中曽根康弘内閣のもと、第二次臨時行政調査会は3公社(日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本専売公社)の民営化等の提言を行った。(1) これにより、1985年(昭和60年)4月1日に日本電信電話公社および日本専売公社が民営化されて、日本電信電話(NTT)と日本たばこ産業(JT)とが発足した。
1985年(昭和60年)9月22日のG5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)でドル高の是正とマクロ経済政策の国際協調を確認したプラザ合意が成立した。 プラザ合意を景気として円高が進み、これにより「円高不況」に陥った。(2)
1983年(昭和58年)、度技術工業集積地域開発促進法(昭和58年5月16日 法律第35号/平成10年12月18日廃止)、通称「テクノポリス法」が成立した。 この法律は、高度技術に立脚した工業開発を促進することにより、地域経済の発達を図り、地域住民の生活の向上等を目的とするものであった。 石油危機以降、基幹産業の重化学工業が低迷し、産業構造の転換が課題となっていた広島県では、呉市・東広島市・竹原市・黒瀬町・安芸津町の3市2町が、1984年(昭和59年)3月24日に広島中央テクノポリス開発計画地域の指定を受けた。 呉市においては、東広島呉道路等の交通ネットワークの整備、情報ネットワークの形成、産・学・官の連携による技術交流の形成等が推進されることとなった。(3)
1980年(昭和55年)10月1日の改正で、三原−呉間の快速が全廃された。 呉−広島間の快速は上下6本に減便された。 また、向洋が快速列車の停車駅になった。(6)
1981年(昭和56年)7月7日、呉駅ビルおよび駅前広場が完成した(7)。 駅舎としては四代目となる。
1984年(昭和59年)2月1日の改正から、広−広島間にシティ電車を導入、快速列車を削減し普通列車を増発した。 この結果、快速列車は上り1本、下り2本にまで減少した。(8)
1985年(昭和60年)3月14日の改正では、呉−広島間の快速が全廃され、普通列車のみの運転となった。 図1に1985年(昭和60年)3月改正の呉線時刻表を示す。(9) 呉−広島間には上り37本、下り38本が設定されている。
この時期、広島で開催されるフラワーフェスティバルに合わせ、臨時列車「フラワーフェスティバル号」が下り1本のみ運転されている。 運転区間は安芸川尻−広島間という変わったものであった。 また、広島−岩国間が水曜日(休日除く)運休の列車が、下り2本設定されている。 これは、保線作業の時間を確保するための措置であったようだ。
図1 呉線時刻表 1985年(昭和60年)3月
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