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三十糎艦船連合呉支部

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社会情勢

全国

1972年(昭和47年)6月に、田中角栄が発表した「日本列島改造論」は、工業の全国的再配置、新幹線と高速自動車道の建設、情報通信ネットワークの形成により、地域間の経済格差を是正することを主眼とするものであった。 翌7月に成立した田中角栄内閣は積極的な財政金融政策をとり、公共事業支出を増加させた。 日本列島改造論で開発候補地とされた地域などで土地買い占めがおこなわれるなどの投機的ブームが起こった。

このような状況下で、1973年(昭和48年)10月に第四次中東戦争が勃発した。 アラブの産油国は戦争を有利に進める戦略として、原油生産削減やイスラエル支援国への石油禁輸、および原油価格の大幅引き上げ(1バレルあたり2ドル前後→11ドル前後)を決定した(第一次石油危機)。 これらにより、日本経済は激しいインフレーションに見舞われた。 政府はこの対策のため金融引き締めを実施、インフレーションを押さえ込むことに成功したが、1974年(昭和49年)の実質経済成長率は戦後初のマイナス成長となり、長く続いた「高度成長期」は終焉を迎えた。(1)

呉市

1973年(昭和48年)8月31日、通産省中国工業技術研究所(現・独立行政法人 産業技術総合研究所)で、潮汐水理模型として世界最大級の瀬戸内海大型水理模型が竣工した。 この水理模型は、瀬戸内海の海水汚濁の実態を解明し、広域水質汚濁の予測技術を確立することを目的に建設された。 大きさは、長さ230m、内海部の幅50〜100mで、水平方向1/2,000、鉛直方向1/159分の縮尺で作られた。 完成以来37年にわたり使用されてきたが、コンピュータ・シミュレーションの発達などにより、2010年3月にその役目を終えた。(2)

1974年(昭和49年)12月20日には、当時世界最大級のタンカー「日精九」(484,337重量トン)がIHIで進水した(3)

鉄道

1975年(昭和50年)3月10日、山陽新幹線・岡山−博多間が全通し、これに伴うダイヤ改正が実施された(4)

同年12月14日、国鉄最後の蒸気機関車牽引の旅客列車が、室蘭本線室蘭−岩見沢間で運転された。 翌1976年(昭和51年)3月2日、追分機関区に残っていた9600形蒸気機関車が廃車となり、国鉄の営業用蒸気機関車は消滅、動力近代化が完了した。(5)

呉線―1975年(昭和50年)3月

山陽新幹線博多開業により、関西、山陽、九州方面の昼行優等列車の全廃、夜行優等列車の削減等が実施され、、呉線の優等列車も大きく変化した。

運行

図1に1975年(昭和50年)3月改正の呉線時刻表を、図2に仁堀航路時刻表を示す(6)。 呉―広島間には優等列車上下1本を含め上り30本、下り29本が設定されている。 優等列車上下1本を除き、全列車が電車化された。

山陽新幹線博多開業に伴うダイヤ変更により、昼行の急行「安芸」および「出島」は全廃された。 夜行の優等列車は、京都−広島間急行「音戸(上り1号/下り2号)」が廃止され、新大阪−下関間急行「音戸(上り2号/下り1号)」が格上げされ特急「安芸」となった。

呉−広島間の快速列車は、上下3本から上下5本に増発され、広島で新幹線に接続するようになった。  また、岡山−呉間には、急行「安芸」と、ほぼ同じ時間(約2時間40分)で運転する快速上下3本が設定された。

呉線時刻表:1975年(昭和50年)3月
呉線時刻表:1975年(昭和50年)3月
図1 呉線時刻表 1975年(昭和50年)3月

主要な列車

特急「安芸」

特急「安芸」編成表
図3 特急「安芸」編成表1

特急「安芸」は、新大阪−下関間急行「音戸」が格上げされた列車である。 車輌は、新形式の投入により余剰となった20系客車を使用した。

図3に特急「安芸」の編成表を示す(7)。 A寝台車1両を含む9両編成で、食堂車は連結されていない。

特急「安芸」編成表
図4 特急「安芸」編成表2

「安芸」は、1977年(使用和52年)9月1日に、新型の2段式B寝台車の24系25形客車に置き換えられた。 図4に、そのときの編成表を示す(8)。 全車2段式B寝台の9両編成である。 通常、2段式B寝台車に対しては個室A寝台車を連結し、2段式B寝台車との格差を維持するが、「安芸」の運行区間では個室A寝台車の需要が見込めなかったため、連結をされなかったと考えられる。

快速列車

快速列車 列車種別票
図5 快速列車 列車種別票

快速列車は、呉−広島間に上下5本、岡山−呉間に上下3本(1本は岡山−広島間の運転で、快速区間は岡山−呉間)設定されている。

呉−広島間の快速は、広島での新幹線接続を意識したものであったが、岡山−呉間の快速は都市間輸送も考慮したものであったと考えられる。 例として、かつての下り急行「安芸1号」が東京発「ひかり1号」と接続した、岡山発10時46分だったのに対し、快速の下り1番列車は、岡山発8時48分発と東京発の新幹線との接続を無視した時刻となっていることが挙げられる。

仁堀航路

仁堀航路は「安芸丸」に替えて初の新造船である「瀬戸丸」を投入、片道運行時間をそれまでの2時間5分から1時間40分と25分短縮した。 図2に1975年(昭和50年)3月10日改正の仁堀航路時刻表を示す(9)。 50年度の旅客人数は年間合計54,512人、1日平均利用人員は、149人であった。 また、自動車航送台数は年間合計7,867台、1日あたり21台であった(10)。 自動車航送台数は増加傾向にあったが、1日3往復では民間フェリーに対抗できず、7年後には廃止されることとなる。

仁堀航路時刻表:1975年(昭和50年)3月
図2 仁堀航路時刻表 1975年(昭和50年)3月

表1 瀬戸丸要目
信号符号JC3444
船質
総トン399.23
純トン156.82
全長(m)43.60
垂線間長(m)39.00
幅(m)10.20
深さ(m)3.50
満載喫水(m)2.60
積載車輌4m自動車24台
乗客(人)普通:200
乗員(人)6
主機関型式ディーゼル機関2基、2軸
速力(ノット)14.33
出力2,091(軸馬力)

仁堀航路は開設以来、他航路からの転籍船で運行されていたが、1970年代中盤になって新造船「瀬戸丸」が発注された。 「瀬戸丸」は臼杵鉄工所臼杵造船所で、1974年(昭和49年)4月23日に起工、9月3日に進水、11月29日に竣工した。 しかしながら、当時オイルショックによる資材の高騰を理由に、臼杵鉄工所が船価のアップを要求したことから、話がこじれ就航が翌1975年(昭和50年)3月にずれ込んだ。(11)。 表1に「瀬戸丸」の要目(12)を示す。

参考資料

  1. 浜野潔・井奥成彦・中村宗悦・岸田真・永江雅和・牛島利明.日本経済史1600−2000:歴史に読む現代.東京, 慶応義塾大学出版会,2009,p282-285.(ISBN978-4-7664-1573-5)
  2. 独立行政法人 産業技術総合研究所.瀬戸内海大型水理模型の紹介.http://staff.aist.go.jp/yamasaki.m/seto-model.htm.2013年9月22日参照
  3. 呉市史編纂委員会編.呉の歴史:呉市制100周年記念版.呉,呉市,2002,p452
  4. 大久保邦彦・三宅俊彦・曽田英夫編.鉄道運輸年表〈最新版〉.東京,JTB,1998,p124,旅.1999年1月号別冊付録 第73巻第1号 通巻864号
  5. 前掲.鉄道運輸年表〈最新版〉,p126
  6. 時刻表 昭和50年3月号(第51巻第3号 通巻第589号).東京,JTB,2002.p134-135.時刻表復刻版〈昭和後期編〉
  7. デジタル版 国鉄特急編成史 機関車・客車篇.東京,弘済出版社,1999,p62.(ISBN4-330-54499-7)
  8. 前掲.デジタル版 国鉄特急編成史 機関車・客車篇,CD-ROM
  9. 前掲.時刻表 昭和50年3月号.p134
  10. 愛媛県史編さん委員会 編.愛媛県史 社会経済 3 (商工).松山,愛媛県,1986,p749
  11. 古川達郎.鉄道連絡船100年の航跡.東京,成山堂書店,1988.p192.(ISBN4-425-95141-7)
  12. 前掲.鉄道連絡船100年の航跡.p344-345