1959年(昭和34年)4月10日、明仁皇太子殿下(今上陛下)が正田美智子と結婚された。 美智子妃殿下(現・皇后陛下)は民間出身の皇太子妃であったため、国民から熱烈に歓迎され「ミッチー・ブーム」が興った。 御成婚のパレードはテレビ中継されたが、この中継を見るために、当時まだ高価であったテレビが一般に普及し始めたと言われている。 翌1960年(昭和35年)2月23日には徳仁親王(現・皇太子殿下)が誕生、皇室に慶事が続いた。
池田勇人内閣は、1960年(昭和35年)12月に、1961年度からの10年間で国民所得を倍増することを目標とした国民所得倍増計画を閣議決定した。 この後、日本経済は所得倍増計の想定を上回る高度成長を実現することとなる。(1)
呉への企業進出は続き、1959年(昭和34年)10月に三豊製作所(現・ミツトヨ)が広地区で、日立製作所(バブコック日立→三菱日立パワーシステムズ→三菱パワー→三菱重工業)が旧砲熕部および旧軍需部跡で操業を開始した。(2)
1961年(昭和36年)12月3日には工費3億6200万円をかけた音戸大橋が開通し、音戸・倉橋地区と本土が陸路で結ばれた(3)。
1957年(昭和32年)度より国鉄が実施した第一次5カ年計画は、その後の経済成長に追従できず、1961年(昭和36年)度から、更に規模を拡大した第二次5カ年計画に移行した。(4)
第二次5カ年計画は以下のようなものであった。(5)
このうち、1.の「東海道線に広軌鉄道を増設すること。」とは、東海道新幹線を指す。 東海道新幹線は1959年(昭和34年)4月20日に起工された(6)。
1960年年7月1日には、列車等級の一等車が廃止され、二・三等車がそれぞれ一・二等車に格上げされて2等級制となった(7)。 これは、一等車運賃が航空運賃を上回り利用者が激減したことと、二・三等車の設備が向上したことによる。(8)
山陽線の電化も進展し、1961年(昭和36年)6月1日には小郡−下関間が電化され、10月1日には神戸−三原間の電化が完成した。 これら、主要幹線の電化、線路増設、および新性能車輌の増備をうけて、後に実施年月から「サン・ロク・トウ(昭和36年10月)」と呼ばれる時刻の白紙大改正が実施された。(9)
呉線においても、サン・ロク・トウの改正により、大阪−広島間急行「音戸」の新設、急行「宮島」の気動車化等が実施された。
図1に呉線時刻表:1961年(昭和36年)10月改正の呉線時刻表を示す(10)。 呉―広島間には優等列車上下5本を含め下り26本、上り27本が設定されている。 このうち下り13本、上り10本が気動車列車である。
優等列車5本のうち「音戸」と「吉備」は新設、「ななうら」は既存の列車に名称を付与したものである。 詳細は次項参照。
普通列車については変化が少ないが、優等列車の増発および気動車化が進められていることがわかる。
図1 呉線時刻表 呉線時刻表:呉線時刻表:1961年(昭和36年)10月
図2 急行「安芸」編成表
図2に急行「安芸」の編成表を示す(11)。 東京−広島間を直通する主編成に変化はないが、付属編成の連結区間等が変更されている。
図3 急行「宮島」編成表
急行「宮島」はこの改正で客車列車から気動車列車となった。 図3に編成表を示す(10)。 客車列車時代は、京都−大社間急行「だいせん」を併結していたが、単独運転となった。 また、運転区間が京都−広島間から大阪−広島間に変更された。
図4 急行「音戸」編成表
急行「音戸」は関西−広島間の輸送力強化を目的に設定された急行列車である。 図4に編成表を示す(13)。 寝台車を主体に編成された寝台列車となっている。
図5 急行「音戸」列車名票
図6 急行「音戸」列車種別票
1959年(昭和34年)9月22日の時刻改正時に、既存の京都−広島間準急307/308列車を「ななうら」と命名したものである(14)。 大阪−広島間に寝台列車の「音戸」が設定されたために、編成から寝台車が外され、座席車のみとなっている。
1960年(昭和35年)6月1日に設定された気動車準急である。 二等車のみの3両編成で、キハ55系などが使用された。(15)
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