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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第二十七潜水艦について

伊号第二十七潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の8番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
建造所佐世保工廠
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特5型2基
蓄電池2号5型×240
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1939年(昭和14年)7月5日第百四十号艦として、佐世保海軍工廠において起工。 
1940年(昭和15年)4月1日伊号第二十九潜水艦と命名。 
1940年(昭和15年)6月6日進水。 本籍を呉鎮守府と定める。 
1941年(昭和16年)11月1日伊号第二十七潜水艦と改名。 
1942年(昭和17年)2月24日竣工。 第十四潜水隊(第六艦隊付属)に編入、戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)付属部隊(第十四潜水隊司令指揮)に編入され、内海西部において就役訓練に従事を下令される。 佐世保発、内海西部に向かう。 
1942年(昭和17年)3月10日第十四潜水隊は、第六艦隊付属から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)3月20日内海西部において、甲標的との訓練に当たる。 
1942年(昭和17年)3月31日隊は、先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第十四潜水隊司令指揮)に編入、敵主要艦隊の捜索、攻撃および、敵海上交通被壊を下令される。 作戦予定地域は未定。 
1942年(昭和17年)4月10日隊は、先遣部隊(第六艦隊)東方先遣支隊(第三潜水隊司令指揮)に編入、MO作戦に協力、要地偵察ほかを下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日呉発、広島湾において待機。 
1942年(昭和17年)4月16日隊は東方先遣支隊と、広島湾発、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)4月18日対米国艦隊作戦第三法を下令される。 アメリカ機動部隊が本土を空襲。 隊は、東方先遣支隊と、邀撃のため、小笠原北方を経て、50度方向に索敵掃航を下令される。 
1942年(昭和17年)4月19日隊は、東方先遣支隊と、第八潜水戦隊司令官の指揮下に、J散開線(東経147度)を経て、L散開線(東経160度)に向かい、索敵掃航を下令される。 隊は、東方先遣支隊と、夕刻、原任務に復帰を下令される。 隊は、東方先遣支隊と、転針、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)4月20日対米国艦隊作戦第三法止めを下令される。 
1942年(昭和17年)4月24日トラックに到着、補給待機。 
1942年(昭和17年)4月27日トラック発、ブリスベーンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月3日ブリスベーン沖に進出、監視配備につく。 
1942年(昭和17年)5月10日MO作戦(ポートモレスビー攻略)は中止となり、トラックに帰投を下令され、北上。 
1942年(昭和17年)5月11日ブーゲンビル島西岸のクインカロラにおいて、甲標的を搭載する予定を変更され、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)5月17日トラックに帰着、千代田から甲標的(搭乗員中馬兼四大尉、大森猛一等兵曹)を搭載、補給、出撃準備。 
1942年(昭和17年)5月18日僚艦2隻とトラック発、オーストラリア方面に向かう。 
1942年(昭和17年)5月24日伊号第二十九潜水艦の報告により、先遣部隊指揮官は、東方先遣支隊に対し、攻撃をシドニーに集中するよう下令される。 艦は僚艦2隻と、シドニーに向かう。 
1942年(昭和17年)5月26日東方先遣支隊は、18:00、31日夜、シドニー攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)5月30日僚艦とシドニー沖着、待機。 
1942年(昭和17年)5月31日インナーサウスヘッドの90度7浬において、16:28、甲標的を発進させ、以後、湾口付近において待機。 中馬艇は湾口西側入口付近において、防潜綱にかかり、進退の自由を失い自爆。 搭乗員2名は戦死と認定され、各二階級特進。 
1942年(昭和17年)6月1日甲標的の収容予定地点において待機、捜索に当たる。 
1942年(昭和17年)6月3日隊は未明、甲標的搭乗員の収容捜索を打切り、敵海上交通破壊に移る。 艦は、メルボルン方面の敵海上交通破壊に当たり、6月25日までに、クェゼリンに帰投を下令される。 シドニー沖からバス海峡に向かう。
1942年(昭和17年)6月4日ガホンインセル南東方45浬において、オーストラリア貨物船「バーロン(Barwon、4,239トン)」を雷撃により撃破。 次いで、ホー岬南東25浬の南緯38度17分、東経149度44分において、 オーストラリア貨物船「アイアン・クラウン(IronCrown、3,353トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)6月12日メルボルン南方から撤収、ニューカレドニア東方を経て、クェゼリンに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)6月25日クェゼリンに帰着、補給休養。 先遣部隊東方先遣支隊は編成を解かれる。 隊は、先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)7月17日クェゼリン発、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)7月24日呉に帰着、整備休養。 
1942年(昭和17年)7月28日オマーン湾(ペルシャ湾口)に配備され、極力敵通商破壊をおこなうよう下令される。 以後、先遣部隊指揮官の直率 と推定されるが、軍隊区分については不詳。 
1942年(昭和17年)8月15日6:00、呉発、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)8月24日ペナンに到着、補給待機。 
1942年(昭和17年)8月29日ペナン発、ベンガル湾方面の敵海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)9月5日故障のため、帰投を下令され、反転、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)9月7日敵輸送船を雷撃したが、効果がなかった。 
1942年(昭和17年)9月11日ペナンに帰着、同日発、航空部隊の訓練に協力したのち、シンガポールに回航。 
1942年(昭和17年)9月13日シンガポールに帰着、第百一工作部に入渠、修理。 
1942年(昭和17年)出渠。 補給待機。
1942年(昭和17年)10月1日シンガポール発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)10月3日ペナン着、出撃準備。 
1942年(昭和17年)10月4日ペナン発、アラビア海北部に向かう。 海上交通破壊。
1942年(昭和17年)10月22日アラビア海北部の北緯21度37分、東経60度06分?において、イギリス貨物船「オーシャン・ビンテージ(OceanVintage、7,174トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)11月7日ペナンに帰着、待機。 
1942年(昭和17年)11月9日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1942年(昭和17年)11月10日シンガポールに到着、整備休養。 
1942年(昭和17年)11月27日シンガポール発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)11月28日ペナン着、待機。 
1942年(昭和17年)11月29日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南西方面部隊(南西方面艦隊)馬来部隊主隊(第一南遣艦隊司令長官指揮)に編入、ベンガル湾方面の敵海上交通破壊を下令される。 ペナン発、ベンガル湾の敵海上交通破壊に向かう。 
1943年(昭和18年)1月ナーシマ河口において、敵砲艦1を発見。 
1943年(昭和18年)1月12日ペナンに帰着、待機。 
1943年(昭和18年)1月27日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)1月28日シンガポールに到着、入渠修理、整備休養。 
1943年(昭和18年)2月5日隊は、南西方面部隊馬来部隊(第一南遣艦隊)から除かれ、同潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)2月18日シンガポール発、ペナンに向かう。 
1943年(昭和18年)2月19日ペナン着、待機。 
1943年(昭和18年)2月26日ペナン発、ベンガル湾南方に向かう。 
1943年(昭和18年)3月8日17:03、マルディブ諸島東方において、武装商船(10,000トン級)を追跡、雷撃(3本)したが、効果がなかった。
1943年(昭和18年)3月20日北緯10度00分、東経71度00分付近において、イギリス貨物船「フォート・マムフォード(FortMumford、7,132トン)」を雷撃により撃沈。
1943年(昭和18年)3月24日19:45、チャゴス諸島北西において、大型輸送船を発見、追跡。 
1943年(昭和18年)3月25日7:45、大型輸送船を雷撃(1本)したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)4月3日北緯21度02分、東経69度13分において、アメリカ船「スチール・エンジニア(SteelEngineer、5687トン)を雷撃したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)4月9日北緯16度40分、東経73度03分において、アメリカ船「アメリカン・ビルダー(AmericanBuilder、6900トン)を雷撃したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)4月17日艦は、南西方面部隊(南西方面艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)4月19日ペナンに帰着、補給休養。 
1943年(昭和18年)5月1日ペナン発、インド南方から、ペルシャ湾方面に向かう。 
1943年(昭和18年)5月7日マルディブ諸島東方の北緯03度40分、東経75度20分において、オランダ貨客船「ベラキット(Berakit、6,608トン)」を砲雷撃により撃沈。 
1943年(昭和18年)5月10日マルディブ諸島東方の北緯8度20分、東経67度55分において、イギリス船「バロンインチケープ」を雷撃したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)5月26日マルディブ諸島東方の北緯3度40分、東経76度31分において、アメリカ船「アイラスパルマー」を雷撃したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)6月3日アラビア南岸の北緯17度54分、東経58度09分において、アメリカ貨物船「モンタナン(Montanan、4,897トン)」を雷撃により撃沈。
1943年(昭和18年)6月24日マスカット付近の北緯05度13分、東経58度02分において、イギリス輸送船「ブリティッシュ・ベンチャー(BritishVenture、4,696トン)」を雷撃により撃沈。 
1943年(昭和18年)6月28日マスカット港内において、4:05、ノルウェー貨物船「ダー・フー(DahPuh、1,974トン)」を雷撃により撃沈。
1943年(昭和18年)7月5日マスカット付近の北緯24度21分、東経59度04分?において、アメリカ貨物船「アルコア・プロスペクター(AlcoaProspector、6,797トン)」を、雷撃により撃破。 アラビア沿岸を撤収、ペナンに向かう。 
1943年(昭和18年)7月14日ペナンに帰着、待機。 
1943年(昭和18年)7月21日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)7月23日シンガポールに到着、入渠修理、整備休養。 
1943年(昭和18年)8月17日シンガポール発、ペナンに回航。 
1943年(昭和18年)8月19日ペナンに到着、待機。 
1943年(昭和18年)8月29日ペナン発、インド南方に向かう。 
1943年(昭和18年)9月7日マルディブ諸島東方の北緯03度30分、東経75度00分において、アメリカ貨物船「ライマン・スチュワート(LymanStewart、7,176トン)」を、雷撃により大破。 
1943年(昭和18年)9月10日マルディブ諸島東方の北緯07度38分、東経74度00分において、イギリス貨物船「ラーチバンク(Larchbank、5,151トン)」を雷撃により撃沈。 
1943年(昭和18年)9月12日第八潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に部署され、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)9月24日ペナンに帰着、待機。 
1943年(昭和18年)9月25日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)9月26日シンガポールに到着、整備休養。 
1943年(昭和18年)10月10日シンガポール発、ペナンに回航。 
1943年(昭和18年)10月11日ペナンに到着、待機。 
1943年(昭和18年)10月19日ペナン発、アラビア沿岸に向かう。 
1943年(昭和18年)10月30日マクヌゲ島を偵察。 
1943年(昭和18年)10月31日マルコルアトールを偵察。 
1943年(昭和18年)11月10日紅海入口のペサム泊地の偵察に当たる。 北緯12度28分、東経43度31分において、イギリス貨物船「サムボ(Sambo、7,219トン)」雷撃により撃沈。 次いで、アメリカ船「サンフレード」を雷撃したが、効果なし。 
1943年(昭和18年)11月12日ジブチ東方から北方の索敵に当たる。 
1943年(昭和18年)11月15日ジブチ付近からアラビア海に向かう。 
1943年(昭和18年)11月16日北緯10度47分、東経59度54分において、イギリス船「トルナス(7,176トン)」を雷撃したが、効果がなかった。 
1943年(昭和18年)11月18日再び紅海入口に戻り、北緯11度25分、東経47度25分においてイギリス貨物船「サムリッジ(Samridge、7,176トン)」を雷撃に撃沈。
1943年(昭和18年)11月27日セリム、ペリムの両泊地を偵察。 
1943年(昭和18年)11月29日アデン湾の北緯12度23分、東経44度00分において、ギリシャ貨物船「アティナ・リヴァノス(AthinaLivanos、4,824トン)」を雷撃により同船を撃沈
1943年(昭和18年)12月2日アデン湾方面の北緯11度42分、東経45度32分?において、ギリシャ貨物船「ニッツァ(Nitsa、4,732トン)」を雷撃により撃沈。
1943年(昭和18年)12月3日アデン湾方面の北緯11度23分、東経46度03分において、イギリス貨物船「フォート・カモスン(FortCamosun、7,126トン)」を雷撃により撃破。
1943年(昭和18年)12月15日第十四潜水隊は解隊。 艦は第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)12月17日ペナンに帰着、整備休養。 
1944年(昭和19年)2月4日ペナン発、インド南方から、アラビア海方面に向かう。 朝日新聞社報道員が乗艦。
1944年(昭和19年)2月12日9:00(現地時間)マルディブ諸島西方の北緯0度57分、東経72度16分?において、イギリス輸送船団を攻撃、イギリス貨物船「カディーブ・イスマイル(KhediveIsmail、7,513トン)」を撃沈。 護衛のイギリス駆逐艦「ペタード(Petard)」、同「パラディン(Paladin)」の爆雷攻撃を受けたが、被害はなかった。 イギリス巡洋艦「ホーキンス(Hawkins)」は、パラディンに救助を命じ、ペタードに引き続き探知させた。 11:15、パラディンは浮上した伊二十七をレーダーで探知。 潜航した伊二十七を爆雷攻撃。 至近距離に再び浮上した伊二十七を、両駆逐艦は猛烈に砲撃、パラディンは至近から爆雷投下を試み、伊二十七に激突、機関室に浸水したため離脱。 ベタードが更に約1時間攻撃。 北緯01度25分、東経72度22分において撃沈。 伊二十七の乗員1名を救助した。
1944年(昭和19年)2月15日インド洋方面水域において亡失認定。 
1944年(昭和19年)7月10日第八潜水戦隊から除く。 除籍

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p65,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p133
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p641-647