1970年(昭和45年)10月25日建立。 合祀者201柱。(1)
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伊勢型戦艦竣工時
「伊勢」は、伊勢型戦艦の1番艦である。 伊勢型戦艦は扶桑型戦艦の改正型として建造された。 主砲は扶桑型と同じ45口径36cm連装砲塔6基12門であったが、砲塔は中央部の2基を第2煙突後部に背負式配置した。 これにより、艦内配置や弾薬庫防御上では有利になったが、船首楼長さが短くなったため居住性は悪化したといわれている。 副砲は扶桑型までの15.2cmから14cmに改められている。 これは、砲弾重量を当時の日本人の体格に合わせて軽いものにしたかったためである。 口径減少を補うために、扶桑型の16門から20門へ増加されている。
戦艦「伊勢」開戦時
1933年(昭和8年)に8cm高角砲を12.7cm連装高角砲に換装。 また、最上甲板両舷の14cm砲を撤去。 さらに、毘式40mm連装機銃が装備された。 1934年(昭和9年)には艦尾に呉式二号三型射出機を装備した。1935年(昭和10年)8月1日〜1937年(昭和12年)5月31日にかけて近代化改装工事が実施され、水平防御力の強化、主機と主缶の換装、遠距離砲戦に対応した主砲および副砲の仰角引き上げ、バルジの装着、艦尾の延長などが行われた。 また、毘式40mm連装機銃を九六式25mm連装機銃10基に換装、射出機を呉式二号五型に換装した。"
開戦後は、ハワイ作戦支援に参加後、1942年(昭和17年)2月に二式二号電波探信儀一型を装備し、6月のミッドウェー作戦支援に参加した。 ミッドウェー海戦での航空母艦4隻喪失をうけ、航空戦力の増強を図るため、「日向」とともに航空戦艦に改装されることとなった。 改装は1943年(昭和18年)2月23日〜8月23日に呉工廠で実施された。 この改装で22機を搭載する航空戦艦となったが、搭載機が揃わず、10月にトラックへ陸軍部隊輸送任務の他は、内地で訓練に従事した。
戦艦「伊勢」比島沖海戦時
捷一号作戦発動により、1944年(昭和19年)10月20日第三艦隊(小沢機動部隊)として豊後水道を出撃したが、「伊勢」と「日向」には航空機は搭載されていなかった。 10月25日のエンガノ岬沖海戦では、アメリカ軍機などの攻撃により航空母艦4隻が撃沈されたが、「伊勢」と「日向」は弾幕射撃と巧みな回避運動により、大きな損害を受けることなく呉に帰投した。 11月には比島方面への輸送任務に就いたが、南方からの軍需物資強行輸送作戦(北号作戦)のため、1945年(昭和20年)2月11日に軍需品を搭載してシンガポール発。 敵制空権下の南シナ海を突破し、2月20日に呉に帰投した。 その後は燃料不足のため、呉港外に繋留されていたが、7月24、28日のアメリカ空母機の爆撃により三子島沖で大破着底した。(2)
艦名は旧国名。 現在の三重県の大半。(3)
新造時 | 1937年(昭和12年)大改装後 | 1943年(昭和18年)航空戦艦改装後 | |
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艦種 | 戦艦 | ||
建造所 | 川崎造船所 | ||
基準排水量 | 29,990トン ※1 | 35,800トン ※1 | 35,350トン ※1 |
常備排水量 | 31,588トン ※1 | ||
公試排水量 | 32,032トン ※1 | 40,183トン ※2 | 38,676トン ※2 |
軽荷排水量 | 29,008トン ※1 | 33,963.97トン ※2 | 33,341トン ※2 |
満載排水量 | 37,037トン ※1 | 42,302トン ※2 | 40,444トン ※2 |
垂線間長 | 195.07m | → | → |
水線長 | 205.74m(公試) | 213.36m(公試) | 213.36m(公試) |
全長 | 208.16m | 215.80m | 219.62m |
最大幅 | 28.65m | 33.83m | → |
水線最大幅 | 28.65m(公試) | 31.70m(公試) | 31.71m(公試) |
水線下最大幅 | 28.65m | 33.83m | → |
喫水 | 8.86m(常備平均) | 9.32m(公試平均) | 9.03m(公試平均) |
飛行甲板 | ― | ― | 全長70m、前部幅29m、後部幅13m |
主缶 | ロ号艦本式水管缶(重油・石炭混焼24基 | ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基 | → |
主機 | ブラウン・カーチス式高低圧直結タービン2基 | 艦本式オール・ギヤード・タービン4基 | → |
推進器軸 | 4軸 | → | → |
出力 | 45,000馬力/56,498馬力(公試) | 80,000馬力(公試84,959馬力) | 80,000馬力 |
速力 | 23ノット/23.638ノット(公試) | 24.5ノット(公試25.403ノット) | 24.5ノット(公試25.27ノット) |
燃料 | 石炭:4,600トン 重油:1,411トン | 重油:5398トン | 重油:4,249トン |
航続力 | 14ノットで9,680浬 | 16ノットで7,870浬/11,100浬(実績) | 16ノットで9,449浬(推定) |
兵装 | 45口径四一式36cm連装砲4基 50口径三年式14cm単装砲20基 40口径三年式8cm単装高角砲4基 安式53.3cm水中魚雷発射管6基 |
45口径四一式36cm連装砲4基 50口径三年式14cm単装砲16基 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基 九六式25mm連装機銃10基 |
45口径四一式36cm連装砲4基 40口径八九式12.7cm連装高角砲8基 九六式25mm3連装機銃19基 |
射出機 | ― | 呉式二号五型1基 | 一式二号一一型2基 |
装甲 | 水線305mm 甲板55+30mm 司令塔320mm 砲塔前楯305mm 砲塔天蓋115mm |
水線305mm 甲板135+32mm 司令塔320mm 砲塔前楯305mm 砲塔天蓋152mm |
→ |
航空機 | ― | 水上偵察機3機(定数) | 水上偵察機瑞雲14機(計画) 艦上爆撃機彗星8機(計画) |
乗員 | 1,360名 | 1,385名 | 1,463名 |
その他 | 1921年(大正10年)に主砲の仰角引き上げを実施。
1924年(大正13年)に砲塔天蓋甲鈑換装を実施。 1933年(昭和8年)に8cm高角砲を12.7cm連装高角砲に換装。 また、最上甲板両舷の14cm砲を撤去。 さらに、毘式40mm連装機銃が装備された。 1934年(昭和9年)には艦尾に呉式二号三型射出機を装備した。 | 捷号作戦時の兵装は以下 45口径四一式36cm連装砲4基 40口径八九式12.7cm連装高角砲8基 九六式25mm3連装機銃31基 同単装機銃11基 12cm30連装噴進砲6基 |
※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン
年月日 | 履歴 |
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1915年(大正4年)5月10日 | 川崎造船所において起工。 |
1916年(大正5年)11月12日 | 進水。 |
1917年(大正6年)12月15日 | 竣工。 呉鎮守府籍に編入。 |
1918年(大正7年)4月1日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1920年(大正9年)8月29日 | 館山発。 シベリア沿岸警備に従事。 |
1920年(大正9年)9月7日 | 小樽着。 |
1920年(大正9年)12月1日 | 予備艦となる。 |
1921年(大正10年)12月1日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1922年(大正11年)6月26日 | 仁川発。 旅順方面行動。 |
1922年(大正11年)7月4日 | 鎮海着。 |
1922年(大正11年)8月29日 | 呉発。 シベリア沿岸警備に従事。 |
1922年(大正11年)9月10日 | 小樽着。 |
1923年(大正12年)8月25日 | 横須賀発。 中国方面行動。 |
1923年(大正12年)9月4日 | 有明湾着。 |
1923年(大正12年)9月7日 | 関東大震災により、9月30日まで同地方に行動。 |
1923年(大正12年)12月1日 | 予備艦となる。 |
1924年(大正13年)10月9日 | 館山発。 遠洋航海。 |
1924年(大正13年)10月21日 | 佐世保着。 |
1925年(大正14年)12月1日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1926年(大正15年)3月30日 | 中城湾発。 厦門方面行動。 |
1926年(大正15年)4月5日 | 馬公着。 |
1926年(大正15年)4月20日 | 基隆発。 舟山島方面行動。 |
1926年(大正15年)4月26日 | 寺島水道着。 |
1927年(昭和2年)3月27日 | 佐伯発。 青島方面行動。 |
1927年(昭和2年)4月7日 | 旅順着。 |
1927年(昭和2年)12月1日 | 予備艦となる。 |
1929年(昭和4年)11月30日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1930年(昭和5年)3月28日 | 佐世保発。 青島方面行動。 |
1930年(昭和5年)4月3日 | 大連着。 |
1931年(昭和6年)3月29日 | 佐世保発。 青島方面行動。 |
1931年(昭和6年)4月5日 | 裏長山列島着。 |
1931年(昭和6年)6月5日 | 呉工廠に入渠。 |
1931年(昭和6年)6月23日 | 呉工廠を出渠。 |
1931年(昭和6年)11月20日 | 呉工廠に入渠。 |
1932年(昭和7年)2月10日 | 呉工廠を出渠。 |
1932年(昭和7年)3月27日 | 佐世保発。 第一次上海事変に参加。 |
1932年(昭和7年)4月3日 | 大連着。 |
1932年(昭和7年)12月1日 | 第二予備艦となる。 |
1933年(昭和8年)5月14日 | 呉工廠に入渠。 |
1933年(昭和8年)6月6日 | 呉工廠を出渠。 |
1933年(昭和8年)8月16日 | 館山発。 南洋方面行動。 |
1933年(昭和8年)8月21日 | 木更津沖着。 |
1933年(昭和8年)11月15日 | 予備艦のまま砲術学校練習艦となる。 |
1934年(昭和9年)9月25日 | 呉工廠で機関部改装工事に着手。 |
1934年(昭和9年)11月15日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1935年(昭和10年)8月1日 | 呉工廠で船体部他改装工事に着手。 |
1935年(昭和10年)8月15日 | 第三予備艦となる。 |
1937年(昭和12年)5月31日 | 改装工事完了。 呉工廠を出渠。 |
1937年(昭和12年)12月1日 | 第一艦隊第一戦隊に編入。 |
1938年(昭和13年)4月9日 | 寺島水道発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)4月14日 | 基隆着。 |
1938年(昭和13年)10月17日 | 寺島水道発。 南支方面行動。 |
1938年(昭和13年)10月23日 | 馬公着。 |
1939年(昭和14年)3月22日 | 鹿児島発。 北支方面行動。 |
1939年(昭和14年)4月2日 | 寺島水道着。 |
1940年(昭和15年)3月26日 | 有明湾発。 南支方面行動。 |
1940年(昭和15年)4月2日 | 高雄着。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 第一艦隊第二戦隊に編入。 |
1940年(昭和15年)7月16日 | 練習艦となる。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 第一艦隊第二戦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)2月24日 | 佐世保発。 南支方面行動。 |
1941年(昭和16年)3月3日 | 馬公着。 |
1941年(昭和16年)3月6日 | 馬公発。 |
1941年(昭和16年)3月11日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)3月28日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)3月29日 | 呉着。 |
1941年(昭和16年)4月26日 | 呉発。 |
1941年(昭和16年)4月27日 | 宿毛湾着。 |
1941年(昭和16年)6月3日 | 宿毛湾発。 |
1941年(昭和16年)6月6日 | 四日市着。 |
1941年(昭和16年)6月21日 | 四日市発。 |
1941年(昭和16年)6月23日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)6月28日 | 有明湾発。 |
1941年(昭和16年)6月31日 | 横浜着。 |
1941年(昭和16年)7月6日 | 木更津沖へ回航。 |
1941年(昭和16年)7月8日 | 木更津沖発。 |
1941年(昭和16年)7月11日 | 有明湾着。 |
1941年(昭和16年)8月21日 | 柱島着。 |
1941年(昭和16年)12月8日 | ハワイ作戦支援のため、柱島発。 |
1941年(昭和16年)12月13日 | 柱島着。 以後、内海西部で全作戦支援。 |
1942年(昭和17年)2月19日 | 呉に回航。 改修工事。 |
1942年(昭和17年)2月26日 | 柱島に回航。 |
1942年(昭和17年)3月12日 | アメリカ機動部隊迎撃のため、柱島発。 |
1942年(昭和17年)3月16日 | 伊勢湾着。 |
1942年(昭和17年)3月20日 | 伊勢湾発。 |
1942年(昭和17年)3月21日 | 柱島着。 |
1942年(昭和17年)4月18日 | ドーリットル空襲により、アメリカ機動部隊攻撃のため、柱島発。 |
1942年(昭和17年)4月24日 | 柱島着。 |
1942年(昭和17年)5月29日 | 柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。 |
1942年(昭和17年)6月17日 | 横須賀着。 |
1942年(昭和17年)6月22日 | 横須賀発。 |
1942年(昭和17年)6月24日 | 柱島着。 |
1942年(昭和17年)7月14日 | 連合艦隊付属となる。 呉、柱島で訓練に従事。 |
1942年(昭和17年)11月21日 | 呉工廠に入渠。 |
1942年(昭和17年)11月29日 | 呉工廠を出渠。 |
1943年(昭和18年)2月23日 | 第四予備艦となる。 呉工廠に入渠。 改造工事に着手。 |
1943年(昭和18年)8月10日 | 第一艦隊第二戦隊に編入。 |
1943年(昭和18年)8月23日 | 改装工事完了。 呉工廠を出渠。 諸訓練、諸公試のため周防灘へ出動。 |
1943年(昭和18年)8月26日 | 呉着。 |
1943年(昭和18年)9月15日 | 兵学校候補生の実務練習に従事。 |
1943年(昭和18年)10月9日 | 宇品で陸軍諸物件搭載。 |
1943年(昭和18年)10月14日 | 宇品で陸軍部隊乗艦。 トラックに向け宇品発。 |
1943年(昭和18年)10月20日 | トラック着。 陸軍諸物件揚陸。 |
1943年(昭和18年)10月31日 | 内地に向けトラック発。 |
1943年(昭和18年)11月5日 | 徳山着。 |
1943年(昭和18年)11月7日 | 柱島に回航。 |
1943年(昭和18年)11月10日 | 呉に回航。 同方面で訓練に従事。 |
1944年(昭和19年)2月25日 | 連合艦隊付属となる。 |
1944年(昭和19年)5月1日 | 第三艦隊第四航空戦隊に編入。 |
1944年(昭和19年)5月31日 | 呉工廠に入渠。 機銃、電探装備。 |
1944年(昭和19年)6月7日 | 呉工廠を出渠。 整備。 |
1944年(昭和19年)6月21日 | 諸訓練、諸公試のため伊予灘へ出動。 |
1944年(昭和19年)6月23日 | 広島湾着。 以後、広島湾、岩国沖などで訓練に従事。 |
1944年(昭和19年)10月20日 | 豊後水道発。 比島沖海戦に参加。 |
1944年(昭和19年)10月25日 | アメリカ艦載機と交戦。 瑞鳳の乗員を救助。 |
1944年(昭和19年)10月27日 | 奄美大島薩川湾着。 |
1944年(昭和19年)10月28日 | 奄美大島薩川湾発。 |
1944年(昭和19年)10月29日 | 呉着。 |
1944年(昭和19年)11月8日 | 呉発。 マニラに向かったが、空襲のため入港できず。 |
1944年(昭和19年)11月22日 | リンガ泊地着。 |
1944年(昭和19年)12月12日 | リンガ泊地発。 |
1944年(昭和19年)12月14日 | カムラン湾着。 ミンダナオに向かうアメリカ輸送船団攻撃のため待機。 |
1944年(昭和19年)12月30日 | 作戦中止により、カムラン湾発。 |
1945年(昭和20年)1月1日 | リンガ泊地着。 待機。 |
1945年(昭和20年)2月11日 | シンガポール発。 軍需品を搭載して内地へ向かう。 |
1945年(昭和20年)2月20日 | 呉着。 |
1945年(昭和20年)3月1日 | 第四航空戦隊解隊により、第一予備艦となる。 |
1945年(昭和20年)3月19日 | 呉でアメリカ空母機の爆撃により、被弾2発。 |
1945年(昭和20年)6月1日 | 特別警備艦。 |
1945年(昭和20年)7月24、28日 | 呉港外三子島沖でアメリカ空母機の爆撃により大破着底。 |
1945年(昭和20年)11月20日 | 除籍。 |
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