1968年(昭和43年)は明治改元(1868年10月23日)から100周年にあたる年で、10月23日に明治百年記念式典が開催された。 4月18日には東京都千代田区に日本初の超高層ビルである霞が関ビル(高さ147メートル)が完成はした。 アメリカ軍政下にあった小笠原諸島が、6月26日に発効した小笠原復帰協定により、日本に返還された。 10月17日、川端康成のノーベル文学賞受賞が決定した。 川端は12月10日にストックホルムでノーベル賞授賞式に出席した。 12月19日、第9次南極地域観測隊(村山雅美隊長)は、日本人として初めて南極点に到達した。
呉造船所は石川島播磨重工(IHI)と1968年(昭和43年)3月31日に合併、同社のIHI呉造船所となった。 翌1968年(昭和44年)には40万トンドックを建設し、大型タンカーの建造に備えた。(1)
東北本線の全線複線電化等の主要幹線の電化、複線化および軌道強化の進捗を受けて、1968年(昭和43年)10月1日に「ヨン・サン・トウ」と呼ばれた白紙大改正が実施された。 この改正は特急列車のネットダイヤ化、貨物列車を含む列車のスピードアップなどを主眼としたものであった。(2)
1968年(昭和43年)4月25日、呉線三原−海田市間の電化工事が起工された(3)。 1929年(昭和4年)の呉線電化運動(4)から39年を経てのことであった。
図1に1968年(昭和43年)10月改正の呉線時刻表を示す(5)。 呉―広島間には優等列車上下6本を含め上下28本が設定されている。
優等列車6本は変化がないが、列車名称は6種から4種に減少している。 これは、優等列車の増発により列車名称も増加し、販売面での繁雑化やコンピュータ処理上の問題が生じたため、本改正で列車名称の整理が行われた結果である。(6)
図1 呉線時刻表 1968年(昭和43年)10月
図2 急行「安芸」編成表
図2に急行「安芸」の編成表を示す(7)。 1967年(昭和42年)10月の編成と比べて、荷物車の減車以外、大きな変化はない。
図3 急行「音戸」編成表
急行「音戸」は前述の列車名称整理により、急行「ななうら」を吸収し、2往復となった。 図3に急行「音戸」の編成表を示す(8)。 新大阪−下関間運転が旧「音戸」で、京都−広島間運転が旧「ななうら」である。
編成表を比較すると、座席車主体であった旧「ななうら」に対し、旧「音戸」が完全に寝台化されていたことがわかる。
急行「吉備」は前述の列車名称整理により、急行「にしき」を吸収し、2往復となった。
1960年代後半は、国鉄の貨物輸送がピークに達した時期である。 トン数ベースでは1964年(昭和39年)度の2億700万トン、トン・キロベースでは1970年(昭和45年)度の634億3500万トン・キロがピークであった。 1968年(昭和43年)度はそれぞれ1億9900万トン、589億6400万トン・キロであった。(9)
図4に1968年(昭和43年)10月改正の呉線貨物列車時刻表を示す(10)。 上下5本が設定されており、上りの1本は吹田操車場への直通列車であった。 物資別出荷基地として、広駅に○に紙のマークが付いているのは東洋パルプ(現・王子マテリア)呉工場からの紙製品、呉駅に○に鉄のマークが付いているのは日新製鋼呉製鉄所等からの鉄鋼製品の出荷を行っていたためである。 なお、この当時の貨物列車牽引には糸崎機関区のD51が充当されていた。
図4 呉線貨物時刻表 1968年(昭和43年)10月
図5に1968年(昭和43年)10月改正の仁堀航路時刻表を示す(11)。 43年度の旅客人数は年間合計64,322人、1日平均利用人員は、176人であった。 また、自動車航送台数は年間合計5,497台、1日あたり15台であった。(12)。
図5 仁堀航路時刻表 1968年(昭和43年)10月
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