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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第八潜水艦について

伊号第八潜水艦は巡潜3型潜水艦の2番艦である。

要目(1)(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型巡潜3型(伊七型)
建造所川崎造船所
水上排水量 ※12,231トン(基準)/2,525トン(常備)
水中排水量 ※13,583トン
垂線間長103.80m
全長109.30m
最大幅9.10m
喫水5.26m
主機艦本式1号甲10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特B型2基
蓄電池2号6型×480
出力11,200馬力(水上)/2,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:806トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員80名
兵装40口径十一年式14cm連装砲1基
九三式13mm連装機銃2基
八九式53cm魚雷発射管6門(艦首)
八九式魚雷20本
搭載能力
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他1945年(昭和20年)射出機を撤去、回天4基の搭載設備を設置?

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(5)

年月日履歴
1934年(昭和9年)9月29日伊号第八潜水艦と命名。 
1934年(昭和9年)10月1日川崎造船所において起工。 
1936年(昭和11年)7月20日進水。 
1938年(昭和13年)12月5日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 
1938年(昭和13年)12月15日第二潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 
1939年(昭和14年)3月21日戦隊と佐世保発。 北支方面に向かう。
1939年(昭和14年)4月2日有明湾着
1939年(昭和14年)8月6日戦隊と宿毛沖から南洋方面に向かう。
1939年(昭和14年)8月26日岸和田沖に帰着。
1939年(昭和14年)11月15日第二潜水戦隊は解隊。 第三潜水戦隊(第二艦隊)に編入。
1940年(昭和15年)3月26日戦隊と中城湾発。 南支方面に向かう。
1940年(昭和15年)4月2日高雄着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。
1940年(昭和15年)9月21日横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。
1941年(昭和16年)2月3日第三潜水戦隊司令官は将旗を「五十鈴」から当艦に移揚。 戦隊と高知沖から南洋方面に向かう。
1941年(昭和16年)3月1日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「五十鈴」に移揚。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)4月8日第三潜水戦隊司令官は将旗を「五十鈴」から当艦に移揚。 
1941年(昭和16年)4月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「五十鈴」に移揚。
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 艦の飛行機定数は九六式水上偵察機1機。 
1941年(昭和16年)10月2日第三潜水戦隊司令官は旗艦を潜水母艦「大鯨」から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「香取」に一時移揚。 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の隠密偵察、機動部隊不時着機人員収容を下令される。
1941年(昭和16年)11月11日第三潜水部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)11月20日第三潜水部隊はクェゼリンに到着、補給待機。
1941年(昭和16年)11月24日クェゼリンからハワイ方面に向かう。 
1941年(昭和16年)12月1日部隊はハワイの800浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月7日カウアイ島南方に到着、待機。 
1941年(昭和16年)12月8日部隊は開戦により、索敵を開始。 
1941年(昭和16年)12月13日ハワイ沖を撤収、クェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)12月24日クェゼリンに帰着、補給休養。 第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から特設潜水母艦「靖国丸」に移揚。
1942年(昭和17年)1月8日シアトル方面の偵察を下令される。 
1942年(昭和17年)1月10日アメリカ機動部隊がハワイ西方550浬において発見の報告により、第三潜水部隊は急遽出撃を下令される。 第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。
1942年(昭和17年)1月12日クェゼリンからハワイ方面に向かい、掃航索敵。 真珠湾の飛行偵察を下令される。 
1942年(昭和17年)1月20日真珠湾の飛行偵察を中止、アメリカ西岸に向かい、サンフランシスコの飛行偵察および同方面において海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)2月3日サンフランシスコ沖に到着したが、荒天が続き飛行偵察を断念し北上。
1942年(昭和17年)2月7日シアトル沖に到着、偵察と監視に当たる。 エウレカ砲撃は中止となる。 
1942年(昭和17年)2月10日シアトル沖を撤収、アラスカ南方を経て、呉に向かう。 荒天の浸水により、主機械掃除用ポンプのモーターが運転不能となり、補助電動機による推進で、途中5日間を行動。 
1942年(昭和17年)2月20日ミッドウェー北方700浬付近を通過、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)3月2日呉に帰着、入渠修理、整備休養。 第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。
1942年(昭和17年)4月10日第三潜水部隊は東京湾東方700浬付近のG散開線(北緯35度、東経161度付近)に進出、アメリカ機動部隊を警戒、掃航索敵を下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 部隊と呉から、G散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)4月18日対米艦隊作戦第三法発動を下令される。 部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 午後、部隊は敵方に進撃を下令され、16:30、18節で進撃。
1942年(昭和17年)4月19日第三潜水部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に退避した算大で、第三潜水部隊16:30、北緯34度以北を捜索し、敵情がなければK散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 23:00、部隊は20日22:00までにS散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)4月20日第三潜水部隊は12:00に、18:00までにS散開線に配備を下令され、次いで14:00速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃を下令される。 19:30、対米艦隊作戦第三法止めを下令されたが、第三潜水部隊は引き続き警戒にあたるよう下令される。
1942年(昭和17年)4月21日第三潜水部隊はG散開線(犬吠埼東方950浬)に到着、索敵。
1942年(昭和17年)4月23日乗艦中の第三潜水戦隊司令官三輪少将の発病により、撤哨して横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)4月26日横須賀に帰着、補給待機。 第三潜水戦隊司令は将旗を当艦から撤去。
1942年(昭和17年)4月29日後任の第三潜水戦隊司令は将旗を当艦に掲揚。 横須賀発、クェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)5月4日第三潜水部隊は13:00、アメリカ機動部隊の出現を警戒して、マーシャル北方300浬のM散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)5月5日第三潜水部隊は、N-5日頃までにミッドウェー・ハワイ間に配備、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。
1942年(昭和17年)5月6日M散開線に進出中の5:40、千歳航空隊のL3哨戒線担当機により、ルオットの45度400浬において誤爆され、至近弾により、電池の大部分が破損。 有毒ガスの発生と船体の損傷による浸水で、航行不能の損害を受け、クェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)5月7日クェゼリン着。 工作艦「明石」に横付け、応急修理。
1942年(昭和17年)5月9日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 修理のため内地に帰投を下令され、クェゼリンから呉に向かう。
1942年(昭和17年)5月16日呉に帰着、入渠修理。 
1942年(昭和17年)5月30日第三潜水戦隊(第六艦隊)から除かれる。 第五潜水戦隊(連合艦隊)に編入。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第五潜水部隊(第五潜水戦隊)に編入、内地において修理整備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月20日南西方面艦隊付属から除かれる。 第六艦隊付属に編入。 
1942年(昭和17年)9月1日先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦牒)に編入、南東方面部隊の作戦に協力を下令される。 南東方面部隊の作戦に協力を下令される。
1942年(昭和17年)9月15日呉からトラックに向かう。 第三潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)第一監視部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、インディスペンサブル海峡に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の適断を下令される。
1942年(昭和17年)9月22日トラックに到着、補給待機。 第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 
1942年(昭和17年)9月23日トラックからインディスペンサブル海峡に向かう。 
1942年(昭和17年)10月4日甲潜水部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、引き続き整備休養を下令される。 
1942年(昭和17年)10月5日敵機動部隊はインディスペンサブル礁西方に行動中と判断され、艦はインディスペンサブル礁西方のA散開線に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月7日インディスペンサブル礁南西方のA散開線につき、1S南方のB散開線との間を10日までに三往復して索敵。 
1942年(昭和17年)10月8日甲潜水部隊は、特命あるまで現任務続行を下令される。 
1942年(昭和17年)10月10日甲潜水部隊はC散開線(ABの中間)につき、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)10月11日甲潜水部隊は零時、C散開線からインディスペンサブル礁南東の甲散開線に向かい移動。
1942年(昭和17年)10月12日甲潜水部隊と1:00、甲散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)10月13日基地航室部隊の哨戒機はレンネル島南西70浬に、敵機動部隊の発見を報告、甲潜水部隊とレンネル島南東の丁散開線に移動を下令されて、北上
1942年(昭和17年)10月14日R方面航空隊の水上偵察機は、11:30、南緯11度30分、東経162度58分において、敵機動部隊の発見を報告。 甲潜水部隊はインディスペンサブル礁東方のD散開線に配備の変更を下令され、昼頃から移動。 
1942年(昭和17年)10月15日伊号第三潜水艦は18:42、南緯12度42分、東経162度58分において、北上中の敵機動部隊を発見、甲潜水部隊はE散開線(D散開線の60度70浬)に配備の移動を下令され、同夜移動。 
1942年(昭和17年)10月16日E散開に到着、東端において索敵哨戒。
1942年(昭和17年)10月18日伊号第百七十二潜水艦は、E散開に向かい移動中、南緯12度25分、東経163度28分において、戦艦1集、巡洋艦2隻ほかの敵艦隊を発見。 甲潜水部隊はインディスペンサブル礁東方のF散開線に配備を下令され、同夜移動。 
1942年(昭和17年)10月19日艦は朝、甲潜水部隊とF散開線に到着、索敵哨戒。 甲潜水部隊はY日(22日の予定)、ガダルカナル島総攻撃に応じて、Y−1日零時から南東方に掃航、己散開線(南緯17度50分、東経163度30分〜南緯16度10分、東経166度30分)に到達するよう下令される。 
1942年(昭和17年)10月20日Y日は22日と下令される。
1942年(昭和17年)10月21日甲潜水部隊と零時南東方に掃航、己散開線に向かう。 甲潜水部隊はY日の延期により、己散開線到達を1日遅らせ、G散開線においての待敵を下令される。
1942年(昭和17年)10月22日部隊と反転して、1:00、G散開線に到着、索敵哨戒。 R方面航空部隊の哨戒機は、南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦基幹の敵艦隊を発見。 甲潜水部隊は12:30、F1散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)10月23日Y日の1日延期を下令される。 部隊と反転、1:00、G散開線に到着、索敵哨戒。 Y日は更に1日延期を下令される。 甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、己散開線に向かったが、Y日の再延期により、H散開線に留まり待敵。
1942年(昭和17年)10月24日甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、己散開線に向かう。
1942年(昭和17年)10月25日敵艦隊はむ26日、ガダルカナル島南東海面に出現の算大と判断され、甲潜水部隊はインディスペンサブル礁南東のX散開線に配備を下令される。 艦は部隊と反転北上。
1942年(昭和17年)10月26日甲潜水部隊はサンタクルーズ諸島北方の敵航空母艦を攻撃のため、11:42、45度方向に水上進撃を下令される。 部隊と18:15以降、水上進撃に入ったため、追撃は間に合わず、敵機動部隊はエスピリッサントに帰投するものと判断。 同北方のばんくす諸島西方のJ2散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)10月27日部隊とJ2散開線に進出、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)10月31日甲潜水部隊から除かれ、先遣部隊直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、エファテ島の飛行偵察を下令される。 はエスピリッサント島西方からエファテに向かう。 
1942年(昭和17年)11月3日エファテ島の飛行偵察を行い、トラックに向かう
1942年(昭和17年)11月9日トラック着。 補給休養。
1942年(昭和17年)11月14日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。
1942年(昭和17年)11月27日第一潜水戦隊司令官は将旗をトラックの陸上から当艦に移揚。
1942年(昭和17年)11月29日先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する作戦輸送を下令される。 トラック発、ショートランドに向かう。
1942年(昭和17年)12月2日ショートランド着。 輸送準備。
1942年(昭和17年)12月4〜6日ショートランドからガダルカナル島カミンボに到着。 糧食21トンを揚陸した後、帰航。 潜航離脱の際、敵魚雷艇に追撃された。
1942年(昭和17年)12月8日ショートランド着。 輸送準備。
1942年(昭和17年)12月9日第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦からショートランド陸上に移揚。
1942年(昭和17年)12月10日糧食の他、陸兵30名を収容、ショートランドからガダルカナル島カミンボに向かう。
1942年(昭和17年)12月13日ガダルカナル島カミンボに到着したが、敵の警戒が厳重で揚陸に至らず、同島付近において奇襲、監視を下令され、索敵の後、帰投。
1942年(昭和17年)12月16日ショートランド着。 輸送できなかった糧食と陸兵を揚陸した後、トラックに向かう。
1942年(昭和17年)12月19日トラック着。 補給休養。
1943年(昭和18年)1月10日ケ号作戦に策応して、中部太平洋方面東方において、牽制作戦を実施するため、15日付け、東方牽制部隊を編成。 20日から月末まで、カントン島砲撃、マーシャル東方海面において敵艦船攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)1月11日先遣部隊(第六艦隊)指揮官は、当艦を東方牽制作戦に指定。 
1943年(昭和18年)1月12日作戦期間を2月10日までとし、潜水艦は23日頃、カントン島の砲撃実施を下令される。 
1943年(昭和18年)1月14日艦はトラックからカントン島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月15日南東方面部隊(南東方面艦隊)東方牽制部隊(第八戦隊)に編入され、カントン島の砲撃を下令される。 
1943年(昭和18年)1月16日24日、カントン島を砲撃、以後の状況に応じて反復砲撃、機に乗じて敵艦船攻撃を下令される。 目標は飛行諸施設、無線電信所。
1943年(昭和18年)1月23日22:30、カントン島飛行場を砲撃(41発)、効果不明。 
1943年(昭和18年)1月31日カントン島礁内の飛行艇母艦を砲撃(45発)、数発の命中弾を与えたが、敵機の制圧を受け退避。 
1943年(昭和18年)2月1日カントン島砲撃を報告、同島には有力な防御施設がないこと、以後の行動予定を報告。 フィジー、ハワイ間の海上交通破壊に向かう。
1943年(昭和18年)2月8日ケ号作戦の概成により、東方牽制部隊は編成を解かれ、艦は先遣部隊(第六艦隊)丙潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、サモア、フィジー方面の偵察、海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)2月11日サモアを潜航偵察。 
1943年(昭和18年)2月20日フィジーを潜航偵察。 
1943年(昭和18年)3月10日トラックに帰着、補給待機。 先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 
1943年(昭和18年)3月15日トラックから呉に向かう。 
1943年(昭和18年)3月21日呉に帰着、整備休養。 乗員は交代で湯田温泉に向かう。 
1943年(昭和18年)4月1日第六艦隊付属から除かれ、第十四潜水隊(第八潜水戦隊・第六艦隊)に加えられる。 
1943年(昭和18年)4月27日遣独任務を内示される。 
1943年(昭和18年)5月3日潜水艦長および通信長は、省都と打合せのため上京。 
1941年(昭和16年)5月4日遣独連絡艦に指定され、両国派遣人員の交替、機密兵器の交流、重要物資の交換等の任務を下令される。 先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の作戦を下令される。 
1943年(昭和18年)5月15日ドイツから譲渡される潜水艦の受取り要員が発令される。 
1943年(昭和18年)5月17日呉から杵築沖に向かう。 
1943年(昭和18年)5月19日〜20日杵築沖で伊号第十潜水艦と合同、燃料補給の訓練にあたる。
1943年(昭和18年)5月25日第十四潜水隊から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)5月26日呉に帰着、出撃準備。 
1943年(昭和18年)6月1日遣独要員、譲渡潜水艦回航要員を収容。 キニーネ、錫等の物資を搭載、呉から特設潜水母艦「浅香丸」および伊号第十潜水艦とともに、ペナンに向かう。 途中、佐伯湾に寄港、夕刻南下。 以後約40日間、艦内でドイツ語の講習が乗員に対して実施された。
1943年(昭和18年)6月10日この間途中で、日施潜航の際、錯誤によりメインタンクを損傷。 修理のためシンガポールに入港。 第百一工作部に入渠、修理。
1943年(昭和18年)6月11日便乗者は上陸して、シンガポールから列車でペナンに向かう。 
1943年(昭和18年)6月21日第百一工作部を出渠。 輸送物資等の搭載にあたる。
1943年(昭和18年)6月22日シンガポールからペナンに向かう。
1943年(昭和18年)6月24日ペナンに到着、補給待機。 乗員中、水偵搭乗員、整備員等6名は残留のため退艦。 便乗者、回航員等を収容。 
1943年(昭和18年)6月27日17:00、伊号第十潜水艦とペナンからインド洋に向かう。 
1943年(昭和18年)6月30日4:00、東経90度40分において赤道を越え、アフリカ南方に向かう。 
1943年(昭和18年)7月1日南緯4度53分、東経87度20分において伊号第十潜水艦から、燃料115トンの補給を受ける。
1943年(昭和18年)7月5日マダガスカル島東方の南緯23度25分、東経75度15分において、伊号第十潜水艦から、燃料80トンの補給を受ける。 同艦と解列し、大西洋に向かう。
1943年(昭和18年)7月11日ロアリング・フォーティーズ(Roaring Forties)[註]に入る。 波浪が艦橋を叩き、配水管に逆流、水上航行が潜航に近い状態となる。
1943年(昭和18年)7月14日荒天による波浪のため、左舷格納庫付近の外板を流出、大破孔があき、激浪が飛行機格納筒を直撃、荒天下でワイヤーロープを巻付け、応急の補強措置に当たるなど難航。 敵の飛行哨戒圏を横切り、北西に向かう。 
1943年(昭和18年)7月19日進路を270度から300度に転針。
1943年(昭和18年)7月21日荒天帯を抜け、大西洋を北上。
1943年(昭和18年)7月23日ドイツ海軍との連絡に成功。 行き先をロリアンからブレストに変更し、会合点は8月20日頃、大西洋北部とされ、引き続き北上。
1943年(昭和18年)7月27日セントヘレナ島西方を通過、北上。
1943年(昭和18年)7月29日ドイツ海軍から会合点をアゾレス諸島南西海面と指定され、ドイツ潜水艦U181号から逆探知装置を受け取り、仮装備。 ビスケー湾に突入と指示される。 
1943年(昭和18年)8月1日赤道を通過。 会合点到着予定を11日と通報。
1943年(昭和18年)8月5日ドイツ潜水艦の都合により、会合日を18日以降とされ、以後、速度を落として進行。
1943年(昭和18年)8月15日会合日を20日と決定され、指定海面に向かう。
1943年(昭和18年)8月20日アゾレス諸島南西方の指定点において、ドイツ潜水艦U161号と会合。 ドイツ連絡将校を収容、天候の回復を待ち、待機。
1943年(昭和18年)8月21日ドイツ潜水艦から逆探知装置を移載、本来の逆探は撤去収納。 ドイツ海軍の操作員2名を収容、ビスケー湾に向かう。
1943年(昭和18年)8月23日以後、充電時のほか、昼夜とも潜航して進航。 
1943年(昭和18年)8月27日スペイン沿岸で艦位を確認、ビスケー湾に入る。 
1943年(昭和18年)8月29日同夜、オルテガ岬沖を潜航して通過。 この間、ドイツ空軍は敵哨戒部隊に集中攻撃を加え、艦の進航を掩護。 
1943年(昭和18年)8月30日7:45、北緯44度3分、西経4度54分において、ドイツ海軍の水雷艇3隻と、上空哨戒機の出迎えを受け、ブレストに向かう。 
1943年(昭和18年)8月31日ブレスト付近からドイツ掃海艇2隻に先導され、機雷原を避けて天明時、ブレスト港口に到着。 在ドイツの江見中佐と藤森少佐か出迎え、ドイツ潜水艦長の案内で、港内のブンカーに入る。 以降、乗員はドイツ海軍の宿舎、シャトーメフの保養所で休養。 パリ市内を見物等。 艦の幹部はパリ経由でベルリンを訪問し、カール・デーニッツ海軍総司令官と面会した。
1943年(昭和18年)9月12日先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)から除かれる。 南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入され、現任務続行を下令される。 
1943年(昭和18年)9月乗員全員が帰艦。 爆撃照準機、航空機用機銃、魚雷艇内火機械等の兵器と図面の搭載にあたる。 魚雷艇エンジンは水上偵察機格納筒に収容した。
1943年(昭和18年)10月返礼の招待宴を開き、ドイツ海軍の歓迎に答えた。 
1943年(昭和18年)10月5日便乗者5名を収容、15:30ブレストを出航。 港外からドイツ海軍艦艇の護衛を受け、暗夜のビスケー湾を南下した。 
1943年(昭和18年)10月6日天明後、ドイツ艦艇と解列、スペイン沿岸に達したのち、オルテガ岬、フェステル岬を迂回、大西洋を南下した。 
1941年(昭和16年)10月9日アゾレス諸島のアメリカ軍飛行艇の哨戒圏を避け、南寄りに南下。 
1943年(昭和18年)10月17日最大の危険水域を抜け、日施潜航のほかは、片舷機11節の水上航行で南下。 
1943年(昭和18年)10月26日赤道を通過、その旨をドイツ海軍に通報。 そのため英軍哨戒機を発見したので、退避してアセション島から離脱を図った。 
1943年(昭和18年)10月27日天明後間もなく、敵機を発見、潜航したが爆撃され、至近弾により電池の三分の一を破損、その他の装置に故障を生じたが、応急措置で復旧。 以後2日間は潜航して南下。 
1943年(昭和18年)11月8日南緯37度、東経6度付近において、大型客船を発見追跡したが、日英居留民の交換船で、攻撃できなかった。 
1943年(昭和18年)11月11日ロアリング・フォーティーズ(Roaring Forties)に入ったが、追い風となり、往路ほどの困難はなく、水上11節で航行。 
1943年(昭和18年)11月18日第八潜水戦隊司令官から、マラッカ海峡は敵潜水艦の侵入で危険なため、ペナン寄港を取り止め、シンガポールに直航を下令され、スンダ海峡に向かった。
1943年(昭和18年)11月29日スマトラ南方500浬に到達、北上。 
1943年(昭和18年)12月2日スンダ海峡を経て、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)12月5日シンガポールに到着、便乗者を揚陸、補給休養。 潜水艦長は第一南遣艦隊参謀長黒島亀人大佐を訪問。 潜水艦長は空路ペナンまで往復、第八潜水戦線司令官に報告。
1941年(昭和16年)12月10日シンガポールから呉に向かう。 
1943年(昭和18年)12月20日呉に到着、輸送物件を揚陸。 
1943年(昭和18年)12月23日潜水艦長は報告のため上京。 
1943年(昭和18年)12月24日〜28日潜水艦長は軍令部、海軍省に出頭、報告。 
1943年(昭和18年)12月29日呉から玉野に回航、入渠修理、整備休養。 乗員は交替で有馬温泉に向かう。 
1944年(昭和19年)2月11日出渠。 玉野から呉に回航。
1944年(昭和19年)2月13日呉発。 内海西部で訓練。
1944年(昭和19年)2月15日別府着。 待機。
1944年(昭和19年)2月16日別府から呉に回航。 出撃準備。
1944年(昭和19年)2月19日呉から関門海峡を経て五島列島で仮泊。 
1944年(昭和19年)2月20日出港。 台湾海峡を経てペナンに向かう。
1944年(昭和19年)3月3日ペナン着。 補給待機。
1944年(昭和19年)3月19日ペナンからインド洋方面の海上交通破壊に向かう。
1944年(昭和19年)3月26日モルディブ諸島東南方の南緯2度30分、東経78度40分において、オランダ貨物船「ティラサック(Tjisarak、5,787トン)」を雷撃により撃沈。
1944年(昭和19年)3月30日水上偵察機を発進させ索敵、チャゴス諸島南東方の南緯12度01分、東経80度27分において、イギリス貨物船「シティ・オブ・アデレード(CityOfAdelaide、6,589トン)」を砲雷撃で撃沈。
1944年(昭和19年)4月16日アッドゥ環礁付近で帆船1隻を発見、銃撃ののち横付けして乗り込み、玉葱を発見。砲撃により撃沈。
1944年(昭和19年)5月5日ペナンに帰着、補給休養。 
1944年(昭和19年)6月10日ドイツから回航の呂号第五百一潜水艦に対する燃料補給および、インド洋における海上交通破壊を下令される。 
1944年(昭和19年)6月19日〜20日ペナンからサバンに回航、徹夜で燃料を搭載。 
1944年(昭和19年)6月21日未明に、サバン港外において敵潜水艦と遭遇、離脱できたと判断して浮上したところ、雷撃を受けた。 回避して被害はなく、マダガスカル島東方に向かう。 
1944年(昭和19年)6月29日チャゴス諸島東方の南緯07度51分、東経75度20分?において、イギリス貨物船「ネルール(Nellore、6,942トン)」を砲雷撃で撃沈。
1944年(昭和19年)7月2日チャゴス諸島東方の南緯03度28分、東経74度30分?において、アメリカ貨物船「ジーン・ニコレット(JeanNicolet、7,174トン)」を発見し、砲雷撃により撃沈したが、敵駆潜艇の制圧を長時間受け、潜航不能となって浮上した。 敵駆潜艇は近くにいたが、スコールの中に逃げ込み、離脱した。 
1944年(昭和19年)7月アラビア海に入ったが、漏油の疑いがあり、アデン湾への侵入を断念して、呂号第五百一潜水艦との会合点に向かった。 
1944年(昭和19年)7月第一次会合点に到着、3日間待機したが、呂号第五百一潜水艦は現れず、第二次会合点に向かう。 
1944年(昭和19年)7月第二次会合点に到着、数日間待機したが、呂号第五百一潜水艦は現れず、会合を断念して索敵東進。 
1944年(昭和19年)8月搭載水偵を発進させ、漏油がひどいことを確認、帰航。 
1944年(昭和19年)8月15日ペナンに帰着、補給整備。 
1944年(昭和19年)9月15日内地に帰投、修理を下令される。 
1944年(昭和19年)9月20日ペナンから横須賀に向かう。 
1944年(昭和19年)9月21日シンガポールに寄港したが、防諜のため乗員は上陸禁止。 
1944年(昭和19年)9月23日シンガポールから内海西部に向かう。 
1944年(昭和19年)9月台湾海峡で敵潜水艦に遭遇、潜航回避ののち、攻撃を図ったが捕捉できなかった。 
1944年(昭和19年)9月台風に遭遇、機械故障のために履門に寄港、数時間在泊して夜中に修理に当たる。 
1944年(昭和19年)10月7日呉着。 輸送物件を揚陸ののち、紀伊水道を経て横須賀へ。 
1944年(昭和19年)10月9日横須賀着。 入渠修理。 
1944年(昭和19年)11月5日第八潜水戦隊から除かれる。 第六艦隊編入。南西方面部隊(南西方面艦隊)から除かれる。先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、内地において修理整備を下令される
1945年(昭和20年)2月12日〜14日横須賀から呉に回航。 補給待機。
1945年(昭和20年)2月25日呉から内海西部に出て、訓練にあたる。
1945年(昭和20年)3月13日呉に入港、補給と出撃準備。
1945年(昭和20年)3月17日先遣部隊は、近く南西諸島方面に来航する敵に対し、待機を下令される。 天一号作戦要領が下令される。 先遣部隊甲潜水部隊に編入、18日出撃、南西諸島方面の配備につくよう下令される。 呉から佐伯湾に移り、待機。
1945年(昭和20年)3月18日潜望鏡の故障で出撃が遅れ、応急修理にあたる。
1945年(昭和20年)3月20日佐伯湾から九州南東海面に向かう。
1945年(昭和20年)3月22日甲潜水部隊と南西諸島南東海面に進出を下令される。
1945年(昭和20年)3月23日甲潜水部隊と沖縄南東約200浬付近の敵機動部隊所在海面に進出を下令される。
1945年(昭和20年)3月28日敵情報告ののち、消息を絶つ。
1945年(昭和20年)3月30日甲潜水部隊と沖縄周辺の敵艦船攻撃を下令される。 アメリカ軍資料によれば沖縄本島中城湾南東50浬付近において、アメリカ駆逐艦「ストックトン(Stockton)」および「「モリソン(Morrison)」と交戦ののち沈没。
1945年(昭和20年)4月15日沖縄方面水域で亡失認定。 
1945年(昭和20年)8月10日除籍。

注記

  1. 南緯40度から50度にかける海域の俗称。 「吠える40度」とも呼ばれる。 このように呼ばれる理由は、この海域では西寄りの卓越風が吹いているからである。 この風を弱める陸地が少ないため、この風は南半球で特に強い。 その中でもインド洋南部では特に強い。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p57,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p12
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p15
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p319-332