「神武景気」の後、短期間の「なべ底不況[1957年(昭和32年)7月から1958年(昭和33年)6月]」を経て、1958年(昭和33年)7月〜1961年(昭和36年)12月まで続く「岩戸景気」に移行した。
1958年(昭和33年)4月5日、東京六大学野球のスター選手・長嶋茂雄がプロデビュー、10月14日には東京タワーが竣工した。 この頃から、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家庭電化製品3品目が「三種の神器」として一般家庭に普及し始める。
戦後、呉に進出した企業のうちNBC呉造船部は、第1次造船ブームの中、1956年(昭和31年)8月8日に当時世界最大のタンカー「ユニバース・リーダー」(85,515重量トン)、1958年(昭和33年)12月6日に10万トン級タンカーの「ユニバース・アポロ」(114,365重量トン)を進水させ、タンカー大型化の先頭を走っていた。 しかしながら、その後に訪れた造船不況に苦しむこととなる。 呉造船所は、この造船不況の対策として、陸機部門へ進出、橋梁や陸用ボイラの生産に乗り出す。 日亜製鋼は、なべ底不況の中、製品の競合、設備の二重投資を避けるため、日本鉄板と合併し日新製鋼となった。(1)
1955年(昭和30年)頃までに国鉄は一応の復興を成し遂げていたが、幹線の多くは単線・蒸気運転の状態であり、経済成長の隘路の一つに挙げられる事態となっていた。 このため、国鉄は第一次5カ年計画を立案、1957年(昭和32年)度より実施し、施設・車両の更新,電化・ディーゼル化の促進をはかった。(2)
1958年(昭和33年)、新形式の特急用20系客車および特急用20系(のち151系)電車が完成した。 20系客車は10月1日から東京−博多間特急「あさかぜ」の客車を置き換える形で登場した。 20系電車は11月1日から新設の東京−神戸間特急「こだま」に投入され、当初6時間50分、最終的には6時間30分で運転された。(3)
各線の電化も進展し、4月10日には山陽線が姫路まで電化された(4)。 10月1日には、制度改正により普通急行列車の特別二等料金を廃し、座席指定制とした(5)。
1955年(昭和30年)9月30日、呉−広島間に気動車(ディーゼルカー)が復活したのにともない、地元の要請に応えて1958年(昭和33年)8月1日に川原石駅が再設置された(6)。 川原石駅は呉線運行改善のため、1999年(平成11年)2月7日に、0.5km海田市駅方面へ移転の上、一面一線の駅から二面二線の交換可能な駅とされ た。 旧駅前には記念の石碑が残されている。
図1に1958年(昭和33年)10月19日改正の呉線時刻表を示す(7)。 呉―広島間には優等列車上下3本を含め下り23本、上り24本が設定されている。 このうち下り11本、上り10本が気動車列車であり、気動車化の進展が見て取れる。 復活した川原石駅にはホーム長の関係で、客車列車は停車せず、気動車列車のみが停車している。
3本設定されている優等列車のうち、急行「宮島」は、京都−広島間準急305/306列車を格上げしたもので、この改正で登場した。 なお、下り301列車の終着および上り302列車の始発が「大社」となっているのは、後述のように併結の京都−大社間急行「だいせん」の終始発駅を示しているものである。
図1 呉線時刻表 1958年(昭和33年)10月
図2 急行「安芸」編成表
図2に急行「安芸」の編成表を示す(8)。 食堂車が連結されるようになり、二等寝台車も1輌増結されている。 このとき連結された食堂車は品川客車区持のマシ38で、冷房付き車輌であったようだ(9)。
図3 急行「宮島」編成表
急行「宮島」は準急305/306列車を格上げした急行列車である。 図3に編成表を示す(10)。 準急時代には宇野行編成を併結していたが、急行になってからは京都−大社間急行「だいせん」を併結するようになった。 「だいせん」は京都−岡山間で併結され、岡山で分割後、伯備線、山陰本線、大社線経由で大社に向かった。
設定当時は大阪−広島間が運転区間であったが、1957年(昭和32年)10月1日から京都−広島間の運転となった(11)。 また、三等寝台車が連結されるようになった。
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