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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第十一潜水艦について

伊号第十一潜水艦は巡潜甲型(伊九型)の3番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型甲型(伊九型)
建造所川崎造船所艦船工場
水上排水量 ※12,434トン(基準)/2,919トン(常備)
水中排水量 ※14,150トン
垂線間長108.4m
全長113.70m
最大幅9.55m
喫水5.36m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特6型2基
蓄電池2号6型×480
出力12,400馬力(水上)/2,400馬力(水中)
速力23.5ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:928トン
航続力16ノットで16,000浬(水上)/3ノットで90浬(水中)
乗員100名
兵装九六式25mm連装機銃2基
九五式53cm魚雷発射管門(艦首)
九五式魚雷18本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1940年(昭和15年)4月10日第百三十八号艦として、川崎重工業艦船工場において起工。 
1941年(昭和16年)2月5日伊号第十一潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 
1941年(昭和16年)2月28日進水。 
1942年(昭和17年)5月16日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 艦の飛行機定数は、零式水偵1機と定める。 第三潜水戦隊(第六艦隊・連合艦隊)に編入。 戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、内海西部において訓練整備の上、内南洋方面に進出を下令される。 神戸発、内海西部に向かい訓練。 
1942年(昭和17年)5月呉に入港、補給、出撃準備。 
1942年(昭和17年)6月7日呉発、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)6月16日クェゼリンに進出、補給待機。 
1942年(昭和17年)6月17日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 
1942年(昭和17年)6月20日第三潜水部隊は、オーストラリア東岸ほかの敵海上交通破壊および、SN作戦に協力支援を下令される。 
1942年(昭和17年)7月1日シドニーを通じる東西線以南の沿岸において行動を下令される。 
1942年(昭和17年)7月8日クェゼリン発、オーストラリア東岸に向かう。 
1942年(昭和17年)7月20日シドニー付近に進出、索敵哨戒。 22:01、ジャービス湾東方の南緯35度00分、東経151度00分において、ギリシャ貨物船「ジョージ・S・リヴァノス(GeorgeS.Livanos、5,882トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月21日1:04、ジャービス湾東方の南緯35度23分東経151度00分において、アメリカ貨物船「コースト・ファーマー(CoastFarmer、3,290トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月22日0445、ツーフォルド灯台沖10浬付近の南緯36度47分東経150度16分において、アメリカ貨物船「ウィリアム・ドーズ(WilliamDawes、7,176トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月26日以降、南緯35度以南において、敵海上交通破壊に当たる。 
1942年(昭和17年)7月27日南緯38度、東経150度付近において、オーストラリア貨物船「クーラナ(Coolana、2,197トン)」を雷撃したが、効果がなかった。 戦果報告は撃沈。 
1942年(昭和17年)7月31日1:50、エバーラード灯台215度25浬において、9,000トン級商船1隻を雷撃、撃沈と報告。 
1942年(昭和17年)8月1日バス海峡から撤収、トラックに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)8月7日第三潜水部隊は、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、外南洋部隊(第八艦隊)に編入、アメリカ軍のソロモン反攻に対する作戦に従事。 艦は、搭載魚雷消耗のため、引き続き、トラックに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は、南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月11日トラックに帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)8月13日第三潜水部隊はガダルカナル島方面の監視、敵艦隊攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)8月20日トラック発、ガダルカナル島方面に向かう。 
1942年(昭和17年)8月21日第三潜水部隊は、南東方面部隊(第十一航空艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)に復帰、ソロモン諸島方面の敵艦船攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日第三潜水部隊は、レンネル島西方のB散開線(南緯12度20分、東経159度20分〜158度20分)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月24日第三潜水部隊は、サンクリストバル島南方のF散開線(南緯12度20分、東経162度〜163度)に、急速配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月25日戦場整理のため、日没に至るまで敵を見ない場合には、第三潜水部隊はF2散開線(南緯13度、東経162度40分〜161度40分)に配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)8月26日旗艦潜水艦の被爆損傷のため、南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)8月27日部隊とF2散開線に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)8月31日第三潜水部隊は、H散開線(南緯11度08分、東経164度52分〜南緯12度20分、東経163度)に、配備の変更を下令される。 艦は、ツラギの158度146浬において、敵10,000トン級貨物船を攻撃、撃沈概ね確実と報告。 
1942年(昭和17年)9月3日戦隊主力(当艦)は、サンクリストバル島南方において、第一潜水部隊も指揮した。
1942年(昭和17年)9月6日インディスペンサブル礁110度135浬において、空母1、巡洋艦2、駆逐艦多数の敵部隊を発見、空母を攻撃したが効果がなく、敵艦の爆雷攻撃を受け損傷、潜航不能の状態となり、トラックに向かう。 旗艦潜水艦(当艦)の損傷離脱のため、南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第三潜水戦隊司令官から第一潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)9月7日北上中、敵飛行艇の攻撃を受けた。 
1942年(昭和17年)9月11日トラックに帰着、応急修理。 
1942年(昭和17年)9月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1942年(昭和17年)9月15日トラック発、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)9月22日呉に帰着、入渠修理、休養。 
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地において修理整備に従事。 
1942年(昭和17年)12月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 
1943年(昭和18年)1月9日呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)1月15日トラックに到着、補給待機。 
1943年(昭和18年)1月18日先遣部隊甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、ケ号作戦を支援のため28日黎明時までに甲散開線につき、ガダルカナル島南東海面において、敵艦船の攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)1月19日トラック発、ガダルカナル島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)1月23日サンクリストバル島東方に進出、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)1月28日甲潜水部隊とガダルカナル島南東方の甲散開線につく。 
1943年(昭和18年)2月7日ケ号作戦の終了により、甲潜水部隊は18:00発動、150度方向に索敵進出、ニューカレドニア島南部において、約10日間、敵艦船を攻撃ののち、トラックに帰投を下令される。 この間、適宜ヌーメアの飛行偵察を下令される。 8:00、南下中の敵空母を雷撃したが、発射直前の錯誤により、魚雷は艦底を通過、効果がなかった。
1943年(昭和18年)2月21日22:45発進、ヌーメアを飛行偵察。 港内に敵戦艦2、空母1、輸送船2在泊、泊地に戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船3、泊地外に輸送船4と在泊を報告。 市街北方に飛行場、ピカード岬西に水上機基地らしきもの、いずれも所在機なく、灯火管制なしと報告。 
1943年(昭和18年)3月1日チェスターフィールドを飛行偵察。 揚収時、水偵を破損。 
1943年(昭和18年)3月10日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)3月14日先遣部隊甲潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オーストラリア東方海域に出撃を下令される。 
1943年(昭和18年)4月2日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1943年(昭和18年)4月10日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 第三潜水部隊とトラック発、オーストラリア東岸に向かう。
1943年(昭和18年)5月10日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)5月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1943年(昭和18年)6月25日先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、ニューカレドニア方面に出撃を下令される。
1943年(昭和18年)7月1日トラック発、ニューカレドニア方面に向かう。 
1943年(昭和18年)7月20日16:41、エスピリッサント島280度200浬において、オーストラリア巡洋艦「ホバート(Hobart)」を雷撃、魚雷2本を命中させ撃破。 報告はサンフランシスコ型巡洋艦1、駆逐艦3を襲撃、命中3本。 巡洋艦は撃沈と推定。 
1943年(昭和18年)7月25日0:10、ヌーメアを飛行偵察。 ダンペアに巡洋艦2、駆逐艦3、輸送船3在泊、ヌーメア泊地に巡洋艦2、駆逐艦3、輸送船3在泊、ヌーヌア港に巡洋艦4、駆逐艦1、輸送船1在泊と報告。 
1943年(昭和18年)8月11日ヌーメア南方の南緯22度30分、西経165度59分において、アメリカ貨物船「マシュー・リヨン(MatthewLyon、7,176トン)」を撃により撃破。 
1943年(昭和18年)9月13日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)9月15日第三潜水戦隊は解隊。 艦は、第一潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 艦は、引き続き、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地に帰投、修理整備を下令される。 
1943年(昭和18年)9月18日トラック発、呉に向かう。 
1941年(昭和16年)9月25日呉に帰着、入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)12月3日呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)12月10日トラックに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)12月18日引き続き、先遣部隊第一潜水部隊に編入、第二戦区において、敵艦船攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)12月19日第二戦区(主として、エリス、サモア、フィジー、トンガ)において敵艦船攻撃のほか、1月中旬までに、フナフチの飛行偵察を下令される。 
1943年(昭和18年)12月21日トラック発、エリス諸島に向かう。 
1943年(昭和18年)12月31日フナフチ島を潜航偵察。 
1944年(昭和19年)1月1日フナフチ島偵察の結果、戦艦等の在泊を報告、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)1月11日フナフチの飛行偵察は2月上旬に延期し、エリス、サモア方面において、敵艦船攻撃を下令される。
1944年(昭和19年)1月15日第一潜水戦隊(第六艦隊)は解隊、艦は第六艦隊に編入。
1944年(昭和19年)3月20日南太平洋方面水域において亡失認定。 
1944年(昭和19年)4月30日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p60,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p132
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p662-666