東京オリンピックが終わると日本経済は低迷を始め、「証券不況[1964年(昭和39年)10月〜1965年(昭和40年)10月]」に陥ったが、1965年(昭和40年)夏からの積極的な財政政策により、これを脱し、輸出の好調に支えられて、戦後最も長い「いざなぎ景気[1965年(昭和40年)10月〜1970年(昭和45年)7月]」を迎えた。(1)
1965年(昭和40年)4月1日、国立呉病院(旧海軍病院)が中国地方がんセンターとして指定を受けた。(2)
同年12月には、太田川東部工業用水道事業の第一期工事が竣工、呉市への通水が開始された。 太田川東部工業用水道事業は産業の発展により急増する工業用水需要に対応するため、広島県と呉市ならびに島嶼部の各町との間で協議により発足し、広島県により一日あたり22万立方メートルの工業用水、8万立方メ―トル(うち呉市利用分5万立方メ―卜ル)の上水を供給するという事業であった。(3)
1965年(昭和40年)10月1日、全国時刻大改正が実施された。 鹿児島本線熊本電化、北陸本線全線電化、東北本線盛岡電化による電車化、軌道強化による高速化、新幹線電車増備による新幹線増発等が行われた。 また、翌11月1日には東海道新幹線の時刻改正が実施され、東京−新大阪間「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間運転が開始された。(4)
図1に1965年(昭和40年)10月改正の呉線時刻表を示す(5)。 呉―広島間には優等列車上下6本を含め上下30本が設定されている。
ここで注意してほしいのは、上り長崎発の急行「出島」に佐世保発の編成が連結されているように表示されている事である。 後述するが巻末の編成表も佐世保発の編成が連結されているように表示されている。 また、下り長崎行では佐世保行の編成が連結されているように表示されていない。 更に翌月の時刻表(6)では時刻も編成表も「出島」に佐世保編成が連結されているように表示されていない。 実際に「出島」に佐世保編成が連結されるのは翌1966年(昭和41年)3月の事である。
これは、半年先の情報が何らかの理由で紛れ込んだ原稿を、そのまま時刻表として発行してしまったと推察される。 今風に表現するなら、盛大な誤爆か。 いや、違うか……
図1 呉線時刻表 1965年(昭和40年)10月
図2 急行「安芸」編成表
図2に急行「安芸」の編成表を示す(7)。 1964年(昭和39年)10月の編成と比べると、二等座席車が寝台車に置き換えられて寝台化が完了している。
急行「安芸」は1965年(昭和40年)11月15日に火災事故を起こしている。 下り急行「安芸」は東海道本線・愛知御津駅を定刻(1時27分)通過後に非常ブレーキが作動。 停止後、調査したところ6両目食堂車の火災を確認。 食堂車と7両目客車の一部を焼損し2時に鎮火した。 この火災により、食堂車従業員2名が死亡した。 復旧後、三河三谷駅に3時間19分遅着(4時50分)、6両目および7両目を開放し、同駅を3時間51分(5時25分)遅発した。(8)
図3 急行「音戸」編成表
図3に急行「音戸」の編成表を示す(9)。 1964年(昭和39年)10月の編成と比べると、「安芸」と同じく二等座席車が寝台車に置き換えられて寝台化が完了している。
図4 急行「出島」編成表
図4に急行「出島」の編成表を示す(10)。 佐世保発の編成が連結されているように表示されているが、実際に「出島」に佐世保編成が連結されるのは翌1966年(昭和41年)3月の事である。 これは何かの間違いだと考えられるが、理由は不明である。
図5 準急「ななうら」編成表
図5に準急「ななうら」の編成表を示す(11)。 再び寝台車(2等2輌)が連結されるようになった。
図6 仁堀航路時刻表 1965年(昭和40年)1月
1964年(昭和39年)12月、「仁堀航路」は広島鉄道管理局3航路の経営合理化計画の一環として、それまでの「五十鈴丸」を「宮島航路」に転出させ、「大島航路」から「大島丸」を転入させ9日から就航させた(12)。
図6に就航直後である1965年(昭和40年)1月の仁堀航路時刻表を示す(13)。
信号符号 | 7JMD |
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竣工 | 1961年(昭和36年)6月2日 |
造船所 | 大阪造船所 |
船質 | 鋼 |
総トン | 258トン |
重量トン | 53.2トン |
全長 | 33.40m |
垂線間長 | 30.80m |
幅 | 9.30m |
深さ | 2.90m |
満載喫水 | 2.00m |
積載車輌 | 5トン自動車1台 |
乗客 | 普通:450(550)人 |
乗員 | 9人 |
主機関型式 | ディーゼル機関1基、1軸 |
出力 | 358(軸馬力) |
最高速力 | 11.1ノット |
航海速力 | 10.6ノット |
「大島丸」は大阪造船所で、1961年(昭和36年)1月18日に起工、4月7日に進水、6月2日に竣工した。 表1に大島丸の要目(14)(15)を示す。
要目表の乗客(人)が「普通:450(550)」となっているが( )内の数字は、自動車を搭載しない場合の人数を示している。 前述の時刻表では自動車航送の記載がなく、「定員550名」としているのは、このためである。
自動車航送開始後の後述の時刻表では、「定員471名」となっているが、要目表の「普通:450(550)」と合致していないが、理由は不明である。
また、時刻表では1等座席の表記があり、1等運賃も表示されているが、参考にした資料の要目表には1等の旅客人数は記載されていなかった。 これも理由不明である。
なお、速力が「五十鈴丸」の8ノットから11.14ノットに増速しており、運行時間の短縮に貢献している。 しかしながら、1月時点の運行時間は「五十鈴丸」時代の2時間25分から変わっていない。 これは仁方および堀江で接続する列車の時刻が変わらないため、次の時刻改正まで据置いたものと考えられる。
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