1918年(大正7年)11月、ドイツ帝国が降伏し第一次世界大戦が終結したが、日本経済は好景気が続いていた。 しかしながらヨーロッパ各国の生産力が回復すると、日本の輸出は減少し景気が悪化した。 1920年(大正9年)3月には株価が暴落し戦後恐慌が発生した。 4月から7月にかけては、169の銀行が取付にあい、21行が休業に追い込まれた。 政府の救済融資により、恐慌は収束したが、不良債権問題が1920年代の課題となった。(1)
1923年(大正12年)9月1日、相模湾を震源に発生した関東大震災は、死者行方不明者14万人、被災者300万人以上という被害をもたらし、戦後恐慌に苦しむ日本経済に追い打ちをかけることとなった。(2)
呉市においては、1921年(大正10年)頃までは海軍拡張による繁忙が続いたが、1922年(大正11年)2月6日に締結されたワシントン海軍軍縮条約により、建造中・計画中の主力艦(戦艦)の建造中止、10年間の代艦建造の禁止が決まった。 これにより、呉工廠において人員整理が実施され、1925年(大正14年)までに6,437名が退職した(3)。
官設鉄道の主要幹線の建設は続けられ、既設路線においても設備の改良(複線化、電化、線形改良)が進められた。 広島地区においては1925年(大正14年)8月に神戸−広島間の複線化が完成している。(4)
乗降人数 (人/日) |
呉市人口 | 工廠職工人数 (月平均) |
|
---|---|---|---|
1919年(大正8年) | 3,274 | 145,130 | 25,947 |
1920年(大正9年) | 2,511 | 130,354 | 29,758 |
1921年(大正10年) | 3,274 | 142,111 | 33,253 |
1922年(大正11年) | 3,443 | 144,613 | 34,095 |
1923年(大正12年) | 3,394 | 147,754 | 27,626 |
1924年(大正13年) | 3,482 | 150,872 | 23,172 |
1925年(大正14年) | 2,817 | 139,380 | 20,584 |
1926年(大正15年) | 3,379 | 146,800 | 20,136 |
表1に1919年(大正8年)〜1926年(大正15年)における呉駅乗車人員(5)、呉市人口(6)および海軍工廠職工の月平均人数(7)の推移を示す。
大正前期に順調に伸びていた呉線の乗客数であったが、大正後期に入ると、第1次世界大戦の終結やワシントン海軍軍縮条約の影響などによる、職工や人口の増減を反映し、その推移にはかなりの凹凸があり、前期ほどの増加率は見られなくなった。 しかしながら、ピークを迎えた1924年(大正13年)の乗車客数は大正初年と比較すると248%の増加となっている。 また貨物発着量は1921年(大正10年)から1923年(大正12年)にピークを迎え、1923年(大正12年)の貨物発送量は、大正初年と比較すると277%に増加している。(8)
図1 2代目呉駅駅舎
このような呉線の利用度の進展により、呉駅の駅舎の増改築が要請され、1922年(大正11年)4月9日に改築工事に着手し、翌1923年(大正12年))8月13日に竣工した。 二代目の駅舎は鉄筋コンクリート平屋造1,096m2で、建築費130、900円であった。(9)図1に、呉駅駅舎の絵葉書を示す。
図1に1921年(大正10年)4月時点の呉線時刻表を示す(10)。 呉−広島間は2往復が増発され16往復となった。 下り2本が岩国までの直通、上りは岩国から2本、下関及び三田尻(現・防府)から各1本の直通列車が設定されている。
運転時間は、呉−広島間の最速が58分となり、大正前期と比べて速度が低下しているのは、運転本数が増えたため、途中駅での交換に時間をとられるようになったためと考えられる。
また、図1では省略されているが、山陽本線区間の広島−海田市間に向洋駅が1920年(大正9年)8月1日に設置されている。
「二、三等車ノミ」と記載があるのは、この当時の官有鉄道は三等級制であったことによる。 一等車の需要減少のため1913年(大正2年)10月1日から主要幹線の急行・直行列車のおよび主要列車を除き、一等車の連結が廃止された(11)後も、呉線では一等車連結は維持されていたが、1919年(大正8年)10月1日に主要幹線の急行・直行列車を除き、一等車の連結が廃止された(12)。
図1 呉線時刻表1921年(大正10年)4月
図2に1923年(大正12年)7月時点の呉線時刻表を示す(13)。 呉−広島間には16往復が運転され、下り1本が岩国までの直通、上り1本が下関、同じく1本が岩国からの直通列車となっている。
運転時間は、呉−広島間の最速が1時間となり、さらに速度が低下している。 この時期に呉線の貨物取扱量が増大しており、1921年(大正10年)11月には、それまで発着14回であった貨物列車を発着16回に増発した。 この貨物列車増発も旅客列車の速度低下の原因であると考えられる。(8)
図2 呉線時刻表1923年(大正12年)7月
図3に1926年(大正15年)8月時点の呉線時刻表を示す(14)。前掲の時刻表と比べると、安藝濱崎が新設されている。 1914年(大正3年)1904年に廃止された濱崎仮停車場を、陳情により1926年(大正15年)8月1日に安藝濱崎臨時停車場として復活開設されたものである。(15)。 呉−広島間には16往復が運転され、下り1本が小郡までの直通、上り2本が下関からの直通列車となっている。
運転時間は、呉−広島間の最速が1時間で変化はない。 この後、1929年(昭和4年)9月15日の時刻改正まで、呉線のダイヤはこの状況が継続する。
図3 呉線時刻表1926年(大正15年)8月
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