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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1967年(昭和42年)5月27日建立。 合祀者107柱。(1)

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伊二九潜戦没者慰霊碑

碑文

伊二九潜戦没者慰霊碑

伊二九潜水艦について

伊号第二十九潜水艦は第三次補充計画で建造された巡潜乙型(伊十五型)の10番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長躯敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜1型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した

次級の巡潜2型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜3型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜3型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜3型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。

当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長躯ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。 開戦後に竣工した伊号第十一潜水艦は、1942年(昭和17年)4〜7月にかけて。オーストラリア東岸で交通破壊戦に従事した後、8月から約1年にわたってペナンを基地に、インド洋〜アフリカ東岸までを行動し、商船7隻撃沈(45,024トン)の戦果を挙げている。 この間の1943年(昭和18年)4月にはマダガスカル南南西で、ドイツ潜水艦U180と会合し、インド独立運動家チャンドラ・ボーズを受け取っている。 11月5日ドイツ派遣第4艦として呉発、1944年(昭和19年)3月11日にロリアンに着いた。 帰路は4月16日にロリアン発、シンガポールを経由して呉に向かったが、7月26日バシー海峡でアメリカ潜水艦SAWFISHの雷撃を受け沈没した。(2)(3)

要目(4)(5)

艦名 伊号第二十九潜水艦
新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
建造所横須賀海軍工廠
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特5型2基
蓄電池2号5型×240
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(6)

年月日履歴
1939年(昭和14年)9月30日第百四十二号艦として、横須賀海軍工廠において起工。 
1940年(昭和15年)9月1日伊号第三十三潜水艦と命名。 
1940年(昭和15年)9月29日進水。 本籍を呉鎮守府と定める。 
1941年(昭和16年)11月1日伊号第二十九潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)2月27日竣工。 第十四潜水隊(第六艦隊附属・連合艦隊)に編入。 戦時編制。 隊は、先遣部隊(第六艦隊)付属部隊(第十四潜水隊司令指揮)に編入され、内海西部において就役訓練を下令される。 3月10日まで潜水学校の教務に協力を下令される。 横須賀発、呉に向かう。
1942年(昭和17年)3月1日司令潜水艦を伊二十八から当艦に変更。 
1942年(昭和17年)3月10日第十四潜水隊は、第六艦隊付属から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、就役訓練と出撃準備を下令される。 対米国艦隊作戦第三法を下令される。 
1942年(昭和17年)3月11日18:00、僚艦3隻と第十四潜水隊司令の指揮下に、準備出来次第出撃し、犬吠埼東方300〜700浬までを掃航、アメリカ機動部隊の索敵を下令される。 
1942年(昭和17年)3月12日僚艦3隻と呉発、本州東方に向かう。 
1942年(昭和17年)3月13日先遣部隊(第六艦隊)哨戒潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、アメリカ機動部隊を警戒のため、L散開線(東経160度)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月16日僚艦3隻とL散開線に到着、索敵。
1942年(昭和17年)3月18日僚艦3隻と、6:00、撤哨して呉に帰投を下令され、L散開線を撤収、呉に向かう。 先遣部隊哨戒潜水部隊は編成を解かれる。 第十四潜水隊主力(当艦)は先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に復帰、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月21日第十四潜水隊主力(当艦)は呉に帰着、補給待機。
1942年(昭和17年)3月31日隊は、先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第十四潜水隊司令指揮)に編入、敵主要艦隊の捜索、攻撃および、敵海上交通被壊を下令される。 作戦予定地域は未定。 
1942年(昭和17年)4月10日隊は、先遣部隊(第六艦隊)東方先遣支隊(第三潜水隊司令指揮)に編入、MO作戦に協力、要地偵察ほかを下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日呉発、広島湾において待機。 
1942年(昭和17年)4月16日隊は東方先遣支隊と、広島湾発、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)4月18日対米国艦隊作戦第三法を下令される。 アメリカ機動部隊が本土を空襲。 隊は、東方先遣支隊と邀撃のため、小笠原北方を経て、50度方向に索敵掃航を下令される。 
1942年(昭和17年)4月19日隊は、東方先遣支隊と、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、J散開線(東経147度)を経て、L散開線(東経160度)に向かい、索敵掃航を下令される。 隊は、東方先遣支隊と、夕刻、原任務に復帰を下令される。 隊は、東方先遣支隊と、転針、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)4月20日対米国艦隊作戦第三法止めを下令される。 
1942年(昭和17年)4月24日トラックに進出。 補給待機。
1942年(昭和17年)4月30日伊号第二十四潜水艦と、トラック発、ガダルカナル島南西方の散開線に向かう。
1942年(昭和17年)5月3日僚艦2隻とガダルカナル島西方150〜250浬から、C散開線(基点:南緯15度40分、東経156度37分、待敵方向310度、散開距離40浬)に向かい、アメリカ機動部隊の退路において邀撃を下令され、転針移動。
1942年(昭和17年)5月4日僚艦2隻とD散開線(基点:南緯15度40分、東経156度37分、待敵方向27度、散開距離150浬)に配備の変更を下令されたが、更に6日黎明時までに、C散開線に復帰を下令される。 
1942年(昭和17年)5月6日僚艦2隻とC散開線に到着したが、7日黎明時までに、E散開線(基点:南緯16度40分、東経157度、待敵方向90度、散開距離40浬)に配備の変更を下令され、珊瑚海を南西に進航。 
1942年(昭和17年)5月7日僚艦2隻とE散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)5月8日僚艦2隻とアメリカ機動部隊の追撃を下令され、E散開線から南下。 
1942年(昭和17年)5月10日MO作戦(ポートモレスビー攻略)は中止となり、艦はシドニーの偵察を下令され、解列してオーストラリア東岸に向かう。
1942年(昭和17年)5月13日シドニー沖に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)5月14日3:00、ウォースパイト型戦艦と駆逐艦各1隻を発見、シドニー湾外まで追跡。 攻撃の機会がなかった。 
1942年(昭和17年)5月16日ニューカッスル東南50浬付近において、ソ連貨物船「ウエレン(Uelen、5,135トン)」を砲撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)5月23日夜間、水偵によりシドニー港内を飛行偵察、戦艦等の在泊を報告。 先遣部隊指揮官は甲標的の攻撃を決定。 
1942年(昭和17年)5月24日支隊の甲標的による攻撃は、シドニー港内と下令される。 
1942年(昭和17年)5月26日支隊の甲標的による攻撃の間、シドニー港外において待機を下令される。 
1942年(昭和17年)5月31日甲標的の攻撃が実施され、シドニー港外において、甲標的の収容予定地点に待機。 
1942年(昭和17年)6月1日支隊の甲標的の収容捜索に加わる。 
1942年(昭和17年)6月3日支隊の甲標的の収容捜索を打切り、ブリスベーン沖に向かい、敵海上交通破壊に移る。 
1942年(昭和17年)6月4日ブリスベーン沖に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)6月10日ブリスベーン沖から、ヌーメア沖へ。 
1942年(昭和17年)6月13日ヌーメア沖に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)6月16日ヌーメア沖からクェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)6月25日クェゼリンに帰着、補給休養。 先遣部隊東方先遣支隊は編成を解かれる。 第十四潜水隊主力(当艦、伊号第二十七潜水艦)は、先遣部隊第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)7月14日クェゼリン発、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)7月21日横須賀に帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)7月27日横須賀発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)7月28日アデン、ソコトラ方面に配備、極力通商破壊に当たり、途中、チャゴス、セイセリズを航空偵察、ザンジバルに達し、アフリカ東岸を北上して配備につき、概ね二ヶ月でペナンに帰着と下令される。 以後、先遣部隊指揮官の直率になったと推定されるが、軍隊区分については不詳。 
1942年(昭和17年)8月5日ペナンに進出、補給待機。 
1942年(昭和17年)8月8日ペナン発、チャゴス諸島に向かう。 
1942年(昭和17年)8月15日チャゴス飛行偵察を報告、輸送船1在泊、軍事施設なし。 
1942年(昭和17年)8月セイセリズ諸島を飛行偵察。 
1942年(昭和17年)8月ザンジバル沖に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)8月モンバサ方面に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)9月1日ソコトラ島方面に進出、索敵。 
1942年(昭和17年)9月2日紅海入口付近北緯13度01分、東経50度41分において、イギリス貨物船「ガズコン(Gazcon、4,131トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)9月3日紅海人口付近の北緯13度34分、東経50度05分?において、イギリス油槽船「ブリティッシュ・ジーニアス(BritishGenius、8,553トン)」を雷撃したが、効果がなく。 追跡に当たり、北緯13度48分、東経48度04分において、再び雷撃したが、効果がなかった。 
1942年(昭和17年)9月10日ソコトラ島の81度210浬、北緯13度05分、東経54度35分において、イギリス貨物船「ハレスフィールド(Haresfield、5,299トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)9月16日紅海入口の北緯12度48分、東経50度50分において、イギリス貨物船「オーシャン・オナー(OceanHorner、7,147トン)」を砲雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)9月23日アラビア海中央の北緯10度03分、東経63度42分において、アメリカ貨物船「ポール・ラッケンバック(PaulLuckenbach、6,579トン)」を雷撃により撃沈。 ペナンに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)10月2日ペナンに帰着、待機。 
1942年(昭和17年)10月4日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1942年(昭和17年)10月5日シンガポール着、入渠修理、休養。 
1942年(昭和17年)10月23日シンガポール発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)10月24日準備出来次第ペナン発、約二ヶ月の予定でアフリカ東岸方面の敵海上交通破壊を下令される。 ペナン着、出撃準備。 
1942年(昭和17年)11月11日ペナン発、アフリカ東岸に向かう。 
1942年(昭和17年)11月23日アラビア海中央の北緯07度36分、東経61度08分において、イギリス貨客船「ティラワ(Tilawa、10,006トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)12月3日ソコトラ島付近の北緯11度29分、東経55度00分において、ノルウェー貨物船「ベリタ(Belita、6,323トン)」を砲雷撃により撃沈。 ソコトラ島付近から、アフリカ東岸を南下、ザンジバル方面に向かう。 
1942年(昭和17年)12月ザンジバル方面から、ペナンに向かう。 
1943年(昭和18年)1月4日ペナンに帰着、補給休養。 
1943年(昭和18年)1月26日ペナン発、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)1月27日シンガポール着、28日入渠、休養。 
1943年(昭和18年)2月1日先遣部隊から除かれ、南西方面部隊(南西方面部隊)馬来部隊主隊(第一南遣艦隊司令長官指揮)に編入、ベンガル湾方面の敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)2月5日隊は南西方面部隊馬来部隊から除かれ、南西方面部隊潜水部隊(第十四潜水隊司令指揮)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)2月7日シンガポール発、ペナンに向かう。
1943年(昭和18年)2月8日ペナン着、出撃準備。
1943年(昭和18年)2月14日ペナン発、ベンガル湾方面に向かう。
1943年(昭和18年)3月2日司令交替のため、ペナンに帰投を下令される。
1943年(昭和18年)3月7日ペナンに帰着、補給休養。
1943年(昭和18年)4月1日インド洋南部において、ドイツ潜水艦と会合し、人員および物件の托送交換の任務を下令される。 
1943年(昭和18年)4月5日遣独任務の江見哲四郎海軍中佐、友永英夫技術中佐のほか、機密兵器等を収容して、ペナン発、インド洋に向かう。 
1943年(昭和18年)4月17日南西方面部隊から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)4月26日マダガスカル島南南西約400浬において、ドイツ潜水艦と会合したが、波浪のため作業できず待機。 
1943年(昭和18年)4月28日遣独の人員と託送物件をU180号に移し、インド要人チャンドラ・ボースほかと託送物件を収容、ペナンに向かう。
1943年(昭和18年)5月帰港先をペナンからサバンに変更される。
1943年(昭和18年)5月6日サバン着。 インド要人を揚陸、待機。
1943年(昭和18年)5月8日サバン発、ペナンに帰着、待機。
1943年(昭和18年)5月13日ペナン発、シンガポールに向かうる
1943年(昭和18年)5月14日シンガポール着。 整備休養。
1943年(昭和18年)5月29日シンガポール発、ペナンに向かう。
1943年(昭和18年)5月30日ペナン着、補給待機。
1943年(昭和18年)6月8日ペナン発、アフリカ東岸からアラビア海に向かう。
1943年(昭和18年)7月8日アデン付近に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)7月12日9:22、アラビア南岸の北緯14度52分、東経52度06分において、イギリス貨客船「ラフマニ(Rahmani、5,291トン)」を撃沈。
1943年(昭和18年)7月14日紅海入口付近の、北緯12度23分、東経50度20分において、イギリス船「シティ・オブ・ウインザー(CityofWindsor(7,218トン)」を雷撃したが命中しなかった。 
1943年(昭和18年)8月2日ペナンに帰着、補給待機。 内地に帰投、整備を下令される。 
1943年(昭和18年)8月9日ペナン発、呉に向かう。 
1943年(昭和18年)8月18日呉に帰着、整備休養。
1943年(昭和18年)9月12日第八潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)9月15日第十四潜水隊(第八潜水戦隊)から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 第十四潜水隊司令は司令旗を当艦から撤去。 
1943年(昭和18年)11月5日日独連絡任務を下令される。 呉発、シンガポールに向かう。 
1943年(昭和18年)11月14日シンガポールに到着、補給、遣独準備。 
1943年(昭和18年)12月6日ドイツから帰投した伊号第八潜水艦の電波探知機「メトックス」を譲り受け、これを装備。 その操作を学び、潜水艦長は伊号第八潜水艦から体験を聴取。 
1943年(昭和18年)12月14日駐独大使館付武官小島秀雄少将以下20名を収容、約3ヶ月の糧食と、キニーネ、タングステン、モリブデン等の重要物資を搭載。 
1943年(昭和18年)12月16日シンガポール発、スンダ海峡を経て、フランスに向かう。 
1943年(昭和18年)12月23日インド洋中央の南緯26度、東経70度において、ドイツ給油船ボゴダと会合、補給。 
1944年(昭和19年)1月10日喜望峰南方600浬を経て、大西洋に入り、北上。 
1944年(昭和19年)1月27日セントヘレナ付近の敵哨戒海面を通過、北上。 
1944年(昭和19年)2月ドイツ潜水艦との会合点をアゾレス諸島南方600浬付近に指定され引き続き北上。 
1944年(昭和19年)2月13日ドイツ潜水艦との会合点に進出したが、敵空母を発見。 退避して待機したが、同夜敵機の爆撃を受けた。 
1944年(昭和19年)2月14日8:00、ドイツ潜水艦と会合、連絡将校イェニッケ中尉ほか2名と、新型電探ナクソスを収容。 アゾレス諸島を迂回、北上。 
1944年(昭和19年)3月3日フィニステル岬沖において、イギリス哨戒機の攻撃を受け、急速潜航した際、艦橋機銃の一等兵曹1名は、行方不明となる。 
1944年(昭和19年)3月10日ビスケー湾の第二次会合点に到着、ドイツ駆逐艦4、哨戒機7の護衛を受け、ロリアンに向かう。 
1944年(昭和19年)3月11日ロリアンに到着、人員、物件を揚陸、休養整備。 
1944年(昭和19年)3月14日潜水艦長は、駐独大使館付武官小島秀雄少将とともに、ベルリンに出張し、デーニッツ提督から、三級鉄十字章を授けられた。 
1944年(昭和19年)4月13日帰国する小野田捨次郎大佐以下18名、資料および物件を収容し、帰還の準備。 
1944年(昭和19年)4月16日8:45、ロリアン発、日本に向かう。 
1944年(昭和19年)4月17日イギリス哨戒機の爆撃を繰り返し受けた。 
1944年(昭和19年)4月23日イベリア半島西北端を経て、大西洋に入ったが、敵部隊の航過を水中において聴音、回避。 
1944年(昭和19年)6月2日赤道に到達、アセンション諸島沖に向かう。 
1944年(昭和19年)6月7日南緯10度43分、東経24度30分を経て、引き続き南下。 
1944年(昭和19年)6月11日ドイツに向かう伊号第五十二潜水艦と駐独大使館付武官との交信傍受。 
1944年(昭和19年)6月17日喜望峰沖西約600浬に到達、南東に向かう。 
1944年(昭和19年)6月21日喜望峰南方を通過、インド洋に入る。 
1944年(昭和19年)7月12日スンダ海峡に入り、駆潜艇の出迎えを受けシンガポールに向かう。 
1944年(昭和19年)7月14日シンガポールに到着、便乗者および、Me262ジェット機他の設計図書を揚陸、補給休養。 
1944年(昭和19年)7月22日内地に帰還する下士官兵約10名を収容、シンガポール発、香港を経て、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)7月25日6:30、ルソン島西方の北緯13度30分、東経121度55分において、敵浮上潜水艦を発見して回避。 
1944年(昭和19年)7月26日16:45、バリンタン海峡の北緯20度10分、東経121度50分において、浮上航行中、アメリカ潜水艦「ソーフィッシュ(Sawfish)」の雷撃を受け沈没。 同日、亡失認定。
1944年(昭和19年)10月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p12-13
  2. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p121-123
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p133
  4. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p65,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p19,53
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p647-654