高度経済成長は国民生活の物的な豊かさを実現したが、急激な経済成長は環境破壊や公害問題等の弊害も引き起こした。 1967年(昭和42年)には公害対策基本法が制定され、四大公害訴訟(新潟水俣病、四日市大気汚染、イタイイタイ病、水俣病)が始まった。(1)
呉市においても、1965年(昭和40年)頃より、大気汚染や水質汚濁が問題化した。 呉市では1967年(昭和42年)12月28日に公害対策係を設置し、企業と公害防止協定を結ぶなどの対策を講じた。(2)
1960年代の後半になると、高度経済成長による自家用車の普及、バス交通の発達により路面電車は全国的に衰退していった。 このような中で、呉市電も1967年(昭和42年)12月28日正午をもって廃止され、58年の歴史を閉じた。(3)
1967年(昭和42年)7月9日、呉市は時間雨量75mmという集中豪雨に見舞われ、崩壊箇所約2,700、生き埋め171名、死者88名、負傷者467名という大被害を受けた。(4)
図1 宇品線時刻表 1966年(昭和41年)12月
宇品線の一般旅客営業廃止後も、広島―上大河(かみおおこう)間に通勤通学列車が残置された。 これは、宇品線の一般旅客営業が廃止されると、上大河で乗降している県立広島工業、進徳女子、皆実、比治山女子などの高校生および広島大学医学部の学生約3,100人他に影響が出ることを考慮したためである。(8)
図1に1966年(昭和41年)12月改正の宇品線時刻表を示す。 平日・土曜日5往復、日曜・祝日2往復が設定されている。 注記にもあるように、乗車は原則として定期券所持者のみに限定されていた。
この時刻表は、広島県立文書館所蔵の日本交通公社時刻表 昭和41年10月号(長船友則氏寄託資料)に挟み込まれていたもので、広島地区で配布されたものと思われる。
この当時の宇品線列車は、上大河で機回しができないため、客車4~6両の前後に蒸気機関車(三次機関区のC58、広島機関区のC11)を連結した双頭列車で運転されていた。 なお、蒸気運転は1970年(昭和45年)10月の改正でディーゼル機関車(広島機関区のDE10)に置き換えられている。(9)
図2に1967年(昭和42年)10月改正の呉線時刻表を示す(10)。 呉―広島間には優等列車上下6本を含め上下29本、臨時上下1本が設定されている。
前述のように、1966年(昭和41年)12月20日に宇品線の一般旅客営業および貨物営業が廃止されたために、早朝に3本設定されていた宇品への直通列車は、広島止めとなった。
図2 呉線時刻表 1967年(昭和42年)10月
図3 急行「安芸」編成表
図3に急行「安芸」の編成表を示す(11)。 編成上は1960年(昭和40年)10月の編成と変化はない。
図4 急行「音戸」編成表
図4に急行「音戸」の編成表を示す(12)。 編成上は1960年(昭和40年)10月の編成と変化はない。
図5 急行「ななうら」編成表
急行「ななうら」は急行料金制度改正により、準急から急行となったものである。 図5に急行「ななうら」の編成表を示す(12)。 編成上は1960年(昭和40年)10月の編成と変化はない。
図6 急行「出島」編成表
1966年(昭和41年)急行「出島」に佐世保行編成が連結され、呉―長崎・佐世保間急行となった。 図6に急行「出島」の編成表を示す(12)。
急行「吉備」「にしき」は1966年(昭和41年)3月25日に、1両が増結され5両編成となった(13)。 しかしながら、この改正で一等車がら外され、再びモノクラス編成となった。
電化前の呉線では、C59およびC62という大形蒸気機関車が運用されていた。 これは呉線が重要軍事地帯を通過していたことと、山陽本線のバイパスとしての役割により、線路規格が高く設定されていたためである。 図7に1967年(昭和42年)10月改正の糸崎機関区運用表を示す(14)。 基本的に旅客列車にはC59またはC62が、貨物列車にはD51が充当されたが、運用の都合でD51が旅客列車に充当されることもあった。
図7 糸崎機関区運用表 1967年(昭和42年)10月
図8に1967年(昭和42年)10月改正の仁堀航路時刻表を示す(15)。 呉線と予讃線の接続列車が記載されるようになっている。 42年度の旅客人数は年間合計67,036人、1日平均利用人員は、184人であった。 また、自動車航送台数は年間合計5,086台、1日あたり14台であった。(16)。
図8 仁堀航路時刻表 1967年(昭和42年)10月
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