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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1972年(昭和47年)9月11日建立。 合祀者167柱。(1)

駆逐艦敷波戦没者慰霊碑

駆逐艦敷波について

敷波は吹雪型駆逐艦の12番艦である。 吹雪型駆逐艦は特型駆逐艦とも呼ばれる。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかけて漸減させる作戦を打ち出した。 この場合でも、彼我の建造能力を考慮する必要があり、その結果、個艦性能の優越を重視するようになった。 このため軍令部は新型駆逐艦に対して、12.7cm砲6門、61cm魚雷9射線、速力37ノットの要求を出した。 これをうけた艦政本部は「特型駆逐艦対策委員会」を設置し、新型駆逐艦の検討を実施し、軍令部要求を基準排水量1,680トンでまとめあげた。

峯風型から睦月型jまでの駆逐艦が艦橋直前に1段下がったウエルデッキを設け、ここで波浪を受け止めて艦橋への直撃を避けていたのに対し、吹雪型では長船首楼型とし、乾絃を大きくとり、艦首に強いシアとフレアを設けて凌波性を向上させた。 主砲は連装3基6門とし、砲塔形式のシールドに収め、前部1基、後部2基の配置とした。 魚雷発射管は3連装3基9射線とし魚雷は予備を含め18本を搭載した。 この艦形と主砲配置は、その後の日本駆逐艦の基礎となり、夕雲型まで引き継がれた。

軍令部要求の重武装と高速力発揮の機関を基準排水量1,680トンに収めるために、外板厚の減少、軽合金の使用等、徹底した重量軽減策が講じられたが、1928年(昭和3年)8月10日に竣工した1番艦吹雪は、公試排水量が1,980トンの計画に対し、2,097トンと大幅に超過していた。 しかし、速力は最大37.98ノットを記録し、航洋性にも問題はなかった。 ところが、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件による復原性能の改善、1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等が実施されることとなった。 特に吹雪型駆逐艦は第四艦隊事件で2隻が船体破断、他の艦も船体屈曲や亀裂が発生したため、徹底的な改善対策がなされた。 このため、兵装は保たれたものの、排水量の増大により速力と航続力が低下した。

開戦時には第十九駆逐隊に所属してマレー半島攻略作戦に参加した。 1942年(昭和17年)に入ると、パレンバン、ジャワ、アンダマン攻略作戦に参加、6月にはミッドウェー作戦に主力部隊の護衛として参加した。 8月にガダルカナル戦が生起するとショートランドに進出、10月末までにガダルカナル島輸送に10回従事、11月24日には第三次ソロモン海戦に参加した。 12月21日、日進を護衛して内地に回航され機銃増備工事を施工された。 1943年(昭和18年)1月、敷波は丙一号輸送(釜山〜ウエワク輸送)に従事、その後スルミ、ラエ、コロンバンガラ島輸送作戦に従事した。 3月、敷波は呉に帰投し訓令工事を実施され、工事完了後の4月9日、日進を護衛してスラバヤに進出した。 4〜5月に西部ニューギニア輸送に従事、6月からはスラバヤ方面で護衛任務に従事した。 9月20日には南西方面艦隊第十六戦隊に編入され、シンガポール方面で行動した。 1944年(昭和19年)1月、陸軍部隊をアンダマンに揚陸、3月にはインド洋に出撃、その後はビアク、ソロン輸送に従事した。 9月4日内地向船団を護衛してシンガポールを発したが、12日に海南島東方250海里でアメリカ潜水艦GROWLERの雷撃を受け沈没した。(2)(3)

艦名

艦名は海象。 次から次へとしきりに打ちよせる波。(4) 席田のいつぬき川の敷波に群れいる鶴の万代の声(九条良経後)

要目(2)(5)(6)(7)

新造時1944年9月
艦種一等駆逐艦
建造所舞鶴工作部
基準排水量 ※11,680トン
公試排水量 ※21,980トン
垂線間長112.00m
水線長115.30m
全長118.00m
水線最大幅10.36m
平均喫水3.20m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)4基
主機艦本式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力50,000馬力
速力38.0ノット
燃料重油:475トン
航続力14ノットで4,500浬
兵装50口径三年式12.7cm連装砲A型3基
留式7.7mm単装機銃2基
61cm一二年式3連装発射管3基
八年式魚雷18本
50口径三年式12.7cm連装砲A型3基
九六式25mm3連装機銃3基
61cm一二年式3連装発射管3基
乗員219名
その他開戦時までに7.7mm単装機銃2基を13mm連装機銃2基に換装。

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(3)

年月日履歴
1928年(昭和3年)7月6日舞鶴工作部において起工。
1929年(昭和4年)6月22日進水。
1929年(昭和4年)12月24日竣工。  呉鎮守府籍に編入。
1941年(昭和16年)11月20日第十九駆逐隊に所属。 呉発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 マレー半島上陸輸送船団護衛。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。
1941年(昭和16年)12月23日輸送船団の護衛を完了し、カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月24日カムラン湾発。
1941年(昭和16年)12月28日馬公着。
1941年(昭和16年)12月31日カムラン湾発。 バンコクへ船団護衛。
1942年(昭和17年)1月9日陸軍兵をパナマ丸に移乗。
1942年(昭和17年)1月11日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月15日カムラン湾発。 湾外哨戒に従事。
1942年(昭和17年)1月19日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)1月23日陸軍輸送船団を護衛しカムラン湾発。
1942年(昭和17年)1月30日カムラン湾着。
1942年(昭和17年)2月10日バンカ、パレンバン攻略作戦に従事。
1942年(昭和17年)2月21日カムラン湾発。 サンジャックに回航。
1942年(昭和17年)2月25日一等巡洋艦鳥海の警戒艦としてシンガポールに回航。
1942年(昭和17年)3月8日サバン島、タタラジャ上陸作戦の直接護衛に従事。
1942年(昭和17年)3月15日ペナン発。 アンダマン攻略作戦に従事。
1942年(昭和17年)3月19日ペナン着。
1942年(昭和17年)3月21日ペナン発。 ビルマ攻略作戦に従事。
1942年(昭和17年)4月11日シンガポール着。
1942年(昭和17年)4月18日シンガポール発。 内地に向かう。
1942年(昭和17年)4月22日呉着。 入渠整備。
1942年(昭和17年)5月27日柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。
1942年(昭和17年)6月16日呉着。
1942年(昭和17年)6月21日人員輸送艦として長良、浜風と柱島発。
1942年(昭和17年)6月22日横須賀着。
1942年(昭和17年)6月23日横須賀発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)6月30日呉発。 第十一駆逐隊とともにサンクレメンテ丸を護衛。
1942年(昭和17年)7月2日奄美大島着。
1942年(昭和17年)7月15日奄美大島発。
1942年(昭和17年)7月17日高雄着。
1942年(昭和17年)7月18日高雄発。
1942年(昭和17年)7月23日シンガポール着。
1942年(昭和17年)7月28日ベンシンガポール発。
1942年(昭和17年)7月31日メルギー着。
1942年(昭和17年)8月7日メルギー発。 マカッサルを経て、21日トラック着。
1942年(昭和17年)8月29日ラバウル着。
1942年(昭和17年)8月30日ラバウル発。
1942年(昭和17年)8月31日ショートランドに進出。 10月末までにガダルカナル島輸送に10回従事。
1942年(昭和17年)11月9日トラック発。
1942年(昭和17年)11月14日第三戦隊の直衛として、第三次ソロモン海戦に参加。 
1942年(昭和17年)11月18日トラック着。 以後、同方面で護衛任務に従事。
1942年(昭和17年)12月21日ラバウルより日進を護衛して内地に向かう。
1942年(昭和17年)12月27日呉着。
1943年(昭和18年)1月7日釜山発。 丙一号作戦(ウエワク輸送作戦)に従事。
1943年(昭和18年)1月23日ウエワク揚陸完了。
1943年(昭和18年)1月27日パラオ着。
1943年(昭和18年)1月30日トラック着。 同方面で護衛任務に従事。
1943年(昭和18年)2月19日スルミ輸送に従事。
1943年(昭和18年)3月3日浦波とラエ輸送に従事。
1943年(昭和18年)3月7日コロンバンガラ輸送作戦に従事。
1943年(昭和18年)3月17日呉着。 訓令工事に着手。
1943年(昭和18年)4月9日呉発。 日進を護衛。
1943年(昭和18年)4月18日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)4月28日スラバヤ発。 西部ニューギニア輸送に従事。
1943年(昭和18年)5月31日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)6月8日スラバヤ発。 足柄の護衛に従事。
1943年(昭和18年)6月9日マカッサル着。 訓練に従事。
1943年(昭和18年)6月9日スラバヤ着。 以後、同方面で護衛任務に従事。
1943年(昭和18年)9月20日南西方面艦隊第十六戦隊に編入。
1943年(昭和18年)9月29日シンガポール着。 以後、同方面行動。
1944年(昭和19年)1月23日陸軍部隊輸送のためシンガポール発。
1944年(昭和19年)1月31日アンダマンに揚陸後、シンガポール着。
1944年(昭和19年)3月2日青葉、鬼怒を護衛し、インド洋に出撃。
1944年(昭和19年)3月19日シンガポールで入渠。
1944年(昭和19年)4月13日出渠。
1944年(昭和19年)4月30日スラバヤ発。 ビアク輸送に従事。
1944年(昭和19年)5月19日青葉、大井とともにソロン輸送に従事。
1944年(昭和19年)6月1日渾作戦のためダバオを出撃したが、作戦中止となり、輸送部隊をソロンまで輸送。
1944年(昭和19年)7月12日シンガポール発。 マニラ輸送に従事。
1944年(昭和19年)7月22日シンガポール着。 25mm機銃を増備。
1944年(昭和19年)8月16日シンガポールで修理。
1944年(昭和19年)9月4日内地向船団を護衛し、シンガポール発。
1944年(昭和19年)9月12日海南島東方250海里でアメリカ潜水艦GROWLERの雷撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)10月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p37
  2. aa雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.東京,光人社,1997,p157-162
  3. aa前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 16巻 駆逐艦吹雪型〈特型〉.p182
  4. 広辞苑 第四版 電子ブック版
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p51
  6. 日本駆逐艦史.東京,海人社,1992,p84,世界の艦船.No453 1991/7増刊号 増刊第34集
  7. 田村俊夫.特型駆逐艦―吹雪型3タイプ23隻全軌跡.東京,学研パブリッシング,1992,p126-127,歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 70.(ISBN-13: 978-4056060201)