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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1977年(昭和52年)10月23日建立。 合祀者778柱。(1)

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軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

碑文

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

軍艦鈴谷について

鈴谷
二等巡洋艦「鈴谷」新造時

「鈴谷」は最上型巡洋艦の3番艦である。 最上型はロンドン海軍軍縮条約下で建造されたが、このとき日本は重巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径15.5cm(6.1インチ)超、20.3cm(8インチ)以下)の保有枠を使い切っており、備砲口径15.5cmの軽巡洋艦として建造し、有事の際には20.3cm砲に換装する計画とした。 しかしながら、軽巡洋艦(基準排水量1万トン以下、備砲口径12.7cm(5インチ)超、15.5cm(6.1インチ)以下)の保有枠を使っても単艦排水量を8,500トンとせざるを得ず、きわめて無理のある設計となった。

建造中に友鶴事件が発生したため、船体線図を改め、中甲板以上の甲板高さを低下し、重心降下および重量軽減をはかるなどの性能改善対策が施された。 「鈴谷」は1935年(昭和10年)11月10日から各種公試運転の実施に入ったが、同年9月に「最上」および「三隈」が第四艦隊事件に遭遇した。 他艦に比べて「最上」と「三隈」の損害は軽かったが、「最上」では艦首外板に皺が生じた。 「最上」、「三隈」は公試運転で発生した、船体振動による推進器付近の外板および肋材の亀裂、艦首外板の皺発生、3番砲塔の旋回困難などの不良に対して船体の補強が実施されていたが、再度の事故発生により抜本的な対策が必要となった。 このため、「鈴谷」は公試運転を中断し、「最上」、「三隈」に準じた性能改善工事を実施し、1937年(昭和12年)10月31日に竣工した。 ロンドン海軍軍縮条約破棄後、計画通りに20.3cm砲に換装されることとなり、1939年(昭和14年)1月〜9月30日に横須賀工廠で施工された。

開戦後は、マレー、蘭印、ビルマ、ジャワ島、ベンガル湾掃討作戦に参加した。 1942年(昭和17年)6月に参加したミッドウェー海戦では「最上」が大破、「三隈」が沈没したが「鈴谷」は被害なく内地に帰投した。 その後は、ソロモン方面の作戦参加、ラバウル方面への輸送任務や陸上作戦支援任務等に従事した。 1943年(昭和18年)中ごろより、戦訓による機銃の増備や、電波探信儀の装備などが実施された。 1944年(昭和19年)10月に参加したレイテ島沖海戦では、サマール島沖でアメリカ海軍機により被雷し、雷撃処分された。(2)(3)

艦名

艦名は河川名。 鈴谷川は樺太南部の河川で、ルータカ山南東方に発し、南流してススヤ平原を貫き、豊原(ウラジミロフカ)を経て、貝塚(ソロウィヨフカ)西方に至り、千歳湾(ロソセイ入江)に注ぐ、延長約80kmの河川。 なお、河川名としての読みは「ススヤ」川である。(4)

要目(3)(5)(6)

新造時1939年主砲換装後1944年6月
艦種二等巡洋艦
建造所横須賀海軍工廠
基準排水量 ※18,500トン(計画)12,000トン
公試排水量 ※213,440トン13,887トン
垂線間長187.7m
水線長197.0m198.06m
水線最大幅20.219.15m
水線下最大幅20.20m
喫水5.90m5.90m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力152,000馬力
速力35.0ノット(計画)35.0ノット(計画)
燃料重油:2,280トン重油:2,215トン
航続力14ノットで8,000浬14ノットで8,000浬
装甲水線100mm、甲板35mm
兵装60口径三年式15.5cm3連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九三式13mm連装機銃2基
九六式25mm3連装機銃4基
九〇式61cm3連装発射管一型4基
九〇式魚雷24本
50口径三年式二号20cm連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm3連装機銃4基
九三式13mm連装機銃2基
九〇式61cm3連装発射管一型4基
九三式魚雷18本
50口径三年式二号20cm連装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm3連装機銃8基
九六式25mm連装機銃4基
九六式25mm単装機銃18基
九〇式61cm3連装発射管一型4基
九三式魚雷18本
射出機呉式二号五型2基呉式二号五型2基呉式二号五型2基
航空機水上偵察機3機(定数)水上偵察機3機(定数)水上偵察機3機(定数)
乗員894名
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(7)

年月日履歴
1933年(昭和8年)12月11日横須賀海軍工廠において起工。
1934年(昭和9年)11月20日進水。
1937年(昭和12年)10月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1937年(昭和12年)12月1日第二艦隊第七戦隊に編入。
1938年(昭和13年)4月9日佐世保発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)4月14日高雄着。
1938年(昭和13年)10月17日佐世保発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)10月23日馬公着。
1938年(昭和13年)12月15日予備艦となる。 改装工事に着手。
1939年(昭和14年)11月15日第二艦隊第七戦隊に編入。
1940年(昭和15年)3月27日中城湾発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)4月2日基隆着。
1941年(昭和16年)1月23日呉発。
1941年(昭和16年)1月29日海南島三亜着。 対仏印威力顕示作戦を支援。
1941年(昭和16年)2月6日三亜発。
1941年(昭和16年)2月10日バンコク沖着。
1941年(昭和16年)2月13日サイゴン着。
1941年(昭和16年)3月11日馬公、高雄をへて有明湾着。
1941年(昭和16年)3月28日呉に回航。
1941年(昭和16年)4月11日呉工廠に入渠。
1941年(昭和16年)4月17日呉工廠を出渠。
1941年(昭和16年)4月25日呉発。
1941年(昭和16年)4月26日三河湾着。
1941年(昭和16年)5月17日三河湾発。 同日、伊勢湾着。
1941年(昭和16年)5月22日伊勢湾発。 同日、三河湾着。
1941年(昭和16年)6月4日三河湾発。
1941年(昭和16年)6月6日別府着。
1941年(昭和16年)6月10日別府発。
1941年(昭和16年)6月12日宿毛湾着。
1941年(昭和16年)6月19日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)6月23日有明湾着。
1941年(昭和16年)6月27日有明湾発。
1941年(昭和16年)6月30日横須賀着。
1941年(昭和16年)7月12日呉に回航。
1941年(昭和16年)7月16日呉発。
1941年(昭和16年)7月22日三亜着。
1941年(昭和16年)7月25日三亜発。
1941年(昭和16年)7月30日サイゴン沖着。
1941年(昭和16年)8月7日宿毛湾着。
1941年(昭和16年)8月19日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)8月20日呉着。
1941年(昭和16年)8月31日呉工廠に入渠。
1941年(昭和16年)9月7日呉工廠を出渠。
1941年(昭和16年)11月20日柱島発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 マレー上陸作戦を支援。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。 以後、マレー上陸作戦を支援。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。
1941年(昭和16年)12月27日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月5日カムラン湾発。 輸送船団護衛。
1942年(昭和17年)1月10日カムラン湾着。 
1942年(昭和17年)1月14日カムラン湾発。
1942年(昭和17年)1月19日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月26日カムラン湾発。 アナンバス攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)1月30日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)2月10日カムラン湾発。 バンカ、パレンバン上陸作戦を支援。
1942年(昭和17年)2月24日アナンバス発。 バタビア攻略支援。
1942年(昭和17年)3月5日セレター着。
1942年(昭和17年)3月9日セレター発。 北部スマトラ上陸支援。
1942年(昭和17年)3月15日セレター着。 燃料補給。 湾口哨戒に従事。
1942年(昭和17年)3月20日セレター発。 アンダマン作戦支援。
1942年(昭和17年)3月26日メルギー着。
1942年(昭和17年)4月1日メルギー発。 ベンガル湾機動作戦に従事。
1942年(昭和17年)4月6日ベンガル湾において商船7隻を撃沈。
1942年(昭和17年)4月11日シンガポール着。
1942年(昭和17年)4月13日シンガポール発。 内地に向かう。
1942年(昭和17年)4月22日呉着。
1942年(昭和17年)4月27日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)5月4日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)5月22日柱島発。 ミッドウェー攻略部隊支援隊。
1942年(昭和17年)5月26日グアム着。
1942年(昭和17年)5月28日グアム発。 ミッドウェーに向かう。
1942年(昭和17年)6月5日ミッドウェー海戦に参加。
1942年(昭和17年)6月13日トラック着。
1942年(昭和17年)6月17日トラック発。
1942年(昭和17年)6月23日呉着。 船体、兵器、機関整備。
1942年(昭和17年)7月14日第三艦隊第七戦隊となる。
1942年(昭和17年)7月17日柱島発。
1942年(昭和17年)7月25日シンガポール着。
1942年(昭和17年)7月28日シンガポール発。 ベンガル湾方面行動。
1942年(昭和17年)7月30日メルギー着。
1942年(昭和17年)8月8日メルギー発。
1942年(昭和17年)8月14日バリックパパン着。 機動部隊前衛となる。
1942年(昭和17年)8月16日バリックパパン発。
1942年(昭和17年)8月24日第二次ソロモン海戦に参加。
1942年(昭和17年)9月5日トラック着。
1942年(昭和17年)9月10日トラック発。 諸訓練および哨戒。
1942年(昭和17年)9月23日トラック着。 燃料搭載。
1942年(昭和17年)10月11日トラック発。 機動部隊前衛。
1942年(昭和17年)10月26日南太平洋海戦に参加。
1942年(昭和17年)10月30日トラック着。
1942年(昭和17年)11月3日トラック発。
1942年(昭和17年)11月5日ショートランド着。
1942年(昭和17年)11月13日ショートランド発。
1942年(昭和17年)11月14日ガダルカナル島飛行場砲撃。
1942年(昭和17年)11月15日ショートランド着。
1942年(昭和17年)11月17日ショートランド発。
1942年(昭和17年)11月18日カビエン着。
1942年(昭和17年)12月2日カビエン発。
1942年(昭和17年)12月3日ショートランド着。
1942年(昭和17年)12月4日ショートランド発。
1942年(昭和17年)12月5日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)12月6日カビエン着。
1942年(昭和17年)12月12日カビエン発。 同日、ロレンゴウ着。
1942年(昭和17年)12月13日カビエン着。
1942年(昭和17年)12月14日カビエン着。
1943年(昭和18年)1月4日カビエン発。
1943年(昭和18年)1月6日トラック着。
1943年(昭和18年)1月7日トラック発。
1943年(昭和18年)1月12日呉着。
1943年(昭和18年)1月14日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)1月25日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)2月5日呉発。
1943年(昭和18年)2月10日トラック着。 訓練。
1943年(昭和18年)3月24日トラック発。
1943年(昭和18年)3月29日呉着。
1943年(昭和18年)4月27日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)5月2日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)5月20日徳山発。
1943年(昭和18年)5月21日横須賀に回航、 北方作戦待機。
1943年(昭和18年)5月30日横須賀発。
1943年(昭和18年)6月1日柱島に回航。
1943年(昭和18年)6月11日呉発。
1943年(昭和18年)6月13日横須賀に回航、
1943年(昭和18年)6月16日横須賀発。 第五防空隊輸送任務。
1943年(昭和18年)6月21日トラック着。
1943年(昭和18年)6月23日トラック発。
1943年(昭和18年)6月25日ラバウル着。 第五防空隊揚陸。 同日、ラバウル発。
1943年(昭和18年)6月27日トラック着。
1943年(昭和18年)7月9日トラック発。
1943年(昭和18年)7月11日ラバウル着。
1943年(昭和18年)7月18日ラバウル発。 クラ湾方面作戦行動。
1943年(昭和18年)7月20日ラバウル着。 訓練、整備作業。
1943年(昭和18年)10月8日ラバウル発。
1943年(昭和18年)10月10日トラック着。
1943年(昭和18年)10月17日トラック発。
1943年(昭和18年)10月19日ブラウン着。 警泊、待機。
1943年(昭和18年)10月23日ブラウン発。
1943年(昭和18年)10月28日トラック着。
1943年(昭和18年)11月3日トラック発。
1943年(昭和18年)11月5日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1943年(昭和18年)11月6日損傷した最上の護衛に従事。
1943年(昭和18年)11月8日トラック着。
1943年(昭和18年)11月24日トラック発。
1943年(昭和18年)11月26日ルオット着。
1943年(昭和18年)11月27日ルオット発。
1943年(昭和18年)11月28日ブラウン着。
1943年(昭和18年)11月29日ブラウン発。
1943年(昭和18年)11月30日ルオット着。 警泊。
1943年(昭和18年)12月3日ルオット発。
1943年(昭和18年)12月5日トラック着。
1943年(昭和18年)12月26日トラック発。 
1943年(昭和18年)12月27日カビエン輸送に従事したが、アメリカ機に発見され、反転。
1943年(昭和18年)12月28日トラック着。
1943年(昭和18年)12月29日トラック発。 再びカビエン輸送に従事。
1943年(昭和18年)12月31日カビエン着。 同日、カビエン発。
1944年(昭和19年)1月1日トラック着。 警泊、訓練。
1944年(昭和19年)2月1日トラック発。
1944年(昭和19年)2月4日パラオ着。 訓練、待機。
1944年(昭和19年)2月16日パラオ発。
1944年(昭和19年)2月21日リンガ泊地着。 以後、同方面で待機、訓練。
1944年(昭和19年)5月11日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)5月14日タウイタウイ着。
1944年(昭和19年)5月15日タウイタウイ発。
1944年(昭和19年)5月16日タラカン着。
1944年(昭和19年)5月17日タラカン発。 同日、タウイタウイ着。 待機。
1944年(昭和19年)6月13日タウイタウイ発。 
1944年(昭和19年)6月14日ギマラス着。
1944年(昭和19年)6月15日ギマラス発。
1944年(昭和19年)6月19日マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月22日中城湾着。
1944年(昭和19年)6月23日中城湾発。
1944年(昭和19年)6月25日呉着。
1944年(昭和19年)7月8日呉発。 陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)7月16日シンガポール着。 リンガ泊地回航。 待機。
1944年(昭和19年)10月18日リンガ泊地発。
1944年(昭和19年)10月20日ブルネイ泊地着。
1944年(昭和19年)10月22日ブルネイ泊地発。 栗田艦隊第二部隊に編入。
1944年(昭和19年)10月25日サマール島沖で被雷。 雷撃処分。
1944年(昭和19年)12月20日除籍

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p65
  2. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p84,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 12巻 重巡最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩.東京,光人社,1997,p84-91
  4. 東京地学協会.樺太地誌.大日本図書出版,1908,p24
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p40、41
  6. 福井静夫.海軍艦艇史(2)巡洋艦・コルベット・スループ.東京,ベストセラーズ,1980,p457-459
  7. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 12巻 重巡最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩.p110

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