1971年(昭和46年)8月15日にアメリカのニクソン大統領がドルと金との兌換停止を発表した。 同年12月にはスミソニアン協定でドルと各国通貨との交換レート改定が決定され、日本円は1ドル=360円から308円へ切り上げられた。 これにより、円高不況が到来した。(1)
札幌オリンピックが1972年(昭和47年)2月3日〜13日に開催された。 アジアで初めて開催された冬季オリンピックで、35の国と地域から1,006名の選手が参加し、会期中に6競技・35種目が行われた。 日本代表選手団は90名(男子70名・女子20名)であった。(2) 70m級スキー・ジャンプにおいて笠谷幸生(金)、金野昭次(銀)、青地清二(銅)の3人が表彰台を独占(3)、日の丸飛行隊と賞賛された。
1971年(昭和46年)4月27日から28日にかけて、広町の大張矢(おおはりや)で山林火災が発生し340ヘクタールが焼失、消火に当たっていた消防職員18名が殉職した。(4)
この時期、IHIでは世界記録のタンカーの建造が相次ぎ、1971年(昭和46年)4月20日には、当時世界一のトン数を誇るタンカー「日石丸」(370,000万重量トン)が進水、1972年(昭和47年)10月14日には、当時の世界記録を塗り替えたタンカー「グロブティック・トーキョー」(480,000重量トン)が進水した。(5)
山陽新幹線岡山開業により、昼行の優等列車は一部を除き岡山で新幹線に接続するダイヤとされ、大阪・名古屋−岡山間が廃止された。 これにより、呉線の昼行優等列車も大きく変化した。
図1に1972年(昭和47年)3月改正の呉線時刻表を示す(7)。 呉―広島間には優等列車上下6本を含め上り27本、下り26本が設定されている。 未だに朝夕の通勤列車(上り4本、下り5本)は電車化されていない。
山陽新幹線岡山開業に伴うダイヤ変更により、急行「音戸」と「出島」は残置されたが、急行「安芸」「吉備」「宮島」は「安芸」に統合された。 運転区間も岡山−呉・広島とされ、岡山で山陽新幹線に接続するダイヤとなった。
広−広島間の快速列車(上下3本)は、全列車が安芸阿賀に停車するようになり、快速区間が呉−広島間となった。 また、糸崎−呉間を快速区間とする列車が、上下2本設定された。 但し、参照とした時刻表に「快速」の表示はない。
図1 呉線時刻表 1972年(昭和47年)3月
図2 急行「安芸」編成表
急行「安芸」は、上下3本に増えているが、これは前述のように急行「安芸」「吉備」「宮島」を統合し、岡山で新幹線に接続するようにしたためである。
図2に急行「安芸」の編成表を示す(8)。 山陽本線経由の岡山−広島・下関間急行「山陽」と共通の、グリーン車・ビュッフェを含む10両編成である。
図3に1972年(昭和47年)3月改正の仁堀航路時刻表を示す(9)。 47年度の旅客人数は年間合計43,999人、1日平均利用人員は、121人であった。 また、自動車航送台数は年間合計6,587台、1日あたり18台であった。(10)。
図3 仁堀航路時刻表 1972年(昭和47年)3月
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