1979年(昭和54年)のイラン革命により、第二次石油危機が発生、原油価格は1バレル12ドル前後から24ドル前後へ高騰した。 しかしながら、日本の場合、第一次石油危機に比し消費者物価の上昇率及び景気の落ち込みもも低く、比較的早く第二次石油危機を乗り切った。 これは第一次石油危機での教訓により、政府の金融引き締めタイミングが早かったこと、労使が協調的に賃金抑制したこと、企業の減量経営の進展により省エネルギーが進んでいたことによると考えられている。(1)
1982年(昭和57年)に成立した中曽根康弘内閣のもと、第二次臨時行政調査会は3公社(日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本専売公社)の民営化等の提言を行った。(2)
呉市立美術館は、呉市制施行80周年記念事業の一環として、1982年(昭和57年)8月21日、幸町の入船山公園内に開館した。地元出身芸術家の作品を中心に、オーギュスト・ルノワールの「麦わら帽子の少女」やオーギュスト・ロダンの「着衣のバルザック」等のコレクションがある。(3)
1980年(昭和55年)10月1日の改正で、三原−呉間の快速が全廃された。 呉−広島間の快速は上下6本に減便された。 また、向洋が快速列車の停車駅になった。(6)
1981年(昭和56年)7月7日、呉駅ビルおよび駅前広場が完成した(7)。 駅舎としては四代目となる。
1982年(昭和57年)7月1日付で輸送実績が低迷していた仁方―堀江間の仁堀航路が廃止された(8)。 廃止時の時刻等は後述する。
図1に1982年(昭和57年)6月の呉線時刻表を示す(9)。 前述のように、三原−呉間の快速は全廃されている。 しかしながら、岡山−三原間は快速として残置されている。
図1 呉線時刻表 1982年(昭和57年)6月
図2に最末期の仁堀航路時刻表を示す(10)。 1日3往復から2往復に減便されているが、1980年(昭和55年)10月時点で、既に1日2往復に減便されている(11)。 1日2往復では民間航路に対抗できず、廃止前年の56年度の旅客人数は年間合計43,523人、1日平均利用人員は、121人であった。 また、自動車航送台数は年間合計6,070台、1日あたり17台であった。(12)。 なお、国鉄・JR連絡船で「赤字」を理由に廃止されたのは前例がなく、類似した事例としては、1913年(大正2年)に「舞鶴―小浜間航路」の民間譲渡があったのみである(13)。
図2 仁堀航路時刻表 1982年(昭和57年)6月
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