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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第百七十四潜水艦について

伊号第百七十四潜水艦は海大6型b(伊七十四型)潜水艦の6番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大6型b(伊七十四型)
建造所佐世保工廠
水上排水量 ※11,420トン(基準)/1,810トン(常備)
水中排水量 ※12,564トン
垂線間長98.40m
全長105.00m
最大幅8.20m
喫水4.60m
主機艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸
主電動機2基
蓄電池
出力9,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)
燃料重油:440トン
航続力16ノットで10,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中)
乗員68名
兵装45口径十一年式12cm単装砲1基
九三式13mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管4門(艦首)
2門(艦尾)
八九式魚雷14本
安全潜航深度85m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1934年(昭和9年)10月15日伊号第七十四潜水艦と命名。 
1934年(昭和9年)10月16日佐世保工廠において起工。 
1937年(昭和12年)6月28日進水。 
1938年(昭和13年)8月15日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 
1938年(昭和13年)12月18日第十一潜水隊(第二潜水戦隊・第二艦隊)に編入。
1939年(昭和14年)3月21日戦隊と佐世保発。 北支方面に向かう。
1939年(昭和14年)4月3日有明湾着
1939年(昭和14年)8月6日戦隊と宿毛沖から南洋方面に向かう。
1939年(昭和14年)8月26日岸和田沖に帰着。
1939年(昭和14年)11月15日第二潜水戦隊は解隊、第十一潜水隊は第三潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 
1940年(昭和15年)3月26日戦隊と中城湾発。 南支方面に向かう。
1940年(昭和15年)4月2日高雄着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。
1940年(昭和15年)9月21日横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。 
1941年(昭和16年)2月4日第十一潜水隊は第三潜水戦隊と高知沖から南洋方面に向かう。
1941年(昭和16年)3月3日高雄に到着。 
1941年(昭和16年)3月25日司令潜水艦を当艦から伊号第七十五潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)6月11日司令潜水艦を伊号第七十五潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の隠密偵察、機動部隊不時着機人員収容を下令される。
1941年(昭和16年)11月11日第三潜水部隊は佐伯湾からクェゼリンに何かう。 
1941年(昭和16年)11月20日第三潜水部隊はクェゼリンに到着、補給待機。 
1941年(昭和16年)11月23日13:30、クェゼリンからハワイ方面に向かう。 
1941年(昭和16年)12月1日部隊はハワイの800浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月7日ニイハウ島南方に到着、不時着搭乗員収容のため待機。 
1941年(昭和16年)12月8日部隊は開戦により、索敵を開始。 
1941年(昭和16年)12月9日パールハーバー湾口南方の外側D1哨区の西端に配備を下令され移動中、アメリカ航空母艦「エンタープライズ(Enterprise)」を発見、追跡したが見失う。
1941年(昭和16年)12月11日第三潜水部隊は18日18:00撤哨して、クェゼリンに帰投を下令される。 
1941年(昭和16年)12月16日帰途、キングマリンリーフの偵察を下令される。 
1941年(昭和16年)12月18日艦は撤哨して、キングマリンリーフに向かう。 
1941年(昭和16年)12月23日艦はキングマリンリーフに接近、偵察。 
1941年(昭和16年)12月25日艦はキングマリンリーフからクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)12月31日艦はクェゼリンに帰着、補給休養。 
1942年(昭和17年)1月8日艦はアリューシャン方面の要地偵察を下令される。 
1942年(昭和17年)1月10日アメリカ機動部隊がハワイ西方550浬において発見の報告により、第三潜水部隊は急遽出撃を下令される。 第三潜水戦隊司令官は将旗を特設潜水母艦「靖国丸」から当艦に移揚。
1942年(昭和17年)1月12日クェゼリンからハワイ方面に向かい、掃航索敵。 
1942年(昭和17年)1月20日部隊と解列して、アリューシャン方面に向かう。 
1942年(昭和17年)1月26日ウラナスカ島南方に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)1月29日ウラナスカ島南方において敵潜水艦を発見、艦は以後、西進。 
1942年(昭和17年)2月4日アムタク島付近に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)2月7日アムタタ島付近から撒哨、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)2月19日横須賀に帰着、補給休養。 
1942年(昭和17年)3月31日横須賀から呉に向かう。 
1942年(昭和17年)4月2日艦は呉に帰着、入渠修理。
1942年(昭和17年)4月10日第三潜水部隊は東束湾東方700浬付近のG散開線(北緯35度、東経161度付近)に進出、アメリカ機動部隊を警戒、掃航索敵を下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日部隊と呉から、G散開線に向かう。
1942年(昭和17年)4月18日対米艦隊作戦第三法発動を下令される。 部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 午後、部隊は東方に進撃を下令され、18:00、18節で進撃。 
1942年(昭和17年)4月19日第三潜水部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に退避した算大で、第三潜水部隊は16:30、北緯34度以北を偵察し、敵情がなければK散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 1700、漂流中の特設監視艇「岩手丸」の乗員を収容したのち、同艇を処分。 23:00、第三潜水部隊は20日22:00までにS散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)4月20日第三潜水部隊は12:00、18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで、14:00速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃と下令される。 19:00、対米艦隊作戦第三法止めを下令されたが、第三潜水部隊は引き続き警戒に当たるよう下令される。
1942年(昭和17年)4月21日第三潜水部隊はG散開線(犬吠埼東方950浬)に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)4月22日二等巡洋艦「木曾」と合同、救助した特設監視艇の乗員を移したのち解列した。 
1942年(昭和17年)4月29日G散開線を撤哨して、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月4日第三潜水部隊は13:30、アメリカ機動部隊の出現を警戒して、マーシャル北方300浬のM散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)5月5日第三潜水部隊は、N-5日頃までにミッドウェー−ハワイ間に配備、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)5月6日部隊とM散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)5月8日部隊とM散開線から撤哨し、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月10日クェゼリンに帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)5月14日5月20日付けで、伊号第百七十四潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月20日クェゼリンからN点に向かう。 
1942年(昭和17年)5月21日第三潜水部隊と、N-5日までに、ミッドウェー南東方の甲散開線(北緯20〜24度、西経167度)につき敵艦船を奇襲、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)5月30日N点に到着、待機。 
1942年(昭和17年)5月31日第二次K作戦は中止となり、艦はN点から離れた。 
1942年(昭和17年)6月1日ハワイ方面から撤収、甲散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月4日甲散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月5日第三潜水部隊と速やかに丙散開線(北緯30度20分〜27度、西経168度50分)の南半部に移動を下令され、北上。 
1942年(昭和17年)6月6日部隊と丙散開線に到着、索敵哨戒。 部隊と16:00から274度方向に進撃し、丙二散開線(北緯30度40分〜27度20分、西経174度)に到達すれば待機と下令される。 
1942年(昭和17年)6月7日第三潜水部隊とミッドウェー南方を通過し、S散開線(北緯27度20分〜26度20分、西経180度)に急速進撃を下令される。 部隊と反転し、S散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月8日敵機動部隊は7日夕刻、東方に引き揚げたものと判断され、散開線通過の算大として、警戒を下令される。 
1942年(昭和17年)6月9日部隊とS散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月13日敵機動部隊はミッドウェー東方にあるとの情報により、艦は部隊とV散開線(北緯27度〜29度、西経175度)に配備の移動を下令される。 部隊と朝から東方に向かい、索敵掃航。 
1942年(昭和17年)6月15日第三潜水部隊とクェゼリンに帰投を下令される。 部隊とV散開線に到達することなく反転、クェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)6月20日クェゼリンに帰着、補給休養。
1942年(昭和17年)6月29日集三潜水部隊は7月11日、クェゼリン発、ニューカレドニア、フィジー、サモア、オーストラリア東岸および南岸の敵海上交通破壊を下令される。 
1942年(昭和17年)7月ポートモレスビーの監視、オーストラリア東岸の海上交通破壊を下令される
1942年(昭和17年)7月9日クェゼリンからポートモレスビーの監視に向かう。 
1942年(昭和17年)7月19日ポートモレスビー沖に進出、監視任務についたが、漏油のため、撤収してラバウルに向かう。 
1942年(昭和17年)7月23日ラバウルに到着、応急修理。 
1942年(昭和17年)7月24日ラバウルからシドニー沖に向かう。 
1942年(昭和17年)7月31日シドニー沖に進出、索敵哨戒。 シドニー沖で敵輸送船を雷撃したが、効果がなかった。 
1942年(昭和17年)8月2日シドニー沖で敵輸送船を雷撃したが、効果がなかった。 
1942年(昭和17年)8月5日シドニー沖を離れ、オーストラリア東岸を移動索敵。 
1942年(昭和17年)8月7日敵輸送船を雷撃したが、効果がなかった。 第五潜水戦線は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 外南洋部隊(第八艦隊)に編入。 ツラギ方面来襲の敵攻撃を下令される。 オーストラリア東岸からツラギ方面に向かう。 
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(弟八艦隊)は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月10日ニューカレドニア島北端に到達、サンクリストバル島西方に向かう。 
1942年(昭和17年)8月14日サンクリストバル島西方に進出、索敵したか会敵せず、ラバウルに回航を下令され、撤哨帰航。 
1942年(昭和17年)8月17日ラバウルに帰着、補給修理。 
1942年(昭和17年)8月21日第三潜水戦隊は南東方面部隊(第十一航空艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、南東方面部隊の作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日準備出来次第出撃し、第三潜水部隊とレンネル島西方のB散開線(南緯12度0分、東経159度20分〜南緯12度20分、東経158度20分)に配備、待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)8月23日ラバウルからB散開線に向かう。
1942年(昭和17年)8月24日第三潜水部隊とサンクリストバル島南方のF散開線(南緯12度20分、東経162度〜東経163度)に、急遽配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月25日第三潜水部隊とF2散開線(南緯13度、東経162度40分〜東経162度20分)に配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)8月27日第三潜水部隊とF2散開線に到着、索敵哨戒。 8:30、先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止と、補給路遮断のため、同島付近に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月29日マライタ島とサンクリストバル島の中間、南緯10度、東経181度40分の監視哨区に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月31日インディスペンサブル海峡において、敵輸送艦1隻と駆逐艦1隻を発見と報告。
1942年(昭和17年)9月1日インディスペンサブル海峡において、敵駆逐艦多数を発見。
1942年(昭和17年)9月2日インディスペンサブル海峡において、敵駆逐艦2隻を発見。 雷撃したが効果がなかった。 ルンガ泊地を偵察。
1942年(昭和17年)9月3日先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に復帰。 第七潜水部隊と交替して、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)9月4日軸受故障のため、沈座して応急措置にあたる。
1942年(昭和17年)9月6日第三潜水部隊は第一潜水戦隊司令官の指揮下に入る。
1942年(昭和17年)9月10日サンクリストバル島北方において、20:30に駆逐艦1隻を発見。
1942年(昭和17年)9月13日サンクリストバル島とレンネル島の中間において、20:20、敵巡洋艦または駆逐艦2隻を発見した。
1942年(昭和17年)9月15日第三潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)第一監視部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、インディスペンサブル海峡に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)9月17日隊主力(当艦と伊号第百七十五潜水艦)は日没後、撤哨してトラックに帰投を下令される。 
1942年(昭和17年)9月22日トラックに帰投。 補給休養。
1942年(昭和17年)10月4日甲潜水部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、引き続き、整備休養を下令される。
1942年(昭和17年)10月8日準傭出来次第、トラック発、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)10月16日トラックからインディスペンサブル海峡に向かう。
1942年(昭和17年)10月19日先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。 インディスペンサブル礁西方のK散開線に配備を下令される。 乙潜水部隊はY日(22日の予定)、ガダルカナル島総攻撃に応じて、Y-1日零時から南東方に掃航、戊散開線(南緯18度30分、東経160度10分〜南緯18度10分、東経162度10分)に到達するよう下令される。
1942年(昭和17年)10月20日Y日は22日と下令される。 K散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)10月21日甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かう。 乙潜水部隊はY日の延期により、戊散開線到達を一日遅らせ、M散開線において待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)10月22日Y日の1日延期を下令される。 部隊と反転、1:00、G散開線に到着、索敵哨戒。 R方面航空部隊の哨戒機は南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦基幹の敵艦隊を発見。 乙潜水部隊は12:30、M散開線に配備、Y日黎明時まで待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)10月23日Y日は更に一日延期を下令される。 甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かったが、Y日の再延期により、途中の散開線に留まり待敵。 
1942年(昭和17年)10月24日乙潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)10月25日敵艦隊は26日、ガダルカナル島南東海面に出現の算大と判断され、乙潜水部隊はインディスペンサブル礁南方のY散開線に配備を下令される。 艦は部隊と反転北上。 
1942年(昭和17年)10月26日乙潜水部隊はサンタクルーズ諸島北方の敵空母を攻撃のため、11:42、230度方向に水上進撃を下令される。 艦は部隊と18:15以降、水上進撃に入ったため、追撃が遅れた。
1942年(昭和17年)10月27日乙潜水部隊の伊号第二十四潜水艦ほか2隻は、0:50から3:30にかけて敵大部隊を発見、伊号第二十一潜水艦は南緯15度30分、東経160度42分において敵部隊を攻撃。 敵機動部隊はヌーメアに帰投するものと判断して、艦は部隊と追跡したが、会敵できなかった。 
1942年(昭和17年)10月31日乙潜水部隊から除かれる。 先遣部隊直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、トラックに帰投を下令され、北上帰航。 
1942年(昭和17年)11月4日トラックに帰着、補給。 
1942年(昭和17年)11月5日内地に帰投、整備修理を下令される。 
1942年(昭和17年)11月6日トラックから呉に向かう。 
1942年(昭和17年)11月12日呉に帰着、入渠修理、整備休養。 
1942年(昭和17年)12月24日司令潜水艦を当艦から伊号第百七十六潜水艦に変更。 
1943年(昭和18年)3月12日司令潜水艦を伊号第百七十六潜水艦から当艦に変更。 
1943年(昭和18年)3月15日第十一潜水隊は解隊、第十二潜水隊(第三潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)3月呉工廠から出渠、のち内海西部で訓練。
1943年(昭和18年)5月5日呉発。 トラックに向かう。
1943年(昭和18年)5月11日トラックに到着、補給待機。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オーストラリア東方の敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)5月16日トラック発。 オーストラリア東方海域に向かう。
1943年(昭和18年)6月4日ブリスベン付近のモレトン湾東方20浬において、アメリカ貨物船「エドワード・チェンバーズ(EdwardChambers、4,113トン)」を砲撃したが、効果がなかった。
1943年(昭和18年)6月16日カッフス港南東60浬において、アメリカ貨物船「ポートマー(Portmar、5,551トン)」を雷撃により撃沈、同時にアメリカ戦車揚陸艦「LST-469(1,652トン)を雷撃により撃破。
1943年(昭和18年)7月1日トラックに帰着。 整備休養。
1943年(昭和18年)8月6日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第悌七潜水戦隊)に編入。 東部ニューギニア方面に対する作戦輸送を下令される。
1943年(昭和18年)8月9日〜13日トラックからラバウルに進出、輸送準備。
1943年(昭和18年)8月14日〜17日ラバウルから東部ニューギニアのラエ沖に到着、輸送人員と物件を揚陸、帰航。 
1943年(昭和18年)8月19日ラバウルに帰着、輸送準備。
1943年(昭和18年)8月23日〜26日ラバウルからラエ沖に到着、輸送人員と物件を揚陸、帰航。 
1943年(昭和18年)8月28日ラバウルに帰着、輸送準備。
1943年(昭和18年)8月31日ラバウルからラエ沖に向かったが、途中、敵機の制圧爆撃と敵潜水艦の雷撃を受けたが、回避。 
1943年(昭和18年)9月2日ラエ沖に到着、輸送物件、人員を揚陸、帰航したが、帰途も敵機の制圧爆撃を受けた。 
1943年(昭和18年)9月4日ラバウルに帰着、輸送準備。
1943年(昭和18年)9月7日ラバウルからラエ沖に向かったが、途中、数回にわたり敵機の制圧爆撃を受けたが、回避。 
1943年(昭和18年)9月9日ラエ沖に到着、輸送物件、人員を揚陸、帰航。
1943年(昭和18年)9月10日ラエからの帰途、敵駆逐艦の攻撃を受け、爆雷26個を投下されたが回避。
1943年(昭和18年)9月15日第三潜水戦隊は解隊、第十二潜水隊は第六艦隊に編入。
1943年(昭和18年)9月19日ラバウルからフィンシュハーフェンに向かったが、途中、敵機の制圧を受けた。
1943年(昭和18年)9月21日フィンシュハーフェンに到着、輸送物件を揚陸、帰航。
1943年(昭和18年)9月22日アント岬方面に配備を下令され、反転。
1943年(昭和18年)9月24日撒哨して、ラバウルに向け帰航。
1943年(昭和18年)9月26日ラバウルに帰着、輸送準備。
1943年(昭和18年)9月30日ラバウルから東部ニューギニア北岸のシオに向かう。
1943年(昭和18年)10月2日シオに到着、輸送物件を揚陸、帰航。
1943年(昭和18年)10月4日ラバウルに帰着、輸送準備。 伊号第十六潜水艦がラバウルに回航後に交替、11日付で、先遣部隊に復帰の予定で、トラックに帰投を下令される。
1943年(昭和18年)10月6日ラバウルからシオに向かったが、途中、敵機の制圧を受けた。
1943年(昭和18年)10月7日伊号第十六潜水艦との交替を取り消される。
1943年(昭和18年)10月8日シオに到着、輸送物件を揚陸、帰航。 再び、伊号第十六潜水艦との交替を下令される。
1943年(昭和18年)10月10日ラバウルに帰着、待機。
1943年(昭和18年)10月11日南東方面部隊(南東方面艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入。 第六艦隊司令長官の直率下に、トラックに帰投を下令される。
1943年(昭和18年)10月14日〜17日ラバウルからトラックに帰着。 補給休養。
1943年(昭和18年)11月19日アメリカ軍のギルバート諸島来攻により、丙作戦第三法警戒を下令される。 先遣部隊は速やかに、なるべく多数の潜水艦をギルバート諸島方面に配備するよう下令される。
1943年(昭和18年)11月20日丙作戦第三法用意を下令される。 甲潜水部隊に編入、第二潜水隊司令の指揮下に入り、ギルバート諸島方面に急行を下令される。 
1943年(昭和18年)11月21日アメリカ軍のマキン、タラワ上陸により、丙作戦第三法発動を下令される。 
1943年(昭和18年)11月24日トラックからギルバート諸島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)11月26日マキン・ミレ両島間のA散開線(基点:北緯3度48分、東経172度07分、 待敵方向:150度、間隔:25浬)の西端に配備を下令される。 
1943年(昭和18年)11月27日マキン島西方のB散開線の西端(北緯8度50分、東経171度42分)に配備を下令される。
1943年(昭和18年)11月29日マキン島の港口を扼するよう下令される。
1943年(昭和18年)12月1日味方哨戒機はマキンに向かう敵船団6隻を発見、艦はこの船団の攻撃を下令される。 21:34、敵船団を捕捉できない時は、マキン港口の配備につくよう下令される。
1943年(昭和18年)12月2日タラワ島東方のD散開線(基点:北緯1度37分、東経174度08分、待敵方向:50度、距離:25浬)の中央に配備を下令される。 マキン島付近から配備を移動。 
1943年(昭和18年)12月3日19:24、F散開線(D散開線の140度120浬)に配備を下令される。
1943年(昭和18年)12月4日丙作戦第三法の終結を下令される。 甲潜水部隊の編成を解かれ、先遣部隊第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、カントン−パナマ間の敵海上交通破壊を下令される。 タラワ東方130浬付近において、敵機および駆逐艦の攻撃を受け爆雷37個を投下され、船体を損傷。
1943年(昭和18年)12月5日損傷のため戦闘航海に支障がある旨を報告。 
1943年(昭和18年)12月6日トラックに帰投を下令される。 タラワ東方から、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)12月13日トラックに帰着、応急修理休養。
1943年(昭和18年)12月18日先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入。 内地に帰投、修理を下令される。 
1943年(昭和18年)12月23日トラックから呉に向かう。 
1943年(昭和18年)12月30日呉に帰着、入渠修理。 
1944年(昭和19年)3月13日〜14日神戸から呉に回航、以後、訓練に当たる。 
1944年(昭和19年)3月19日先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、敵艦隊攻撃を下令される。 
1944年(昭和19年)3月30日アメリカ機動部隊の西カロリン諸島来襲により、丙作戦第六法および丁作戦警戒を下令される。 内地所在潜水艦は、パラオ方面に進出を下令される。
1944年(昭和19年)4月2日艦は呉を出航、広島湾において待機。 
1944年(昭和19年)4月3日先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、パラオ方面に出撃、アメリカ機動部隊の索敵を下令される。広島湾からパラオ東方に向かう。 
1944年(昭和19年)4月4日アメリカ機動部隊は北上の算がありとして、その警戒のため、所在点から90度方向300浬に掃航索敵を下令される。
1944年(昭和19年)4月6日パラオ東方への進出を取り止め、ブラウン東方に進出を下令される。 転針してブラウン東方に向かう。
1944年(昭和19年)4月7日先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊の編成を解かれ、同第一潜水部隊に復帰、既令任務の続行を下令される。 
1944年(昭和19年)4月10日前日カビエン北方において発見された敵大部隊を警戒のため、トラック南方に配備を変更され、転針してトラック南方に向かう。
1944年(昭和19年)4月11日17:46、行動予定を求められたが、応答がなく消息を絶つ。
1944年(昭和19年)4月13日撤哨してトラックに帰投を下令されたが、未帰還となる。トラック南方で亡失認定。
1944年(昭和19年)6月10日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p58,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p74
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p332-341