1968年(昭和43年)4月18日、東京都千代田区に日本初の超高層ビルである霞が関ビル(高さ147メートル)が完成。 1969年(昭和44年)5月26日には東名高速道路が全通、小牧で既存の名神高速道路と接続した。
1970年(昭和45年)3月14日、日本万国博覧会が開幕した。 アジアで初めて開催された国際博覧会であり、77カ国が参加し、9月13日の閉幕までに6,421万8,770人の入場者を集めた。(1)
軍港都市として人口が急増した呉市では、下水道が整備されておらず、毎年1,000名前後の伝染病患者が発生していた。 戦時中に下水道計画が立案され、1948年(昭和18年)2月に処理場が起工されたが、資材不足により1945年(昭和20年)6月に中断されたままになっていた。 戦後も1958年(昭和33年)2月になってから呉市下水道第一期計画が策定され、3月に着工された。 1969年(昭和44年)4月1日に新宮浄化センター1次処理施設の供用開始、1970年(昭和45年)10月1日には新宮浄化センター二次処理施設の供用が開始され、同年度をもって一期計画が完了した。(2)
1970年(昭和45年)8月22日、呉線の電化試運転が開始された(5)。 急行「安芸」の例では、8月23日〜9月14日は、前位に広島機関区のEF58がついた電蒸運転、9月15日〜29日は上りが電気機関車単独牽引、下りは糸崎機関区のC59またはC62の牽引となった(6)。 10月1日には全線電化運転が開始され、時刻改正が行われた。
図1に1970年(昭和45年)10月改正の呉線時刻表を示す(7)。 呉―広島間には優等列車上下6本を含め上下27本が設定されている。 朝夕の通勤列車と優等列車の一部を除き電車化されており、特に気動車は急行「出島」1往復と「出島」の回送を普通列車とした下り1本に激減している。
優等列車は6本と本数の変化がないが、急行「安芸」「吉備」「宮島」の運転系統変更等が行われた。 詳細は次項参照。 また、広−広島間を快速区間とする快速列車が、上下3本設定された。
図1 呉線時刻表 1970年(昭和45年)10月
呉線電化に際して投入された車輌は、大都市圏で使用されていた旧式の72系電車を転用したものであった。 10月1日から登場したが、冬期に入ると車内が寒いとの苦情が出るようになった。 これは、都市圏の通勤電車として設計された72系電車の片側4扉という構造に問題があった。 都市圏輸送では停車時間が短く、全ドア開放でも車内温度の低下は少なかったが、単線の呉線では、対向列車待ちによる長時間停車により車内温度が著しく低下した。 この対策として、両端2扉の締め切り、内側2扉の半自動化、暖房器増強などの改善が実施された。(8)
72系電車の塗色はブドウ色2号と呼ばれるチョコレート色であったが、新鮮味が無く、また利用債を引き受けた地元民への配慮もあって、黄緑6号と呼ばれるライトグリーンの塗色とされた。 この塗色は、保線担当者から、山間部運転の際に背景の草木との識別が容易でなく、事故防止上好ましくないとの意見が出たため、前面に黄柑色の警戒塗装が追加された。(9)
図2 急行「音戸」編成表
図2に急行「音戸」の編成表を示す(10)。 1968年(昭和43年)10月の改正時と比較すると、下り1号/上り2号は、広島回転車が3両から4両に増え、下り2号/上り1号は、普通車1両がB寝台車に置き換えられている。 これは、輸送実態に合わせた改正と考えられる。
急行「安芸」は、この改正で大きく変わった列車である。 従来の東京−広島間急行「安芸」は特急に格上げされ、東京−下関間「あさかぜ(下り3号/上り1号)」となった。 この時刻表に示す「安芸」は、大阪(下り)・新大阪(上り)−三原間急行「とも(下り2号、上り4号)」を赤穂線経由で呉まで延長した電車急行であり、従来の「安芸」とは全く性格の異なる列車である。 編成表は時刻表に記載がないが、グリーン車1両を含む、153系電車の12両編成だったようである(11)。
急行「宮島」は、山陽本線広島電化時に、東京−広島間急行(2往復)として山陽本線経由に変更され、東海道新幹線開業とともに、新大阪−広島間急行となり、この改正で呉線経由となった。 編成表は時刻表に記載がないが、「安芸」と共通の、グリーン車1両を含む、153系電車の12両編成だったようである(12)。
急行「吉備」2往復は、この改正で電車化の上、岡山−岩国間の1往復を山陽本線経由の広島(下り)・岩国(上り)−岡山間急行「山陽(下り4号/上り1号)」とした。 編成表は時刻表に記載がないが、165系または167系の普通車のみの4両編成だったようである(13)。
図8に1970年(昭和45年)10月改正の仁堀航路時刻表を示す(14)。 45年度の旅客人数は年間合計48,342人、1日平均利用人員は、132人であった。 また、自動車航送台数は年間合計6,160台、1日あたり17台であった。(15)。
図8 仁堀航路時刻表 1970年(昭和45年)10月
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