1985年のプラザ合意による急速な円高により、一時的な円高不況に見舞われたが、日銀の金融緩和政策による公定歩合の引き下げ、政府の財政出動による景気刺激策により、不況は1986年(昭和61年)を底に上昇に転じた。 1987年(昭和62年)頃には、株価や地価の急激な上昇が見られたが、金融引き締めは行われなかった。 金融緩和の継続は、景気の過熱とマネーサプライの上昇をもたらし、多額の資金が株式と不動産に投入され「バブル景気」が発生した。(1)
1982年(昭和57年)7月の臨時行政調査会の第3次答申を受け、1983年(昭和58年)5月、「日本国有鉄道の経営する事業の再建の推進に関する臨時措置法」が制定され、同年6月日本国肩鉄道再建監理委員会が発足した。
1985年(昭和60年)7月26日、再建監理委員会は、「国鉄改革に関する意見」を内閣総理大臣に提出した。 「国鉄改革に関する意見」は、国鉄の現行経営形態を改め、分割・民営化することを基本とし、あわせて巨額の債務等について適切な処理を行い過剰な要員体制を改め、健全な事業体としての経営基盤を確立した上で国鉄事業を再出発させることを骨子としており、経営形態の変更は62年4月1日に行うものとした。
1986年(昭和61年)11月の第107回国会において、国鉄改革関連8法が成立した。 これにより、日本国有鉄道は、1986年(昭和62年)4月1日をもってその幕を閉じ、新たに設立される6つの旅客鉄道株式会社(北海道旅客鉄道株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、東海旅客鉄道株式会社、西日本旅客鉄道株式会社、四国旅客鉄道株式会社及び九州旅客鉄道株式会社)、日本貨物鉄道株式会社並びに新幹線鉄道保有機構等の事業体に、その事業と役割を引き継ぐこととなった。 (2)
図1 昭和62年3月31日 さようなら日本国有鉄道 記念メダル
図2に1986年(昭和61年)11月改正の呉線時刻表を示す(3)。 呉−広島間には上り45本、下り46本が設定されている。 シティ電車が増発され、広−広島間を20分間隔で運転されるようになり、呉駅では朝晩を除き、毎時01、21、41分の発車/到着時間にそろえられた。
この年の3月3日の改正から、水曜日運休の列車が呉線内にも設定された(4)。 11月改正の時点では、上り3本、下り4本が広−広島間に設定されている。 また広島−岩国間が水曜日運休の列車も上下2本設定されている。
川原石駅は、ホームの延長により8両編成の列車が停車可能となり、この改正から全列車が停止するようになった。
この改正は、国鉄時代最後の大改正となった。 呉線も、以後は大きな改正のないまま1986年(昭和62年)4月1日の分割民営化を迎えることとなる。
図2 呉線時刻表 1986年(昭和61年)11月
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