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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第百二十三潜水艦について

伊号第百二十三潜水艦は機雷型(伊二十一型)潜水艦の3番艦である。

要目(1)(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型機雷型(伊二十一型)
建造所川崎造船所
水上排水量 ※11,142トン(基準)/1,383トン(常備)
水中排水量 ※11,768トン
垂線間長
全長85.20m
最大幅7.52m
喫水4.42m
主機ラウシェンバッハ式1号ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型2基
蓄電池
出力2,400馬力(水上)/1,100馬力(水中)
速力14.9ノット(水上)/6.5ノット(水中)
燃料重油:225トン
航続力8ノットで10,500浬(水上)/4.5ノットで40浬(水中)
乗員51名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
留式7.7mm単装機銃1基
★★十年式53cm魚雷発射管4門(艦首)
6年式魚雷12本
機雷敷設筒2基(艦尾)
八八式機雷42個
安全潜航深度75m
その他1942年(昭和17年)5月、二式大艇のハワイ偵察における燃料補給潜水艦として機雷庫を燃料タンクに改造。

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(5)

年月日履歴
1923年(大正12年)7月19日第五十潜水艦と命名。 
1924年(大正13年)11月1日伊号第百二十三潜水艦と改名。 
1925年(大正14年)8月12日神戸川崎造船所において起工。 
1927年(昭和2年)3月18日進水。 
1934年(昭和9年)4月28日竣工。 本籍を横須賀鎮守府と定める。 第九潜水隊(横須賀防備隊・横須賀鎮守府部隊)に編入。 
1931年(昭和6年)12月1日第二予備潜水艦と定める。 
1932年(昭和7年)機関の特定修理を実施。 
1932年(昭和7年)12月1日第一予備潜水艦と定める。 
1933年(昭和8年)12月11日第九潜水隊は横須賀防備隊(横須賀鎮守府部隊)から除かれ、横須賀警備戦隊(横須賀鎮守府部隊)に編入。 
1934年(昭和9年)11月15日第二予備潜水艦と定める。 
1935年(昭和10年)1月1.15日第九潜水隊は横須賀警備戦隊(横須賀鎮守府部隊)から除かれ、横須賀防備戦隊(横須賀鎮守府部隊)に編入。 
1937年(昭和12年)10月20日第九潜水隊は第四艦隊(支那方面艦隊)付属に編入。 
1937年(昭和12年)11月20日第九潜水隊は封鎖部隊(第四艦隊)主隊に編入、第四艦隊司令長官の直率下に入り、支那沿岸の封鎖監視作戦を下令される。 
1937年(昭和12年)12月1日第九潜水隊は第三潜水戦隊(第四艦隊)に編入。 第九潜水隊は封鎖部隊(第四艦隊)北支封鎖部隊(第四水雷戦隊)北支監視部隊(第三潜水戦隊)主隊に編入。 各監視部隊の支援を下令される。
1937年(昭和12年)12月20日〜1938年(昭和13年)1月2日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。
1938年(昭和13年)1月2日第九潜水隊はB部隊(第四艦隊)制圧隊(鮮海丸砲艦長指揮)に編入、青島攻略の上陸点東方の警戒を下令される。 
1938年(昭和13年)1月2日〜6日第九潜水隊は旅順から裏長山列島に移り、作戦打合せ。
1938年(昭和13年)1月8日〜10日第九潜水隊は裏長山列島から青島沖に向かい、姜可庄沖に進出して、攻略作戦を支援。 
1938年(昭和13年)1月28日第九潜水隊はC部隊(第三潜水戦隊)主隊に編入、芝罘占拠作戦の全般支援を下令される。 
1938年(昭和13年)1月30日第九潜水隊は旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)2月1日第九潜水隊は北支部隊(第四艦隊)北支監視部隊(第三潜水戦隊)に編入、北緯33度以北の沿岸封鎖作戦を下令される。
1938年(昭和13年)2月2日〜12日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)2月14日〜19日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)6月20日戦隊主力は北支監視部隊(第三潜水戦隊)主隊に復帰。
1938年(昭和13年)2月21日〜3月2日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)3月1日伊号第百二十三潜水艦と改名。 6月1日施行。 
1938年(昭和13年)6月20日第三潜水戦隊は解隊。 第九潜水隊は横須賀鎮守府部隊に編入。 練習兼予備潜水艦と定める。 練習のことに関しては、海軍砲術学校長、海軍水雷学校長、海軍通信学校長、海軍工機学校長、海軍航海学校長および横須賀海軍航空隊司令の指揮を受けることと定める。 
1939年(昭和14年)4月1日第九潜水隊は解隊。 横須賀鎮守府部隊に編入。 
1939年(昭和14年)6月1日第三予備潜水艦と定める。 練習のことに関して、海軍砲術学校長、海軍水雷学校長、海軍通信学校長、海軍工機学校長、海軍航海学校長および横須賀海軍航空隊司令の指揮を受けることと定めたのを解く。 
1939年(昭和14年)11月15日第九潜水隊(再編、横須賀鎮守府部隊)に編入。 第三予備潜水艦を特別役務潜水艦と定める。 
1940年(昭和15年)5月1日特別役務潜水艦を第一予備潜水艦と定める。 第九潜水隊は第五潜水戦隊(第四艦隊)に編入。 
1940年(昭和15年)7月11日第九潜水隊は横須賀から南洋方面に向かう。 
1940年(昭和15年)9月22日第九潜水隊は横須賀に帰着。 
1940年(昭和15年)11月15日第九潜水隊は第五潜水戦隊(第四艦隊)から除かれ、横須賀鎮守府部隊に編入。 予備潜水艦を警備兼練習潜水艦と定める。 練習のことに関しては、海軍砲術学校長および横須賀海軍航空隊司令の指揮を受けることと定められる。
1941年(昭和16年)3月22日〜4月4日第九潜水隊は横須賀から中支方面に向かい、佐世保に帰着。
1941年(昭和16年)4月7日司令潜水艦を伊号第百二十四潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)4月9日司令潜水艦を当艦から伊号第百二十四潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)5月1日第九潜水隊は第六潜水戦隊(第三艦隊)に編入。 警備兼練習潜水艦を予備潜水艦と定める。 練習のことに関して、海軍砲術学校長および横須賀海軍航空隊司令の指揮を受けると定めたのを解く。 
1941年(昭和16年)5月11日第九潜水隊は横須賀から佐伯湾に向かい、艦隊と合同。 
1941年(昭和16年)6月10日第六潜水戦隊は支那方面艦隊海峡部隊(第三艦隊)に編入、温州・履門間の沿岸封鎖を下令される。 第九潜水隊は佐世保から南支方面に向かう。 
1941年(昭和16年)7月7日第九潜水隊は馬公に帰着。 
1941年(昭和16年)7月12日第九潜水隊は馬公から高雄に回航、待機。 
1941年(昭和16年)8月2日司令潜水艦を伊号第百二十四潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 横須賀に帰着。 
1941年(昭和16年)9月30日司令潜水艦を当艦から伊号第百二十四潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)10月1日第九潜水隊は横須賀から橘湾に向かい、艦隊と合同。
1941年(昭和16年)11月5日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)に編入、南方方面の要地攻略作戦の支援を下令される。 
1941年(昭和16年)11月15日第九潜水隊は南方部隊(第二艦隊)潜水部隊(第五潜水戦隊)に編入され、比島方面の要地攻略作戦の支援を下令される。 
1941年(昭和16年)11月21日〜27日第九潜水隊は佐世保から海南島三亜に進出、待機。 
1941年(昭和16年)11月28日南方部隊(第二艦隊)潜水部隊指揮官は第六潜水戦隊司令官となる。
1941年(昭和16年)12月1日艦はバラバック海峡に機雷敷設を下令される。 三亜からバラバック海峡に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。 
1941年(昭和16年)12月7日艦は横舵故障のため潜航不能となったが、水上航走により、バラバック海峡に到着、同夜半から機雷42個を敷設。 
1941年(昭和16年)12月8日〜9日バラバック海峡からカムラン湾に帰着、応急修理。 
1941年(昭和16年)12月15日カムラン湾からジャワ島スラバヤ沖に向かう。 
1941年(昭和16年)12月18日22:23、カリマタ海峡において商船1隻を雷撃したが、効果がなかった。 
1941年(昭和16年)12月23日早朝にスラバヤ海峡北口に到着、4:16〜6:56までに、機雷37個を敷設したのち、哨戒に当たる。 同夜、スラバヤの50度100浬において空母2隻を含む敵部隊の発見を報告したが、空母は誤認であった。 
1941年(昭和16年)12月24日ジャワ海において索敵哨戒に当たる。 
1941年(昭和16年)12月25日ジャワ海からマカッサル海峡を経て、ダバオに向かう。 
1941年(昭和16年)12月26日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)潜水部隊(第五潜水部隊)甲潜水部隊(第六潜水部隊)に編入、蘭印部隊の作戦に策応して、バンダ海、フロレス海、オーストラリア北水域において、敵艦艇攻撃、海上交通破壊、要地監視、機雷敷設を下令される。 
1941年(昭和16年)12月28日第六潜水戦隊の作戦区域は東経117度以東と定められる。 
1941年(昭和16年)12月31日ダバオ着、補給、待機。 
1942年(昭和17年)1月8日第九潜水隊はポートダーウィン港外に機雷敷設ののち、索敵哨戒を下令される。 
1942年(昭和17年)1月10日ダバオからポートダーウィン港外に向かう。 
1942年(昭和17年)1月13日アンボン沖を経て、ポートダーウィン港外に向かう。 
1942年(昭和17年)1月14日バンダ海において、アメリカ巡洋艦「ヒューストン(Houston)」を発見、追躡したが、見失った。 
1942年(昭和17年)1月18日ポートダーウィン西口の哨区に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月20日19:16、ダンダス海峡ドン岬付近において、機雷30個を敷設。
1942年(昭和17年)1月21日哨区を撤収、伊号第百二十四潜水艦と合同を図ったが、合同できず、ダバオに向かう。 
1942年(昭和17年)1月31日ダバオに帰着、待機。 
1942年(昭和17年)2月1日南方部隊潜水部隊指揮官は第六潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)2月5日トーレス海峡方面に出撃を下令される。 
1942年(昭和17年)2月19日ダバオからトーレス海峡方面に向かう。 
1942年(昭和17年)2月24日トーレス海峡に進出、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)2月25日第九潜水隊は解隊。 第六潜水戦隊(第三艦隊)に編入。 トーレス海峡において、伊号第百二十二潜水艦の支援を受け、機雷40個を敷設。 
1942年(昭和17年)2月26日トーレス海峡から撤収して、アラフラ海の哨戒に当たる。 
1942年(昭和17年)3月5日アラフラ海を撒哨して、スターリング湾に向かう。 
1942年(昭和17年)3月9日スターリング湾に帰着、補給、待機。 
1942年(昭和17年)3月10日第三艦隊は解隊。 第六潜水戦隊は連合艦隊に編入。 第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)蘭印部隊(第二南遣艦隊)潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 艦は内地に帰投、整備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月14日スターリング湾から呉に向かう。 
1942年(昭和17年)3月15日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)蘭印部隊(第二南遣艦隊)から除かれる。 南方部隊(第二艦隊)甲潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入され、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月25日横須賀に帰着、整備。 
1942年(昭和17年)4月1日呉工廠に入渠、航空燃料補給装置の設置工事。 
1942年(昭和17年)4月10日第六潜水戦隊は解隊。 艦は第十三潜水隊(第六艦隊)に編入、本籍を横須賀鎮守府から呉鎮守府に変更。 第十三潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)5月5日連合艦隊第二期作戦部署により、第十三潜水隊はフレンチフリゲート礁ほかにおいて飛行艇等に対する補給任務を下令される。
1942年(昭和17年)5月7日横須賀からクェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月17日クェゼリンに到着、待機。 
1942年(昭和17年)5月21日K作戦終了後、フレンチフリゲート礁において、飛行艇への補給任務、気象通報を下令される。
1942年(昭和17年)5月26日クェゼリンからフレンチフリゲート礁に向かう。 
1942年(昭和17年)5月29日フレンチフリゲート礁付近の配備につき、K作戦のため待機。 フレンチフリゲート礁内に敵哨戒艇2隻を発見。 
1942年(昭和17年)5月30日フレンチフリゲート礁内の敵警戒が厳重なため、K作戦の見込なしと報告。 
1942年(昭和17年)5月31日フレンチフリゲート礁口付近に敵飛行艇1機を発見と報告。 第二次K作戦の中止により、フレンチフリゲート礁東方に配備を下令され、移動。 
1942年(昭和17年)6月5日第十三潜水隊はミッドウェー東方のA散開線(北緯26度40分、西経179度40分)に配備を下令される。 艦はフレンチフリゲート礁東方から西進、A散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月6日第十三潜水隊はB散開線(西経170度、北緯23度40分〜25度40分)に配備を下令される。 隊はB散開線に向かう。
1942年(昭和17年)6月7日第十三潜水隊はT散開線(西経180度、北緯22度40分〜25度40分)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)6月8日引き揚げ中の敵機動部隊が、散開線通過の算大のため、第十三潜水隊は警戒を厳重にするとともに、進撃速度を水上14節と下令される。 第十三潜水隊は10日付けで、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン方面の作戦を下令される。 
1942年(昭和17年)6月9日第十三潜水隊の北方部隊への編入は取り止めを下令される。 
1942年(昭和17年)6月11日隊はT散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月15日第十三潜水隊は撤哨して、内地に帰投を下令される。 第十三潜水隊はT散開線を撤哨し、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)6月25日艦は横須賀に帰着、入渠修理。
1942年(昭和17年)7月14日第十三潜水隊は第六艦隊付属から除かれ、第七潜水戦隊(第八艦隊)に編入。 第十三潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、外南洋部隊(第八艦隊)に編入、南東方面において、敵艦隊攻撃、海上交通破壊、索敵監視を下令される。 
1942年(昭和17年)7月20日〜8月2日横須賀からトラックに進出。 
1942年(昭和17年)8月7日アメリカ軍のガダルカナル島来攻により、第十三潜水隊は同方面に急行、インディスペンサブル海峡において敵艦船攻撃にあたるとともに、同方面の陸上見張所との連絡を下令される。
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。
1942年(昭和17年)8月11日ガダルカナル島ルンガ岬沖に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)8月12日8:00、ルンガ岬から付近一帯の敵兵力を偵察したのち、9:00、陸上を砲撃(14発)8分間に及んだが、敵陸上砲火の反撃を受け退避。 約10発が敵陣に命中と報告。 艦の陸上偵察はアメリカ軍の兵力規模などをほぼ正確に把握していたが、上級司令部の観察所見と反していたため、重視されず、以後の作戦を誤ることになった。 ガダルカナル島所在部隊の連絡を、ラバウルに転電した。 
1942年(昭和17年)8月16日ガダルカナル島所在部隊の連絡を、第八艦隊司令部に中継。 タイポ岬見張所と連絡をとった。 
1942年(昭和17年)8月20日第十三潜水隊はサンクリストバル島東方に配備を下令される。 艦はツラギ付近からサンクリストバル島東方に向かう。 
1942年(昭和17年)8月21日第六潜水戦隊は外南洋部隊(第八艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島奪回作戦の支援を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日サンクリストバル島東方海面に配備を下令される。サンクリストバル島東方海面に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)8月23日第十三潜水隊は再び、インディスペンサブル海峡からガダルカナル島付近の配備に変更を下令され、移動。 
1942年(昭和17年)8月26日ツラギの10度20浬付近に不時着した陸攻の捜索に当たりながら、フロリダ島イースト岬見張所と連絡、糧食を補給。 
1942年(昭和17年)8月28日南緯9度37分、東経163度28分において、23:25、敵飛行機の信号を認め、退避。 
1942年(昭和17年)8月29日昨夜の敵機発見を報告ののち、消息を絶つ。 インディスペンサブル海峡ルアスラ島北10浬、南緯9度20分、東経160度40分を中心とする15浬圏内に配備を下令される。 インディスペンサブル海峡でアメリカ敷設駆逐艦「ガンブル(Gamble)」の爆雷攻撃を受け沈没。
1942年(昭和17年)9月1日ガダルカナル島付近で亡失認定。
1942年(昭和17年)10月5日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p40,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p12
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p14
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p158-164