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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第百六十八潜水艦について

伊号第百六十八潜水艦は海大6型a(伊六十八型)潜水艦の1番艦である。

要目(1)(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大6型a(伊六十八型)
建造所呉工廠
水上排水量 ※11,400トン(基準)/1,785トン(常備)
水中排水量 ※12,440トン
垂線間長98.40m
全長104.70m
最大幅8.20m
喫水4.58m
主機艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型2基
蓄電池
出力8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)
燃料重油:338トン
航続力10ノットで14,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中)
乗員68名
兵装50口径八八式10cm単装高角砲1基
保式13mm単装機銃1基
留式7.7mm単装機銃1基
八八式53cm魚雷発射管4門(艦首)
2門(艦尾)
魚雷14本
安全潜航深度70m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(5)

年月日履歴
1931年(昭和6年)6月18日呉海軍工廠において起工。
1932年(昭和7年)8月1日伊号第六十八潜水艦と命名。
1933年(昭和8年)6月26日進水。
1934年(昭和9年)7月31日竣工。  本籍は呉鎮守府。 呉鎮守府部隊に編入。
1934年(昭和9年)9月6日〜16日呉から南洋方面に向かい、呉に帰着。
1935年(昭和10年)10月8日呉鎮守府部隊第十二潜水隊に編入。
1935年(昭和10年)11月15日第十二潜水隊は第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1936年(昭和11年)4月13日〜2日第十二潜水隊は戦隊と福岡湾から青島に向かい、寺島水道着。
1936年(昭和11年)8月4日〜6日第十二潜水隊は戦隊と馬公から履門に向かい、高雄着。
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾着。
1937年(昭和12年)7月15日〜17日第二艦隊は宿毛湾着。 待機後、別府に回航。
1937年(昭和12年)7月21日第二艦隊は別府から佐世保に回航。 補給待機。
1937年(昭和12年)7月29日第二艦隊は北支部隊に編入。 陸軍と協力して、居留民保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保において待機を下令される。
1937年(昭和12年)8月17日〜20日第十二潜水隊は旅順に回航を下令され、佐世保から旅順に進出。 待機。
1937年(昭和12年)8月21日第十二潜水隊は旅順から裏長山列島に回航。 待機。
1937年(昭和12年)8月23日第二潜水戦隊は北支部隊主隊に編入、陸軍A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。
8月25日北支部隊はA支隊の青島攻略作戦の取払止めを下令される。
1937年(昭和12年)8月28日第十二潜水隊は裏長山列島から青島の居留民引揚掩護に向かう。
1937年(昭和12年)8月31日第十二潜水隊は帰投を下令され、山東角付近から裏長山列島に向かう。
1937年(昭和12年)9月1日〜2日第十二潜水隊は裏長山列島に帰着後、旅順に回航。
1937年(昭和12年)9月3日第二潜水戦隊は4日以降、第十四師団の船団護衛を下令される。
1937年(昭和12年)9月4日第十二潜水隊は旅順から大沽向け船団の護衛に向かう。
1937年(昭和12年)9月18日大連に帰着。 待機。
1937年(昭和12年)9月22日大連から旅順に回航。 待機。
1937年(昭和12年)9月24日第二潜水戦隊は北支部隊第一封鎖部隊に編入。 海州湾以北の沿岸封鎖を下令される。
1937年(昭和12年)10月1日〜7日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月13日〜19日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月25日〜31日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月3日〜8日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月13日〜18日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月19日第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かう。
1937年(昭和12年)11月20日北支部隊は編成を解かれる。第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。 
1937年(昭和12年)11月24日第十二潜水隊は佐世保着。
1938年(昭和13年)4月9日〜14日第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、基隆着。
1938年(昭和13年)10月17日〜22日第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、馬公着。
1938年(昭和13年)12月15日第十二潜水隊は第二潜水戦隊から除かれる。 第三予備潜水艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日第十二潜水隊は第二艦隊第三潜水戦隊に編入。 第三予備潜水艦を予備潜水艦と定める。
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日第十二潜水隊は戦隊と中城湾から南支方面に向かい、高雄着。
1940年(昭和15年)8月25日〜9月21日第十二潜水隊は戦隊と横須賀から南洋方面に向かい、横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第六艦隊に編入。
1941年(昭和16年)2月2日〜19日第十二潜水隊は戦隊と南洋方面に向かい、南支水域に進出。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、機動部隊(第一航空艦隊)の作戦に協力、ハワイ方面アメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の隠密偵察、機動部隊不時着人員の収容を下令される。
1941年(昭和16年)11月11日第三潜水部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。
1941年(昭和16年)11月20日第十二潜水隊はクェゼリン着。 補給待機。
1941年(昭和16年)11月23日第十二潜水隊は、クェゼリンからハワイ方面に向かう。
1941年(昭和16年)12月1日第十二潜水隊は、ハワイの300浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島真珠湾口南の外側D1哨区着。 待機。
1941年(昭和16年)12月8日第三潜水部隊は索敵を開始。 伊号第六十八潜水艦は真珠湾口南の内側E1哨区に移動。
1941年(昭和16年)12月9日真珠湾口南の外側Dl哨区に後退。
1941年(昭和16年)12月11日クェゼリンに帰投を下令される。
1941年(昭和16年)12月14 日以降、敵監視艇による爆雷攻撃をしばしば受け、被攻撃21回に及び、後部発射管室に浸水、漏油の疑いがあった。
1941年(昭和16年)12月18日第三潜水部隊はオアフ島付近を撤収し、クェゼリンに向かう。
1941年(昭和16年)12月28日クェゼリン着。 応急修理。
1941年(昭和16年)12月31日修理のため、内地に帰投を下令され、クェゼリンから呉に向かう。
1942年(昭和17年)1月9日呉着。 呉工廠で入渠修理。
1942年(昭和17年)4月10日第三潜水戦隊は、東京湾東方700浬付近のG散開線に進出、アメリカ機動部隊を警戒、索敵掃航を下令される。
1942年(昭和17年)4月15日呉から部隊とG散開線に向かい、索敢掃航。
1942年(昭和17年)4月18日対アメリカ艦隊作戦第三法発動と下令され、部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。
1942年(昭和17年)4月19日部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に避退した算大で、戦隊は北緯34度以北を捜索し、敵情を得なければ、K散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 20日22:00までに、S散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)4月20日18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで14:00、速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃を下令される。 対アメリカ艦隊作戦第三法止めを下令されたが、引き続き、警戒を下令され、G散開線(犬吠埼東方950浬)において哨戒。 主機械故障のため、解列して呉に向かう。
1942年(昭和17年)4月26日呉着。 電動機換装のため、呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)5月20日伊号第百大十八潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月21日N−5日までに、キューア島およびミッドウェー島の偵察をおこなったのち、ミッドウェー付近にあって、天候報告を下令される。
1942年(昭和17年)5月23日呉からミッドウェーに向かう。
1942年(昭和17年)5月30日ミッドウェーの285度210浬において敵飛行艇を発見。
1942年(昭和17年)5月31日ミッドウェーの285度210浬において敵飛行艇を発見。
1942年(昭和17年)6月1日キューア島の170虔7浬において敵飛行艇を発見したほか天候報告。 のちキューア島に接近、偵察。
1942年(昭和17年)6月2日前夜半からミッドウェーに接近、陸上施設、哨戒境の発着状況などを偵察、天候報告をおこない待機。
1942年(昭和17年)6月3日以後、ミッドウェー付近に待機、天候報告に当たる。
1942年(昭和17年)6月5日ミッドウェーの東北東130浬に進出を下令され、移動したが、2300以前にイースタン島の航空施設の砲撃を下令され、引き返して2224、イースタン島南方4粁から砲撃したが、照射反撃を受け、射弾6発で退避した。
1942年(昭和17年)6月6日漂流中のアメリカ空母「ヨークタウン (Yorktown)」の撃沈を下令される。
1942年(昭和17年)6月7日「ヨークタウン」を発見。 距離900mで魚雷4本を発射。 「ヨークタウン」と駆逐艦「ハムマン ( Hammann)」を撃沈。
1942年(昭和17年)6月19日呉着。
1942年(昭和17年)6月25日〜26日呉から佐世保に回航。 入渠修理。
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内港西部において訓練および輸送実験を下令される。
1942年(昭和17年)11月7日〜8日佐世保から呉に回航、以後、内海西部において訓練、運貨筒の輸送実験に従事。
1942年(昭和17年)12月15日〜22日呉からトラックに進出。 補給待機。
1942年(昭和17年)12月22日先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する作戦輸送を下令される。
1942年(昭和17年)12月25日〜29日トラックからショートランドに進出。 輸送準備。
1942年(昭和17年)12月30日ショートランドからガダルカナル島に向かう。
1943年(昭和18年)1月1日ガダルカナル島カミンボ着、ゴム袋糧食15トンを揚陸したが、敢魚雷艇2隻に襲撃され、約6割で揚陸を中止、駆逐艦照月の乗員60名を収容して帰航。
1943年(昭和18年)1月3日ショートランドに帰着したが、漏油が大で、修理のため内地に帰投を下令される。
1943年(昭和18年)1月4日〜7日ショートランドからトラック着。
1943年(昭和18年)1月8日トラックから呉に向かう。
1943年(昭和18年)1月14日呉着。 入渠修理。
1943年(昭和18年)2月1日第十二潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第十二潜水隊)に編入。 アリューシャン列島方面の敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)2月22日呉から横須賀に向かう。
1943年(昭和18年)2月25日横須賀着。 補給待機。
1943年(昭和18年)3月5日〜10日横須賀から幌筵に進出。 補給待機。
1943年(昭和18年)3月13日幌筵からアッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)3月15日アッツ島着、弾薬を搭載して、同日キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)3月17日キスカ島東方10粁においてアメリカ潜水艦の雷撃を受けたが、回避。
1943年(昭和18年)3月18日キスカ島着、弾薬を揚陸、同日アムチトカ島に向かう。
1943年(昭和18年)3月20日アムチトカ島南方に進出。 索敵哨戒。
1943年(昭和18年)3月30日アムチトカ島南方を撒哨、キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月1日キスカ島に帰着、自艦用糧食6トンを揚陸、便乗者を収容して、同日幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)4月5日幌筵に着。 補給待機。
4月10日幌筵からアッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月13日アッツ島着、弾薬を搭載、同日キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月15日キスカ島着、弾薬を揚陸したのち、陸軍北海守備隊司令官を収容してアッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月17日アッツ島着、陸軍北海守備隊司令官が上陸したのち、糧食5トンおよび弾薬を搭載、キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月19日キスカ島着、弾薬等を揚陸したのち、アッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月21日アッツ島への入港を取り止め、キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月23日キスカ島着。 待機。
1943年(昭和18年)4月25日航空基地員および物件を収容、キスカ島からアッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)4月27日アッツ島着、揚陸ののち、陸軍北海守備隊司令官を収容して、キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)5月1日キスカ島着、陸軍北海守備隊司令官を上陸させたのち、同日、キスカ島から横須賀に向かう。
1943年(昭和18年)5月7日北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入
1943年(昭和18年)5月9日横須賀着。
1943年(昭和18年)5月11日〜12日横須賀から呉に回航。
1943年(昭和18年)7月12日呉からトラックに向かう。
1943年(昭和18年)7月20日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦輸送を下令される。
1943年(昭和18年)7月22日トラック着。 補給待機。
1943年(昭和18年)7月25日トラックからラバウルに向かう。
1943年(昭和18年)7月27日イザベル海峡での位置報告後、消息不明。 ニューハノーバー沖でアメリカ潜水艦「スキャンプ (Scamp)」 の雷撃を受け沈没。
1943年(昭和18年)9月10日ラバウル北方で亡失認定。
1943年(昭和18年)10月15日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p53,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p59
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p73
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p262-269