呉―広島間には優等列車上下3本を含め上り18本、下り17本が設定されている。
特殊列車1001/1002が掲載されていないが、これは同列車が1952年(昭和27年)9月1日に山陽本線経由に変更された(31)ためである。 また、特殊列車1005/1006列車の停車駅が風早に変更されているが、これはダイヤ改正により上下列車の交換駅が風早駅になったためであると考えられる。
図12 呉線時刻表 1953年(昭和28年)3月
図13 急行「安芸」編成表
図13に1953年(昭和28年)3月時点の急行「安芸」の編成表を示す(32)。 この時点でも、二三等座席車のみの編成で、食堂車、寝台車は連結されてない。
図14 準急307/308列車編成表
図14に1953年(昭和28年)3月時点の準急307/308列車の編成表を示す(32)。 須崎行きだった編成が、窪川まで延長運転されている。
図15 仁堀航路時刻表1953年(昭和28年)3月
図15に1953年(昭和28年)3月改正の仁堀航路時刻表を示す(33)。 下り3便の時刻が10分繰り下がった程度で、大きな変化はない。 28年度の旅客人数は年間合計55,115人、1日平均利用人員は、151人(20)であった。
図16に1956年(昭和31年)6月の呉線時刻表を示す(34)。 呉―広島間には優等列車上下3本を含め下り19本、上り20本が設定されている。 運転本数的には、まだ戦前の全盛期には及ばない。 また、運転時間も呉−広島間の普通列車が50〜60分で開業時とあまり変わらず、快速運転も実施されていない。 宇品への直通列車は、3本に増えている。 これは1954年(昭和29年)10月改正で増発されたものと思われる。
優等列車の内、急行「早鞆」は特殊列車1005/1006列車の後身である。 1005/1006列車は、1953年(昭和28年)8月1日に博多打ち切りとなり、同年10月1日に「早鞆」と命名された。(35) また、急行「安芸」が仁方駅に停車するようになっている。 これは、仁方−堀江間航路と接続して四国連絡の便を図ったものである。 しかしながら、下りの接続は「安芸」14;24仁方着→3便15:35仁方発、上りの接続は2便15:13仁方着→「安芸」15:21仁方発で、下りは待ち時間が長く、上りは時間に余裕がなかった。
その外には電報取扱駅の記号が変更されている、 これは、1952年(昭和27年)8月1日に電気通信省が廃止され、日本電信電話公社(現・NTTグループ)が電気通信省の業務を承継したことにより、それまでの郵便徽章から電電公社の公社章に変更されたものである。
図16 呉線時刻表 1956年(昭和31年)6月
図17 急行「早鞆」編成表
図17に急行「早鞆」の編成表を示す(36)。 連合軍専用列車や特殊列車時代には無かった三等車が連結されており、一般の急行列車と差がなくなっているが、旧一等寝台車(AB寝台)や食堂車を編成内に含むところが、その前歴を感じさせる。
図18 急行「安芸」編成表
図18に急行「安芸」の編成表を示す(36)。 当初の編成は、座席車のみであったが、この頃になると寝台車(二三等)が連結されている。 しかしながら、食堂車はまだ連結されていない。
図19 準急305/306列車編成表
図19に305/306列車の編成表を示す(36)。 この列車は、大阪−広島・宇野・四国方面間準急307/308列車の宇野・四国方面行き編成を1953年(昭和28年)11月11日に分離して、大阪−広島間準急305/306列車としたものである(9)。
分離された宇野・四国方面行準急307/308列車でも、宇高連絡船による客車航送は続けられた。 利用は好調で、夏季には宇野および高松で客車を増結するほどであったが、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事故[註4]により客車航送は中止となった(37)。
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