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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第五十四潜水艦について

伊号第五十四潜水艦は巡潜乙型改2(伊五十四型)潜水艦の1番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型改2(伊五十四型)
建造所横須賀工廠
水上排水量 ※12,140トン(基準)/2,607トン(常備)
水中排水量 ※13,688トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.19m
主機艦本式22号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特8型2基
蓄電池1号13型×240
出力4,700馬力(水上)/1,200馬力(水中)
速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)
燃料重油:842.8トン
航続力16ノットで21,000浬(水上)/3ノットで105浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷19本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1942年(昭和17年)7月1日第六百二十七号艦として、横須賀海軍工廠において起工。 
1943年(昭和18年)4月5日伊号第五十四潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 
1943年(昭和18年)5月4日横須賀海軍工廠において進水。 本籍を呉鎮守府と定める。 
1944年(昭和19年)3月31日竣工。 第十一潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。 艦は、横須賀において訓練整備。 
1944年(昭和19年)4月8日横須賀発、東京湾において訓練。 
1944年(昭和19年)4月10日横須賀に入港、修理整備。 
1944年(昭和19年)4月13日修理完了次第、横須賀発、安下庄錨地において第十一潜水部隊に合同を下令される。 
1944年(昭和19年)4月18日横須賀発、内海西部において就役訓練。 
1944年(昭和19年)4月20日伊予灘に到着、訓練待機。 
1944年(昭和19年)4月21日呉に入港、補給整備。 
1944年(昭和19年)5月6日呉を出港、伊予灘において訓練。 
1944年(昭和19年)5月21日呉に入港、補給整備。 
1944年(昭和19年)5月27日呉を出港、伊予灘において訓練。 
1944年(昭和19年)6月1日呉に入港、補給整備。 
1944年(昭和19年)6月2日八号兵器(風船爆弾)搭載用の水素ボンベ装備工事のため、呉工廠に入渠、改修工事に当たり、華号作戦に従事を下令される。 訓令実験のため、6日1300出港の予定と報告。
1944年(昭和19年)6月6日低圧排水ポンプ修理完了次第、呉を出港、単独訓練を実施、27日以降約10日間、戦備作業に従事ののち、状況により、作業地から直接出撃せしめられる内意につき、出撃準備、諸物件搭載を下令される。 呉を出港、伊予灘において訓練。 
1944年(昭和19年)6月8日呉に入港、補給整備。 
1944年(昭和19年)6月22日呉を出港、伊予灘において訓練。 
1944年(昭和19年)6月25日華号作戦は中止となり、艦はサイパン方面に配備を予定される。 
1944年(昭和19年)6月27日呉に入港、補給整備、出撃準備。 
1944年(昭和19年)6月29日30日以降、第七潜水戦隊司令官の指揮を受けるよう下令される。 
1944年(昭和19年)6月30日呉を出港、内海西部において訓練待機。 
1944年(昭和19年)7月1日内海西部発、横須賀に向かう。 
1944年(昭和19年)7月3日横須賀に到着、補給待機。 運貨筒をテニアンに揚陸、搭乗員の収容輸送を下令される。 
1944年(昭和19年)7月7日横須賀発、マリアナ方面に向かう。 
1944年(昭和19年)7月10日第十一潜水戦隊から除かれる。 第十五潜水隊(第六艦隊)に編入。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)から除かれ、同第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、マリアナ諸島方面の作戦を下令される。 
1944年(昭和19年)7月15日曳航してきた運貨筒が沈没したため、反転帰航。 
1944年(昭和19年)7月24日横須賀に帰着、整備休養。 
1944年(昭和19年)8月17日横須賀発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)8月19日呉に到着、補給整備。 
1944年(昭和19年)8月20日捷号作戦命令を下令される。 
1944年(昭和19年)8月28日呉を出港、内海西部において訓練。 
1944年(昭和19年)9月1日呉に入港、入渠して回天搭載設備の工事に当たる。 
1944年(昭和19年)9月19日回天搭載設備の工事を終わり、呉を出港、内海西部において回天との訓練に当たる。 
1944年(昭和19年)9月24日呉に入港、補給整備。 
1944年(昭和19年)10月1日呉を出港、内海西部において回天との訓練に当たる。 
1944年(昭和19年)10月10日玄作戦準備を中止し、出撃準備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月11日呉に入港、出撃準備。 
1944年(昭和19年)10月12日先遣部隊指揮官は、玄作戦参加以外の潜水艦を以て、台湾・沖縄方面に来襲した敵機動部隊の邀撃を下令される。 艦は、15日内海西部を出撃、第四散関配備(基点:北緯23度20分、東経131度20分、基線方向230度、距離80浬)のハ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月14日甲潜水部隊に編入、先遣部隊指揮官の直率下に、努めて所定の配備に強行進撃、南西諸島南東海面の残敵の捕捉撃滅を下令される。 
1944年(昭和19年)10月15日甲潜水部隊は、所定の配備を150度方向に300浬移動するよう下令される。 艦は8:00、南大東島西方を経て、配備点に向かう。 
1944年(昭和19年)10月16日甲潜水部隊と、第三散開配備(基点:19度40分、東経130度20分、基線方向305度、距離60浬)に隠密急行、ソ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月17日捷一号作戦警戒を下令される。 陸軍機の偵察によれは、西表島130度220浬に残存敵機動部隊があり、針路概ね90度、速力約10節、南東に避退と判断され、甲潜水部隊はこの敵を捕捉撃滅するよう下令される。 艦は、北緯21度、東経132度に向かい強行進撃、邀撃を下令される。 
1944年(昭和19年)10月18日捷一号作戦発動を下令される。 アメリカ軍がレイテ島に来攻。 敵残存機動部隊は4:00、北緯18度58分、東経127度52分を中心とする20浬圏内にあり、速力9節、針路概ね150度と推定され、艦は180度方向に強行進撃を下令される。 艦は24:00、北緯22度08分、東経132度25分を経て、南下した。 
1944年(昭和19年)10月19日甲潜水部隊と、第四散関配備(基点:北緯14度20分、東経132度40分、基線方向245度、距離50浬)イ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月20日甲潜水部隊と、新方形配備(基点:北緯10度、東経130度、基線方向350度、距離50浬)のト哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月23日先遣部隊指揮官は、「今や、捷号作戟の神機は、目睫の間に迫り、皇国の興廃は、将に此の一戦に決せんとす。先遣部隊は、友軍と協力、死力を傾倒して勇戦敢闘し、其の真価を遺憾なく発挿すべし。」と訓示。 艦は以後連絡がなく、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)10月24日全軍突撃に転ず。 艦はヤシワ55に強行進撃、敵撃滅を下令される。 
1944年(昭和19年)10月25日配備点をヤシヨ55に変更を下令される。 
1944年(昭和19年)10月27日甲潜水部隊と、第一散開配備(基点スルアン島、基線方向100度、開角度50度、距離60浬)のへ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月28日スルアン島東方70海里でアメリカ駆逐艦「グリッドレイ (Gridley) 」、「ヘルム(Helm)」の爆雷攻撃を受け沈没。 
1944年(昭和19年)10月31日配備の距離を100浬、ハ哨区に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)11月5日ラモン湾東方のD散開配備のチ哨区に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)11月9日撤収して、内地に帰投を下令される。 艦は未帰還となる。 
1944年(昭和19年)11月20日比島東方水域において亡失認定。 
1945年(昭和20年)3月10日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p67,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p135
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p863-866