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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第百七十五潜水艦について

伊号第百七十五潜水艦は海大6型b(伊七十四型)潜水艦の7番艦である。

要目(1)(2)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大6型b(伊七十四型)
建造所三菱重工業神戸造船所
水上排水量 ※11,420トン(基準)/1,810トン(常備)
水中排水量 ※12,564トン
垂線間長98.40m
全長105.00m
最大幅8.20m
喫水4.60m
主機艦本式1号甲8型ディーゼル2基、2軸
主電動機2基
蓄電池
出力9,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)
燃料重油:440トン
航続力16ノットで10,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中)
乗員68名
兵装45口径十一年式12cm単装砲1基
九三式13mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管4門(艦首)
2門(艦尾)
八九式魚雷14本
安全潜航深度85m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(4)

年月日履歴
1934年(昭和9年)11月1日起工。
1934年(昭和9年)10月15日伊号第七十五潜水艦と命名。
1934年(昭和9年)11月1日三菱重工業神戸造船所において起工。 
1936年(昭和11年)6月16日進水。 
1938年(昭和13年)12月18日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 呉鎮守府部隊に編入。 第十一潜水隊(第二潜水戦隊・第二艦隊)に編入。 
1939年(昭和14年)3月21日戦隊と佐世保発。 北支方面に向かう。
1939年(昭和14年)4月3日有明湾着
1939年(昭和14年)8月6日戦隊と宿毛沖から南洋方面に向かう。
1939年(昭和14年)8月26日岸和田沖に帰着。
1939年(昭和14年)11月15日第二潜水戦隊は解隊、第十一潜水隊は第三潜水戦隊(第二艦隊)に編入。 
1940年(昭和15年)3月26日戦隊と中城湾発。 南支方面に向かう。
1940年(昭和15年)4月2日高雄着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。
1940年(昭和15年)9月21日横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第三潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。 
1941年(昭和16年)2月4日第十一潜水隊は第三潜水戦隊と高知沖から南洋方面に向かう。
1941年(昭和16年)3月3日高雄に到着。 
1941年(昭和16年)3月25日司令潜水艦を第七十四潜水艦から当艦に変更。
1941年(昭和16年)6月11日司令潜水艦を当艦から伊号第七十四潜水艦に変更。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。
1941年(昭和16年)11月5日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。
1941年(昭和16年)11月10日第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入。 オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の隠密偵察、機動部隊不時着機人員収容を下令される。
1941年(昭和16年)11月11日第三潜水部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。
1941年(昭和16年)11月20日第三潜水部隊はクェゼリン着。 補給待機。
1941年(昭和16年)11月23日クェゼリンからハワイ方面に向かう。
1941年(昭和16年)12月1日部隊はハワイの800浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月7日パールハーバー湾口南方の外側D1哨区に到着、待機
1941年(昭和16年)12月8日部隊は開戦により、索敵を開始。 
1941年(昭和16年)12月11日第三潜水部隊は18日18:00撤哨して、クェゼリンに帰投を下令される。 
1941年(昭和16年)12月13日アメリカ艦艇を誘出のため、マウイ島北方からヒロ沖にかけて、敵艦船攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)12月16日12:30〜13:18の間、マウイ島カルフイ泊地を沖合4キロから砲撃(16発)し、繋船2隻、哨戒艇1隻を撃沈と報告。 クェゼリンへの帰途、パルミラ島の砲撃を下令される。 
1941年(昭和16年)12月17日ハワイ島カルアイ沖において、監視哨戒。 
1941年(昭和16年)12月18日13:15、ハワイ島の南東100浬付近において、アメリカ貨物船「マニニ(Manini、3,252トン)」を雷撃したが、斜進して外れ、浮上して雷撃、撃沈。 撤哨して、パルミラ島に向かう。 
1941年(昭和16年)12月24日薄暮、パルミラ島に接近、13:45、沖合4キロから6分間砲撃(14発)して、発電所らしきものを破壊したが、陸上砲台から反撃を受け、13:55、退避してクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)12月31日クェゼリンに帰着、補給休養。 
1942年(昭和17年)1月8日アリューシャン方面の要地偵察を下令される。 
1942年(昭和17年)1月10日アメリカ機動部隊がハワイ西方550浬において発見の報告により、第三潜水部隊は急遽出撃を下令される。 
1942年(昭和17年)1月12日クェゼリンからハワイ方面に向かい、掃航索敵。 
1942年(昭和17年)1月20日部隊と解列して、アリューシャン方面に向かう。 
1942年(昭和17年)1月26日アトカ島南方から同北方に迂回、西進索敵。 
1942年(昭和17年)1月28日アトカ島沖において索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)2月2日艦はアトカ島ナザン湾を偵察。 
1942年(昭和17年)6月8日キスカ島を偵察。 
1942年(昭和17年)6月9日キスカ島付近から撤収、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)2月11日帰途、アメリカ機動部隊を警戒し、本州東方の索敵掃航を下令される。 
1942年(昭和17年)2月19日横須賀に帰着、補給休養。 
1942年(昭和17年)3月31日横須賀から呉に向かう。 
1942年(昭和17年)4月2日呉着。 入渠修理。
1942年(昭和17年)4月10日第三潜水部隊は東京湾東方700浬付近のG散開線(北緯35度、東経161度付近)に進出、アメリカ機動部隊を警戒、掃航索敵を下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日部隊と呉から、G散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)4月18日対米艦隊作戦第三法発動を下令される。 部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につきアメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 午後、部隊は東方に進撃を下令され、16:30、18節で進撃。
1942年(昭和17年)4月19日第三潜水部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に退避した算大で、第三潜水部隊は16:30、北緯34度以北を偵察し、敵情がなければK散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 23:00、第三潜水部隊は20日22:00までにS散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)4月20日第三潜水部隊は12:00、18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで、14:00速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃と下令される。 19:00、対米艦隊作戦第三法止めを下令されたが、第三潜水部隊は引き続き警戒に当たるよう下令される。
1942年(昭和17年)4月21日第三潜水部隊はG散開線(犬吠埼東方950浬)に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)5月4日第三潜水部隊は13:30、アメリカ機動部隊の出現を警戒して、マーシャル北方300浬のM散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)5月5日第三潜水部隊は、N-5日頃までにミッドウェー−ハワイ間に配備、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)5月6日部隊とM散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)5月8日部隊とM散開線から撤哨し、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月10日クェゼリンに帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)5月14日5月20日付けで、伊号第百七十五潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月20日クェゼリンからジョンストン島を経て、ハワイへ向かう。
1942年(昭和17年)5月21日第三潜水部隊と、N-5日までに、ミッドウェー南東方の甲散開線(北緯20〜24度、西経167度)につき敵艦船を奇襲、ミッドウェー攻略作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)5月30日オアフ島南西80浬に到着、待機。
1942年(昭和17年)5月31日第二次K作戦は中止となり、艦はオアフ島沖から離れた。 
1942年(昭和17年)6月1日ハワイ方面から撤収、甲散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月4日甲散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月5日第三潜水部隊と速やかに丙散開線(北緯30度20分〜27度、西経168度50分)の南半部に移動を下令され、北上。 
1942年(昭和17年)6月6日部隊と丙散開線に到着、索敵哨戒。 部隊と16:00から274度方向に進撃し、丙二散開線(北緯30度40分〜27度20分、西経174度)に到達すれば待機と下令される。 
1942年(昭和17年)6月7日第三潜水部隊とミッドウェー南方を通過し、S散開線(北緯27度20分〜26度20分、西経180度)に急速進撃を下令される。 部隊と反転し、S散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月8日敵機動部隊は7日夕刻、東方に引き揚げたものと判断され、散開線通過の算大として、警戒を下令される。 
1942年(昭和17年)6月9日部隊とS散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月13日敵機動部隊はミッドウェー東方にあるとの情報により、艦は部隊とV散開線(北緯27度〜29度、西経175度)に配備の移動を下令される。 部隊と朝から東方に向かい、索敵掃航。 
1942年(昭和17年)6月15日第三潜水部隊とクェゼリンに帰投を下令される。 部隊とV散開線に到達することなく反転、クェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)6月20日クェゼリンに帰着、補給休養。
1942年(昭和17年)6月29日集三潜水部隊は7月11日、クェゼリン発、ニューカレドニア、フィジー、サモア、オーストラリア東岸および南岸の敵海上交通破壊を下令される。 
1942年(昭和17年)7月シドニー以北のオーストラリア東岸の海上交通破壊を下令される
1942年(昭和17年)7月8日クェゼリンからオーストラリア東岸に向かう。
1942年(昭和17年)7月20日シドニー沖に進出、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)7月23日シドニー付近の南緯33度03分、東経152度22分において、オーストラリア貨物船「アラーラ(Allara、3,279トン)」を雷撃により撃破。
1942年(昭和17年)7月24日ニューキャッスル北東90浬において、オーストラリア貨物船「ムラダ(Murada、3,345トン)」を雷撃し撃沈。
1942年(昭和17年)7月25日以降、北緯35度以北において、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)7月28日ニューキャッスル北東75浬において、フランス貨物船「カグー(Cagou、2,795トン)」を雷撃により撃破。
1942年(昭和17年)8月7日ジャービス湾南方から撤哨して、北上索敵。 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 外南洋部隊(第八艦隊)に編入。 ツラギ方面来襲の敵攻撃を下令される。 オーストラリア東岸からツラギ方面に向かう。
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月10日ニューカレドニア島北端に到達、サンクリストバル島西方に向かう。
1942年(昭和17年)8月14日旋はサンクリストバル島西方に進出、索敵したが会敵せず、ラバウルに回航を下令され、撤哨帰航。 
1942年(昭和17年)8月17日ラバウルに帰着、補給修理。 
1942年(昭和17年)8月21日第三潜水戦隊は南東方面部隊(第十一航空艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、南東方面部隊の作戦に協力を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日準備出来次第出撃し、第三潜水部隊とレンネル島西方のB散開線(南緯12度0分、東経159度20分〜南緯12度20分、東経158度20分)に配備、待敵を下令される。 ラバウルからB散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)8月24日第三潜水部隊とサンクリストバル島南方のF散開線(南緯12度20分、東経162度〜東経163度)に、急遽配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月25日第三潜水部隊とF2散開線(南緯13度、東経162度40分〜東経162度20分)に配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)8月27日第三潜水部隊とF2散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)8月28日第三潜水部隊とH散開線(南緯11度08分、東経164度52分〜南緯12度20分、東経163)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)9月1日先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止と、補給路遮断のため、同島方面に配備を下令される。 散開線から、インディスペンサブル海峡に向かう。 
1942年(昭和17年)9月3日先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に復帰、第七潜水部隊と交替して、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。
1942年(昭和17年)9月6日第三潜水部隊は第一潜水戦隊司令官の指揮下に入る。 
1942年(昭和17年)9月10日カダルカナル島泊地に侵入、索敵。 
1942年(昭和17年)9月14日ガダルカナル島南端東方において、敵船団と遭遇したが、敵駆逐艦の警戒により、攻撃できなかった。 
1942年(昭和17年)9月15日第三潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)第一監視部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、インディスペンサブル海峡に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。 
1942年(昭和17年)9月17日部主力(当艦と伊号第百七十四潜水艦)は日没後、撤哨してトラックに帰投を下令される。 
1942年(昭和17年)9月21日トラックに帰着、補給休養。
1942年(昭和17年)10月4日甲潜水部隊に編入、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、引き続き、整備休養を下令される。 
1942年(昭和17年)10月8日準備出来次第、トラック発、ガダルカナル島に対する敵増援遮断を下令される。 
1942年(昭和17年)10月16日トラックからインディスペンサブル海峡に向かう。 
1942年(昭和17年)10月19日先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。 インディスペンサブル礁西方のK散開線に配備を下令される。 乙潜水部隊はY日(22日の予定)、ガダルカナル島総攻撃に応じて、Y-1日零時から南東方に掃航、戊散開線(南緯18度30分、東経160度10分〜南緯18度10分、東経162度10分)に到達するよう下令される。
1942年(昭和17年)10月20日Y日は22日と下令される。 K散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)10月21日甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かう。 乙潜水部隊はY日の延期により、戊散開線到達を一日遅らせ、M散開線において待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)10月22日Y日の1日延期を下令される。 部隊と反転、1:00、G散開線に到着、索敵哨戒。 R方面航空部隊の哨戒機は南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦基幹の敵艦隊を発見。 乙潜水部隊は12:30、M散開線に配備、Y日黎明時まで待敵を下令される。 
1942年(昭和17年)10月23日Y日は更に一日延期を下令される。 甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かったが、Y日の再延期により、途中の散開線に留まり待敵。 
1942年(昭和17年)10月24日乙潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)10月25日敵艦隊は26日、ガダルカナル島南東海面に出現の算大と判断され、乙潜水部隊はインディスペンサブル礁南方のY散開線に配備を下令される。 艦は部隊と反転北上。 
1942年(昭和17年)10月26日乙潜水部隊はサンタクルーズ諸島北方の敵空母を攻撃のため、11:42、230度方向に水上進撃を下令される。 艦は部隊と18:15以降、水上進撃に入ったため、追撃が遅れた。
1942年(昭和17年)10月27日乙潜水部隊の伊号第二十四潜水艦ほか2隻は、0:50から3:30にかけて敵大部隊を発見、伊号第二十一潜水艦は南緯15度30分、東経160度42分において敵部隊を攻撃。 敵機動部隊はヌーメアに帰投するものと判断して、艦は部隊と追跡したが、会敵できなかった。 
1942年(昭和17年)10月31日乙潜水部隊から除かれる。 先遣部隊丁潜水部隊に編入、第七潜水戦隊司令官の指揮下に、サンクリストバル島北東海面に散開、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。 
1942年(昭和17年)11月14日先遣部隊直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、トラックに帰投を下令される。 
1942年(昭和17年)11月15日サンクリストバル島北東海面からトラックに向かう。 
1942年(昭和17年)11月19日艦はトラックに帰着、補給。 
1942年(昭和17年)11月20日トラックにおいて「日新丸」に触衝される。 艦は内地に帰投、整備修理を下令される。 
1942年(昭和17年)11月21日トラック発、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)11月29日呉に帰着、補給整備。 
1942年(昭和17年)12月3日〜5日呉から横須賀に回航。 入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)3月16日第十一潜水隊は解隊、第十二潜水隊(第三潜水戦隊・第六艦隊)に編入。
1943年(昭和18年)4月17日横須賀から呉に回航、補給、訓練。 
1943年(昭和18年)5月13日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)に編入、アッツ島来攻の敵艦船の撃破を下令される。
1941年(昭和16年)5月15日北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、敵退路遮断、敵艦船攻撃ほかを下令される。 司令潜水艦を伊号第百七十一潜水艦から当艦に変更。 
1941年(昭和16年)5月17日〜19日1:00呉発、横須賀に回航、補給待機。
1943年(昭和18年)5月21日横須賀からアッツ島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)5月27日アッツ島北方の配備点に到着、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)5月30日北方部隊潜水部隊はケ号作戦により、キスカ島守備隊の撤収輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)5月31日カナガ島北東方のY散開線に配備を下令され、移動。 
1943年(昭和18年)6月2日Y散開線に到着、索敵哨戒。 3日18:00撤哨して、キスカ島に向かうよう下令される。 18:00、Y散開線を撤哨して、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)6月6日19:00、キスカ島に到着、兵器弾薬1トン、糧食15トンを揚陸、撤収員60名(陸軍6、海軍54)を収容、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)6月10日幌筵に帰着、撤収員を揚陸、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月13日幌筵からキスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)8月17日キスカ島に到着、兵器弾薬10トン、糧食8トンを揚陸、撤収員60(軍属)を収容、幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)6月20日幌筵に帰着、撤収員を揚陸、輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月21日北方部隊潜水部隊はケ号作戦の中止を下令される。 
1943年(昭和18年)6月24日幌筵からアムチトカ島方面に向かう。 司令潜水艦を当艦から伊号第百六十九潜水艦に変更。 
1943年(昭和18年)6月28日北方部隊潜水部隊監視隊に編入、第一潜水戦隊司令官の指揮下にケ号第二期作戦に協力、要地監視、敵艦隊攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)7月7日アムチトカ水道南方の監視配備につく。 
1943年(昭和18年)7月15日西経175度以西の東部アリューシャン方面において、以降、敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)7月18日24日零時までに、キスカ島南方の東経178度線上のE散開線に配備を下令される。
1943年(昭和18年)7月24日E散開線に到着、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)7月30日キスカ島南方の東西線のFE散開線につき、敵艦隊攻撃を下令される。 北方部隊潜水部隊は17:22、ケ号作戦の成功により、撒哨して幌筵に帰投を下令される。 キスカ島南方から幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)8月2日幌筵に帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)8月3日北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、次期作戦準備のため、内地に帰投整備を下令される。
1943年(昭和18年)8月4日幌筵から呉に向かう。
1943年(昭和18年)8月10日呉に帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)9月15日第三潜水戦隊は解隊、第十二潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内南洋方面に進出を下令される。
1943年(昭和18年)9月19日〜呉からトラックに進出。 補給待機。
1943年(昭和18年)10月16日丙作戦第五法警戒を下令される。 甲潜水部隊に編入、第二潜水隊司令の指揮下に、ウェーク島東方のT散開線(北緯21度38分、東経171度02分〜北緯23度22分、東経169度58分)の中央に配備、昼間は潜航、待敵を下令される。 トラックからT散開線に向かう。
1943年(昭和18年)10月23日甲潜水部隊と零時、南東方に掃航、戊散開線に向かう。 乙潜水部隊はY日の延期により、戊散開線到達を一日遅らせ、M散開線において待敵を下令される。 ハワイ方面に配備を下令される。
1943年(昭和18年)10月25日T散開線から撤哨して、オアフ島南方300浬付近に向かう。
1943年(昭和18年)11月オアフ島南方300浬付近に進出、索敵哨戒。
1943年(昭和18年)11月13日甲潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下にトラック帰投を下令される。 ハワイ西方を撤哨し、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)11月19日アメリカ機動部隊のギルバート諸島来攻により、丙作戦第三法警戒を下令される。 甲潜水部隊に編入、第二潜水隊司令の指揮下に、ギルバート諸島方面に急行、A散開線(北緯12度、東経174度20分〜北緯1度00分、東経174度20分)の北から2番目に配置を下令される。
1943年(昭和18年)11月20日丙作戦第三法用意を下令される。 
1943年(昭和18年)11月21日アメリカ軍はマキン、タラワに上陸。 丙作戦第三法発動を下令される。 マキン島に急行を下令される。
1943年(昭和18年)11月22日タラワ環礁ベシオ島北西20浬圏内の内側A哨区に配備を下令される。
1943年(昭和18年)11月23日当分の間、マキン島付近に配備を下令される。
1943年(昭和18年)11月25日1:35、マキン島北西約20浬において、アメリカ機動部隊を発見、攻撃。 アメリカ護衛空母「リスカム・ベイ(LiscomeBay)」を雷撃、撃沈。 以後6時間にわたり、アメリカ駆逐艦の爆雷攻撃(34発)を受け、若干の損傷を受けたが離脱。
1943年(昭和18年)11月26日北上中の空母を雷撃、3本が命中、撃沈と報告。 クェゼリンに回航、伊号第三十二潜水艦から、トラック帰投に必要な最小限の燃料を補給、トラックに帰投を下令される。 マキン島付近を撤哨しクェゼリンに向かう。
1943年(昭和18年)11月27日クェゼリン着。 伊号第三十二潜水艦から補給を受ける。 
1943年(昭和18年)11月28日クェゼリンからトラックに向かう。
1943年(昭和18年)12月1日トラックに帰着、補給休養。特設工作艦「浦上丸」に横付け修理。 休養。
1943年(昭和18年)12月4日丙作戦第三法終結を下令される。 甲潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に、トラックにおいて整備を下令される。
1944年(昭和19年)1月26日オーシャン島に糧食の輸送を下令される。 オーシャン島に糧食を輸送したのち、マーシャル諸島東方に向かい、索蔽哨戒を下令される。 
1944年(昭和19年)1月27日トラックからオーシャン島に向かう。 
1944年(昭和19年)1月30日アメリカ軍のマーシャル諸島来攻により、丙作戦第二法用意を下令される。 輸送を中止して、ウォッゼの30度200浬に進出を下令される。 
1944年(昭和19年)1月31日クェゼリン付近に至り、適宜敵艦船の攻撃を下令される。 
1944年(昭和19年)2月10日機宜、配備をウォッゼ−マロエラップ間の東方海面に移し、敵艦船の攻撃を下令される。 艦はこの間、連絡がなく、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)2月17日アメリカ軍の資料によれば、早朝、船団護衛中の護衛駆逐艦ニコラス(Nicholas)が、ウォッゼ東方においてレーダー探知。 接近して視認。 2,000ヤードで砲撃命中、潜没後にソナー探知。 爆雷攻撃3回により、北緯10度34分、東経173度31分において、撃沈された。
1944年(昭和19年)3月26日中部太平洋方面水域において喪失認定。
1944年(昭和19年)7月10日除籍。

参考資料

  1. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p58,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  2. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  3. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p74
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p341-350