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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第三十八潜水艦について

伊号第三十八潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の18番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
建造所佐世保工廠
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特5型2基
蓄電池2号5型×240
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日伊号第三十八潜水艦艦歴
1941年(昭和16年)6月19日第百五十一号艦として、佐世保海軍工廠において起工。 
1942年(昭和17年)4月8日伊号第三十八潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 
1942年(昭和17年)4月15日進水。 本籍を呉鎮守府と定める。 
1943年(昭和18年)1月31日竣工。 警備潜水艦と定める。 呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。 佐世保発、呉に向かう。 
1943年(昭和18年)2月2日呉に入港、以後、内海西部において訓練。 
1943年(昭和18年)3月5日飛行機定数は水偵1機と定められる。 
1941年(昭和16年)4月1日呉潜水戦隊は解隊。 第十一潜水戦隊(第一艦隊)に編入。 戦時編制。 呉鎮守府部隊から除かれ、訓練部隊(第一艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入、内海西部において訓練に従事。 
1943年(昭和18年)4月30日第十一潜水戦隊から除かれ、第十五潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 訓練部隊(第一艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、内南洋方面に進出を下令される。 
1943年(昭和18年)5月8日運砲筒を曳航して、呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)5月14日トラックに進出、補給待機。 
1943年(昭和18年)5月16日トラック発、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)5月17日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦補給輸送等を下令される。 
1943年(昭和18年)5月18日ラバウルに進出、輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月20日ラバウル発、ニューギニア東岸ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)5月23日ラエ着、弾薬糧食48.6トン、便乗者29名(うち海軍12名)を揚陸、ラバウルに向かい帰航。 
1943年(昭和18年)5月25日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月27日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)5月29日ラエ着、弾薬糧食48.6トン、便乗者を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)5月31日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月2日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)6月4日ラエ着、運砲筒で陸軍用大砲、弾薬を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)6月6日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月8日ラバウル発、サラモアに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)6月11日サラモア着、運砲筒で陸軍用大砲、弾薬を揚陸、ラエに向かう。 
1943年(昭和18年)6月12日ラエ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)6月14日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月19日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)6月21日ラエ着、弾薬糧食48.5トンを揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)6月23日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月26日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)6月28日ラエ着、弾薬糧食48.5トンを揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)6月30日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)7月1日アメリカ軍がソロモン諸島中部レンドバに上陸。 レンドバ方面の敵艦船攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)7月2日ラバウル発、コロンバンガラ島南方クラ湾に向かう。 
1943年(昭和18年)7月4日クラ湾に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)7月10日撤収して、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)7月12日ラバウルに帰着、補給休養、輸送準備。 
1943年(昭和18年)7月17日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)7月19日ラエ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)7月21日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1941年(昭和16年)7月24日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)7月26日ラエ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)7月28日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)7月30日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)8月1日ラエ着、輸送物件、便乗の佐世保鎮守府第五特別陸戦隊付兼分隊長藤永専中尉等を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)8月3日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)8月6日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)8月8日ラエ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)8月10日ラバウルに帰着、輸送準備。 コロンバンガラ島に対する作戦輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)8月12日ラバウル発、コロンバンガラ島に向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)8月17日コロンバンガラ島着、一輪送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)8月22日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)8月28日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)8月30日ラエ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)9月1日ラバウルに帰着、補給休養、輸送準備。 
1943年(昭和18年)9月7日ラバウル発、ブーゲンビル島ブインに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)9月12日ブイン着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)9月14日ラバウルに帰着、補給休養、輸送準備。 第十五潜水隊司令は、司令潜水艦を伊号第三十二潜水艦から当艦に変更。 
1943年(昭和18年)9月26日ラバウル発、ニューブリテン島南岸スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)9月27日スルミ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)9月28日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月2日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月5日シオ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月7日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月15日ラバウル発、ニューブリテン島南岸スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月17日スルミ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月18日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月23日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月25日スルミ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月26日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月28日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月31日シオ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月2日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)11月4日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月7日シオ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月9日ラバウルに帰着、補給、輸送準備。 
1943年(昭和18年)11月17日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月19日スルミ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月21日ラバウルに帰着、輸送準備。 
1943年(昭和18年)11月22日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月25日シオ着、輸送物件を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月27日ラバウルに帰着、補給、輸送準備。 
1943年(昭和18年)12月1日ラバウルにおいて運貨筒の曳航実験。 
1943年(昭和18年)12月4日ラバウルにおいて運貨筒の曳航実験。 
1943年(昭和18年)12月5日ラバウルにおいて運貨筒の曳航実験。 
1943年(昭和18年)12月6日ラバウルにおいて運貨筒の曳航実験。 
1943年(昭和18年)12月7日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)12月9日スルミ着、運貨簡を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)12月11日ラバウルに帰着、補給、輸送準備。 
1943年(昭和18年)12月17日第十五潜水隊司令は、司令潜水艦を当艦から伊号第三十六潜水艦に変更。 
1943年(昭和18年)12月18日ラバウルにおいて運貨筒の曳航実験。 
1943年(昭和18年)12月19日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)12月20日南東方面部隊(南東方面艦隊)から除かれ、先遣部隊第十潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地に帰投、整備を下令される。 
1943年(昭和18年)12月22日シオ着、運貨筒を揚陸、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)12月24日ラバウルに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)12月26日ラバウル発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)12月29日トラックに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)12月30日トラック発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)1月6日呉に帰着、入渠修理、休養。 先遣部隊第一潜水部隊から除かれ、同第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入、内地において修理整備に従事。 
1944年(昭和19年)1月15日第一潜水戦隊は解隊。 第十五潜水隊は、第六艦隊に編入。 
1944年(昭和19年)3月1日作戦輸送計28回の成功に対して、連合艦隊司令長官から感状を授与された。 
1944年(昭和19年)3月5日先遣部隊第十一潜水部隊から除かれる。 同第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内南洋方面に進出を下令される。 
1944年(昭和19年)3月14日呉発、トラックに向かう。 
1944年(昭和19年)3月20日トラックに到着、補給待機。 
1944年(昭和19年)3月27日マーシャル諸島東方の北緯4〜14度、東経171〜175度に配備、ハワイ方面との後方連絡の遮断を下令される。 
1944年(昭和19年)3月30日アメリカ機動部隊がパラオに来襲、丙作戦第五法、丁作戦を下令される。 パラオ南東方に配備を下令される。 トラック発、パラオ南東方に向かう。 
1944年(昭和19年)4月3日先遣部隊第二潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、パラオ方面の敵機動部隊の索敵を下令される。 
1944年(昭和19年)4月4日ニューギニア北岸ウエワクに向かい、第九艦隊司令部をホーランジャに移送するよう下令される。 
1944年(昭和19年)4月7日先遣部隊第二潜水部隊は編成を解かれ、艦は先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に復帰、輸送任務に従事を下令される。 
1944年(昭和19年)4月8日ウエワクに到着、第九艦隊司令部を収容、ホーランジャに向かう。 第九艦隊司令長官は将旗をウエワクの陸上から当艦に移揚。 
1944年(昭和19年)4月10日ホーランジャに到着、輸送人員を揚陸、ウエワクに向かう。 第九艦隊司令長官は将旗を当艦からホーランジャの陸上に移揚。 
1944年(昭和19年)4月12日ウエワクに到着、第二通信隊を収容、ホーランジャに向かう。 輸送終了後、アメリカ機動部隊の来襲を警戒するため、トラック南方に配備を下令される。 通信錯誤のため、この命令は艦に達しなかった。 
1944年(昭和19年)4月14日ホーランジャに到着、輸送人員を揚陸、トラックに向かう。 
1944年(昭和19年)4月19日トラックに到着、補給待機。 特別作戦準備のため、内地に帰投を下令される。 
1944年(昭和19年)4月20日トラック発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)4月27日呉に帰着、龍巻作戦の準備に当たる。 
1944年(昭和19年)4月司令潜水艦を伊号第十六潜水艦から当艦に変更。 
1944年(昭和19年)5月3日あ号作戦命令を下令される。 
1944年(昭和19年)5月6日呉発、内海西部において、特四式内火艇と連合訓練。 
1944年(昭和19年)5月12日龍巻作戦は中止となり、艦は準備作業を取り止め、呉に入港。 
1944年(昭和19年)5月14日準備出来次第、マーシャル諸島東方のマロエラップ環礁南端70度以北の海面に進出、特令により、要地の飛行偵察の実施を下令される。 
1944年(昭和19年)5月17日呉発、マーシャル諸島方面の配備に向かう。 
1944年(昭和19年)5月25日マロエラップ環礁付近に進出、索敵待機。 
1944年(昭和19年)6月3日クェゼリンの飛行偵察を10日以降、実施と下令される。 
1944年(昭和19年)6月4日第七潜水戦隊司令官の作戦指揮下に入る。 
1944年(昭和19年)6月10日クェゼリンの飛行偵察を取り止め、メジュロ偵察を12日頃、実施するよう変更を下令される。 
1944年(昭和19年)6月13日アメリカ機動部隊がマリアナ諸島に来襲。 あ号作戦決戦用意を下令される。 先遣部隊指揮官は、マーシャル諸島方面に配備の潜水艦を、カロリン諸島北方に移動、敵機動部隊攻撃を下令される。 
1944年(昭和19年)6月14日グアム島東方に急行を下令される。 
1944年(昭和19年)6月15日アメリカ軍はサイパン島に上陸。 あ号作戦決戦発動を下令される。 
1944年(昭和19年)6月16日サイパン島所在の第六艦隊司令部は、アメリカ軍の上陸により、作戦指揮が困難となり、第一潜水部隊の指揮を第七潜水戦隊司令官に委ねた。 艦は、甲潜水部隊(第十五潜水隊司令指揮)に編入、C散開線に配備を下令される。 甲潜水部隊と、トラック北東方のZ散開線中央(北緯11度30分、東経154度30分付近)に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)6月22日甲潜水部隊と、サイパン哨区に配備、敵艦船攻撃を下令される。 艦は、サイパン北東内側哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)6月24日サイパン北東内側哨区に到着、索敵。 
1944年(昭和19年)6月28日サイパンの第六艦隊司令部の救出を下令されたが、敵の警戒が厳重なため、不成功に終わる。 
1944年(昭和19年)7月2日サイパン北東内側哨区付近を遊弋、敵空母の攻撃を下令される。 
1944年(昭和19年)7月5日7日零時に撤収して、内地に帰投を下令される。 
1944年(昭和19年)7月7日テニアン島の搭乗員の収容を下令されたが、取り止めとなる。 サイパン付近を撤収して、佐世保に向かう。 
1944年(昭和19年)7月10日先遣部隊第一潜水部隊指揮官は、再び、第六艦隊司令長官となる。 
1944年(昭和19年)7月16日佐世保に帰着。 入渠修理、休養。 以後、艦は飛行機の搭載をしないこととしたと推定される。 
1944年(昭和19年)8月26日佐世保発、内海西部に回航、訓練。 
1944年(昭和19年)9月1日呉に入港、工廠において、回天搭載設備の工事に入る。 
1944年(昭和19年)9月30日回天搭載設備の工事を終わる。 
1944年(昭和19年)10月呉を出港、内海西部において回天との訓練。 
1944年(昭和19年)10月呉に入港、出撃準備。 
1944年(昭和19年)10月10日戦備および整備の促進を下令される。 
1944年(昭和19年)10月17日捷一号作戦警戒を下令される。 回天関係作業を中止、呉に回航、急速出撃準備を下令される。 先遣部隊指揮官は、台湾東方の敵機動部隊殲滅のため、全力を以て、進出を下令される。 
1944年(昭和19年)10月18日乙潜水部隊に編入、比島方面の敵機動部隊殲滅のため、19日出撃し、B散開配備(基点:北緯18度20分、東経138度、基線方向210度、距離60浬)のホ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月19日呉発、比島東方に向かう。 
1944年(昭和19年)10月20日乙潜水部隊と、第三散開配備(基点:北緯14度、東経129度、基線方向350度、距離60浬)のト哨区に配備、努めて強行進撃を下令される。 
1944年(昭和19年)10月23日先遣部隊指揮官は、「今や、捷号作戟の神機は、目睫の間に迫り、皇国の興廃は、将に此の一戦に決せんとす。先遣部隊は、友軍と協力、死力を傾倒して勇戦敢闘し、其の真価を遺憾なく発挿すべし。」と訓示。
1944年(昭和19年)10月24日全軍突撃に転じ、艦はヤヒマ55に配備、強行進撃して、敵撃滅を下令される。 
1944年(昭和19年)10月25日11:00、配備点に到着、索敵。 
1944年(昭和19年)10月27日甲潜水部隊に編入、第一散開配備(基点スルアン島、基線方向100度、距離60浬)のへ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月28日レイテ島東方の配備に向かう。 
1944年(昭和19年)10月31日ロ哨区に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)11月1日第一散開配備のへ哨区に進出、索敵。 
1944年(昭和19年)11月5日第一次玄作戦の準備のため、11日、ヤップ−パラオ間のクツルー泊地の偵察を下令される。 レイテ島東方の配備から、クツルー泊地に向かう。 
1944年(昭和19年)11月7日移動の途中、敵機動部隊の発見を報告、消息を絶つ。
1944年(昭和19年)11月12日パラオ東方の北緯08度04分 東経138度03分において、アメリカ駆逐艦「ニコラス(Nicholas)」の爆雷攻撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)11月13日西カロリン諸島南方に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)12月6日西カロリン諸島水域において亡失認定。 
1945年(昭和20年)3月10日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p65,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p134
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p723-730